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おとなりさんの診療所  作者: 蒼空チョコ
第二章 青竜と歯石除去

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青龍様の歯石除去

 さて件の翌日。とある寺のあやかしから歯石除去の出張依頼を受けた日です。

 歯周病や歯石除去といえば人間でもよく取り沙汰されます。

 すぐに命にかかわる事態ではなくても、長い年月をかけて確実に影響がある――つまりガンなどと同じく長生きするからこそ問題になるものです。

 基本的に寿命が長いあやかしにとってもそれは例外ではありません。

 人前で威光を振りかざす存在の歯がボロボロとか、口が臭いなんてイメージダウン不可避なので全国津々浦々、割と需要があったりします。

「うわぁ、これはまた凄いお出迎えですね」

「大名行列の規模で力を誇示したのと似たようなもんだよ」

 早朝、歯石除去の器具をまとめて準備したところ、お呼ばれしている寺からの使者が時間より少し早めに到着しました。

 彼らは古代中国式の風体で、道士や兵士がずらり。合計で十人ほどでしょうか。錫杖を持った仮面の道士が一番偉いのか、集団から歩み出てきます。

 その人物は右手の拳を左手で包み、礼を示してきました。

「主のもとまでご案内申し上げる」

 道士は言葉少なに告げると円形の隊列に並び直し、中央へどうぞとでも言うように手で示してきました。

「忘れ物はないね?」

 祖母の確認にそれぞれ手荷物を確認して頷き返し、斑さん、玉兎くんも含めて隊列の中央に入れてもらいます。

 準備が整いました。

 道士が錫杖をしゃんと鳴らすと付き添いは円を狭め、一斉にぼそぼそと呪文を口ずさみます。

 これはまさに魔法を唱えるような気配です。

 程なく吹いた風によって木の葉が舞い上げられ、視界を埋め尽くされました。

 そして、それが吹き去るなり風景が一変します。私たちを出迎えてくれるのは時代劇のような街並みでした。

 そこは大通りなのでしょう。二車線分もありそうな真っ直ぐな砂の道と、左右に家屋や店が並びます。時代背景こそ違う印象を受けますが、道を見渡せば碁盤の目状に配列されているという京都の様式が強く感じられました。

 江戸と京都といえば怪談の中心地。それを証明するように、多様なあやかしが道を行き交っています。有名な神社仏閣がたくさんある京都なだけにネズミやウシにトラ、果ては龍といった姿も多くありました。

 動物らしい四足歩行だったり、人じみた衣装で二足歩行だったり――。

 神意を代行するという神使たちは様々な姿です。

「小夜。目移りは後にしな」

 声をかけられ、私は我に返りました。祖母は錫杖を持った道士の先導についていこうとしています。

 見れば配下らしき道士たちは拳を握った形でお辞儀したまま動こうとしません。私たち客人が動かないと彼らはずっとこのままのようです。

 率先して歩く祖母はともかく、斑さん、玉兎くんは私が遅れないように待ってくれていたので早足で追いかけます。

 立派に舗装された坂を進んでいくと、件の寺が見えてきました。

 ここは娑婆でも有名なお寺です。記憶の姿、配色と違うのは、きっとこの地が作られた当時や人々の理想の姿を反映しているからなのでしょう。

 境内にいる道士や神使は一様に頭を下げており、私たちこそ行事の一団にでもされた気分です。

 厳かに口が閉ざされ、静まり返った敷地を進んでいくと巨大な建物に行き着きました。ご神体を祀り、お経を読み上げたりするのに使う一般的な本堂とはわけが違います。

 言うなれば神殿でしょうか。

 樹齢何年とも知れない柱が並び、人の身丈よりずっと高い屋根を支えています。

 後ろについてきていた道士は入り口で足を止めましたが、私たちは先導者の後に続いて施設内に入りました。

「奥へ参られよ」

 錫杖の道士は階段の前でお辞儀をすると端に控えました。

 今まで歩いてきたのも普通の施設なら本堂ほどの高さがあったのですが、この先こそがメインフロアのようです。

 すぅ、はぁと緊張緩和の深呼吸をしているのは玉兎くんでした。

 診療所のお仕事なわけで全員一様のスクラブを着ているわけですが、毛の取り残しや皺を気にしています。

 祖母と斑さんに関しては慣れた様子で、私もそれに倣って後を歩きました。

 その空間は何とも広々としています。

 巨大な屋根を内側から支えるために据えられた大木の柱が、首都圏の地下放水路の支柱のように立ち並んでいました。

 そんな異様な広さが必要とされる理由は目の前にいます。

「ぐるるる……」

 単なる吐息が唸りに聞こえるほどの龍がそこにいました。

 長大な体躯は柱の間を縫ってもなお余り、鎌首をもたげてこちらを見つめています。

 全身を覆う浅葱色の鱗に、獅子より立派なたてがみ。鋭く天に向かって立つ鹿角。まさに東洋の龍らしい姿です。

「遠路はるばるおこしやす。わざわざ人を払っているさかい、作法は気にせんでええよ」

 あまりに大きな青龍に気を取られ、傍にいる存在が目に映っていませんでした。

 そこにいるのは肌が少しだけ黒めで、オリエンタルの雰囲気がある女性です。

 着物をはだけ気味に着ている姿は煩悩を払う仏閣の印象に反して妖艶で、踊り子などの魅惑的な衣装の方がよほど似合いそうに感じられました。

 この場にいるからには、もちろん特別な存在です。

 単に意識として察するだけではありません。

 獣のような鋭さを感じさせる視線を向けられた瞬間、心が竦みかけるほどに彼女は本物の空気をまとっていました。

「ご配慮ありがとうございます、夜叉神様。かねてからのお話通り、私どもは青龍様の歯の処置をした後、境内の神使の処置もさせていただきます」

「もう、気にせんでええよって言うに祝部はふりべはいけずやねえ。そっちの神使二人はともかく、後ろのかいらしい子はどちらさん?」

「私の孫です」

「おや。娘も連れてこないのに孫とは」

 驚きばかりで気圧されていた私は祖母の視線に当てられ、慌てて頭を下げました。

 目の前にいるのが青龍と夜叉神なのでしょう。

 この青龍様は観音様の化身で、夜叉神様はそれを守るお役目。そして彼女は人の悪縁を断ち、良縁を結ぶとされる神でもあるとか。

 私としても一般的なあやかしは見てきましたが、神様と言われる相手との対面は初めてになります。事前説明が頭から抜け落ちるところでした。

 反省、反省と思いつつ、顔を上げます。

 ――すると夜叉神様の顔が目の前にありました。

 教室の端と端ほど距離があったのに、いつの間に歩み寄ったのでしょう。

 驚きの声は何とか噛み潰しましたが、心臓が止まるかと思いました。

「なるほど。確かにあんたさんとの縁が深い」

 夜叉神は悪戯っぽく笑みを深めました。

 なるほど、これはわざと驚かせようとしたのでしょう。そういうお茶目なところはあやかしという存在らしくも思えます。

 けれどもこの事態を前に、私の影はざわつきました。

「おっと」

 影が猛烈に噴き出すと、蛇のように私を取り巻いて夜叉神様を睨みます。

 我が家にいた様々な動物霊がセンリという形になったからなのか、咄嗟の事態には割と不定形になることが多いのです。

 相手が普通の存在ではないことは理解しているのでしょう。

 シャーっと明らかな威嚇を示すとまではいきませんが、おもちゃやおやつを取られまいとする時のように、声色高めの唸りを向けています。

 寸前に飛び退いてみせたことといい、夜叉神様にはセンリが見えているのでしょう。ふふふと楽しげに口元を緩めて私たちを見つめていました。

 彼女は楽しげではあるものの、あまりよろしい事態とは言えません。同じくセンリが見える玉兎くんが青ざめているのが良い証拠です。

「ああっ!? こら、センリ! す、すみません」

 一歩出遅れた私はセンリを抱えて宥めましたが、お偉いさんに対してこんな唸りなんて警備員に取り押さえられそうな事態です。

 私と玉兎くんの様子で、祖母と斑さんも事態を察したようです。

 状況を見回すと嫌な汗が額にじっとりと浮かび、息が詰まりました。

「ぐるるるる……」

 けれど、そんな雰囲気も青龍様が取りなしてくれました。

 人の身丈ほどにもなるその顔を、私たちの目の前に下ろしたのです。それはここまでという線引きにも等しかったかもしれません。

「観音さん、堪忍ねえ。お嬢ちゃんに絡みついている強い縁、どうしても見とうなったんよ」

 完全に砕けた表情で手を合わせた夜叉神様はことさら大きな歩幅で後退します。もうこれ以上はおふざけを挟まないという主張なのでしょう。

 距離が開いたこともあって、彼女は大きな身振りを交えて声を発します。

「あんたらも気にせんでええよ。その子は元悪霊でも、今はお嬢ちゃんを大事にしはっているようやし。そんな健気を咎める気はないし、悪いもんがくるりと裏返ったっちゅうのは悪鬼が仏教に帰依して善神になった夜叉も同じやからねえ」

 夜叉神様は「感心、感心」と笑っています。それは作り笑いなどではなく、良いものを見たと満足した様子でした。

 つまり言葉通り、お咎めなしということなのでしょう。

 それを表すように青龍様は口をがぱりと開きました。

 この話は終わり。続けて歯石除去をしてしまえという無言の圧力を感じます。

「それじゃあ、始めさせてもらおうかね」

 祖母は緊張の一息を吐くと私たちに目を配りました。

 こうなると後は診療所での働きと同じです。

 いかに動揺や緊張が押し寄せようと、処置開始ともなれば感情をひとまず置きざりにして集中することが反射になっています。

 てきぱきと器具を準備していると、夜叉神様はふわりと宙に浮いて観察にやってきました。

「それで、いつも何をしはるんやっけ?」

「歯磨きについてはご存知の通り。その磨き残しから増えた細菌は半日から一日程度で歯肉に炎症を起こしますし、犬なら四日前後で歯石になります。特に歯茎の溝はブラシでは磨ききれないので歯石と細菌が溜まりやすくなっているわけです。よって私たちはそれを削り、さらに研磨剤で表面の傷も磨き直して歯垢が付きにくくするのです」

 祖母が説明するように、歯石除去の概要はそんなところです。

 診療所や芹崎動物病院などからかき集めてきた歯石除去用の器具――超音波スケーラーは計四つ。私たちがそれぞれ手にします。

 なにせ青龍様は大きいのです。

 口吻だけでも私たちの腰くらいの高さがあるので、一人で作業していては終わりません。

 私は玉兎くんと並んで右側担当です。

(あ、意外に柔らかいですね)

 ワニの口みたく細かい鱗が覆い、いかにも堅い口唇かと思いきや、内側はそうでもありません。大型犬の黒くてふよふよした唇と似たものがあり、厚みもありました。

 歯の側面や歯茎の溝の歯石をスケーラーで削りつつ、邪魔になる時は手で押し避けました。

 ゴム手袋越しに体温を感じるし、吐息は髪を揺らします。

 カバの歯磨きをしても、これほどの臨場感はないでしょう。

 こんな動物園でも味わえない体験を密かに楽しみながら作業をしていると、夜叉神様は無重力さながら宙に漂いながら観察してきます。

 四人の周囲をぐるりと眺めて回った結果、寄り付いたのは玉兎くんのところでした。

「あらあら、神使の坊主。惚れ惚れする手際やねぇ。観音さんの血ぃ見る機会なんてそうそうあらへんし、ええもん見せてもろたわぁ」

 京都弁らしい表現が出ました。

 褒めたと見せかけて真逆の内容なので、聞いている私の胃まで痛くなりそうです。

 ちらと見るに、夜叉神はいじって遊ぼうとしているだけのようですが、災難に見舞われた玉兎くんには同情します。

 あの緊張具合ではどうでしょう?

 祖母たちは反対側ですし、場合によっては私が助け舟を出すことも考えなければなりません。

 そんなことを思っていたところ、深呼吸の音が聞こえました。

「この処置だけで血が出るってことは普段から歯茎に炎症が起こっていて血管が破れやすくなっていたんだと思います。美船先生が言った通り、磨き残しが炎症のもとです。口の内側の方が特に悪いのは、お世話をする人が青龍様に遠慮して内側の磨きが疎かにした証拠じゃないでしょうか」

 私の思いは杞憂でした。

 昨日の頑張りの成果もあったのでしょう。玉兎くんはこれに至った原因まで考察して返答します。

 その答えを聞いた夜叉神様はきょとんと目を丸くし、微笑みに転じました。

「ほう? それなら下のもんに遠慮せんと磨けとようく言いつけておくわ」

 きっとこれが最大限の賛辞だったのでしょう。

 満足した様子の夜叉神様は床に降り立つと、あとは静かに事を見守りました。

 


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