『富士の不死』
車で走ること三十分ほど。
市街地を離れた過疎地域におばあさんの家はありました。どうやらこのエリアには古くからの畜産家がいるらしく、畜舎や飼料タンクらしきものがちらほら見えます。
(ここはまた車外に出るだけでセンリがピリピリしそうな地域ですね……)
私の守護霊、センリは自宅一階にある動物病院に関しては近寄らなければ許容してくれるのですが、社会科見学で動物園に行った時などはやたらと警戒をしてくれます。
え、何。ここに入るの? 私がいるのに?
とでも言いたいのかなぁとは思うものの、言葉は通じないので本音はわかりません。ただ単に症状として私に動物アレルギーじみた反応が出るだけです。
ぼふりと毛を立て、いつもの二倍に膨らんだセンリが露骨に視線をくれていますね。そして鳴り続けている喉の音が少し低音で、太ももをふみふみする前脚は若干爪が立っているのです。
これはまあ、不機嫌を表す態度ですよね。浮気現場ではないのに手厳しいことです。
「そこを曲がったら道なりにあるよ」
「わかりました」
指示通りに進むとそれらしき建物が見えてくるのですが、同時に私は少し驚きました。
辿り着いた民家は表向きだと普通なのですが、その裏手が特殊です。
そこにあるのは木の囲いがある砂地だけの庭――恐らくは牧場でしょうか。
案内してもらった駐車スペースも四台は同時に停められる広さがあり、単なる田舎の敷地利用とは思えません。
おばあさんを手伝うために車外に出ると、使い古して錆びた大型ブラシのようなものやロープ、ペンチなどが放置されているのが目に留まります。
これらの器具には診療所でも見覚えがありました。大動物のブラッシングや牽引、馬の装丁などで使う品々です。
(もしかして、この人が『富士の不死』のおばあさんですか?)
家の表札も件の岸本という姓です。
その上に馬を飼養していて、家族はいない。そんな家庭は何戸もないでしょう。偶然の巡り合わせには本当に驚かされます。
「こんなところまで送ってくれて本当にありがとう。お嬢さん、お礼にお茶でもごちそうするから上がっておくれ」
「あ、はい。ではお言葉に甘えて……」
時間にはまだ余裕がありますし、何より真相に近づくチャンスです。
ただし、善意が思わぬ方向に転がった点には少しばかりの罪悪感を禁じ得ません。それが足に表れて出遅れたところ、センリが率先して追いかけていきました。
いつもなら私にぴったりついて歩くか、寝ていて姿を見せないところですが、不思議なものです。
ささやかな疑問を抱いていると、センリはとある建物に差し掛かったところで足を止めました。気になるものを見つけたどころではなく、中に睨みを利かせています。
(どうしたんでしょうか?)
その建物は手製と思しき味のあり、とても広い戸口は開放してありました。
倉庫や馬術クラブの受付にしては不自然なその建物を覗き込んでみると、すぐに理由がわかります。
これは厩舎です。
空きが目立つ馬房の中にただ一頭だけ黒いサラブレッドがいて、こちらを見つめていました。
馬というのは本当に大きいものです。私の顎の高さが背中の位置で、皮一枚下には筋肉の隆起が見える逞しさも迫力を後押ししていました。
少しばかり毛艶が悪かったり、筋張った見かけだったりするのは管理不行き届きではなく、加齢によるものでしょう。
人で言うところの白髪のような毛もいくらか見えました。
(ふむ。動物に反応するなんて珍しいですね)
センリはじっと馬を見ています。
動物園に行った時はむしろ私から離れなかったのに、どうしたのでしょうか。
「ああ、普通の人には物珍しいでしょう? うちは馬術クラブを廃業しちゃったんだけど、その子だけが最後まで残ってね」
「我が家は動物病院なんですけど、馬を見る機会はないですね。でもすごく丁寧に掃除をされているし、大切さが伝わってきます」
「もうこの子しかないからね。最後に残った大切な家族だよ」
言葉にすると、岸本さんは柔らかな表情で肯定してくれます。
例の噂では『馬が旦那を連れ帰ってくれた』という節がありました。
亡くなった旦那さんと岸本さんにはよく懐いていたものの、誰かに引き取られると酷く暴れて追い返されるという連続だったそうです。
調教をすれば意思疎通できるのは無論のこと、白衣を見れば獣医の注射を連想して暴れたり、世話係の足音を聞けばご飯などを察したりという頭の良さです。
性格というよりも家族との愛情故だったのでしょう。
「さあさ、上がってちょうだい。雑多な部屋だけど、気にしないでね」
「お邪魔します」
牧場や厩舎がある通り、家も少し特殊です。
玄関らしき段差はなくて、ぽんと置かれたマットが履き替えの境界でした。
案内された居間は間取りが広く、大きなガラス戸からは厩舎と牧場の一部が見えます。
土足での入りやすさや、この広さです。恐らくは施設利用者の食堂としても利用していたのでしょう。真ん中に置かれたテーブルも十人以上かけられる代物でした。
こうして招かれたのだし、手を出すのは不作法というものでしょう。
おばあさんが自宅用の酸素療法器具に付け替え、ケトルとお茶、茶菓子を持ってくるのを待ちます。
「お待たせしてしまったね」
「いえ、とんでもない。たくさんの物が飾られているので全部眺める時間もなかったくらいでした」
この場所は馬術クラブの思い出のみならず、旦那さんとの歴史も詰まっていることがわかります。
年季を感じる写真に楯、馬のお骨箱と思われるものにつけられた大会入賞のリボンなどなどが見渡す限りに飾られていました。
その中に異色なものも混ざっています。
それはひび割れ、破損したフルフェイスのヘルメットです。
飾られた写真の中にはライダージャケットに身を包み、バイクに跨った旦那さんの写真もあることから誰のものかはわかります。
けれど、これが何の傷なのか問うのはやめておきましょう。バイク事故の噂通りであれば悲しい記憶に直結してしまいます。
岸本さんは思い出を一つ一つ振り返るように遠い目で品々を見つめました。
「確かに思い出は詰まっているんだけど、お嬢さんに助けてもらった通りさほど調子もよくなくってね。そろそろ備えるべきには備えないといけないんだよ」
岸本さんはそう言って厩舎に目を向けます。
元よりそういう構造なのでしょう。厩舎の扉が開いているおかげで馬の姿が見えました。
「せめてあの子の貰い手を見つけてからでないといけないんだけど、なかなかねえ」
「どこかに預けたりはできないんですか?」
「いくつか貰い手になってくれそうな宛てはあったんだけど、預ける度に酷く暴れて追い返されてきたんだよ。お互いに歳ではあるし、あの子を看取るのが理想の形なんだけど、どうなるやら」
「あの子もどうしても一緒にいたいんですね」
「ははは、そうだねえ。そう思ってもらえているのは嬉しいよ」
預けたはずの牧場から送り返されたとはいえ、懐かれている自覚があるのは嬉しいのでしょう。岸本さんは素直に口元を緩めます。
けれども、彼女が貰い手を焦る気持ちもわかりました。
今日だって体調は思わしくなかった上、棚には複数の薬袋が見えます。
普通なら入院したり、老人ホームで介護付きの生活をしたりするところ、無理をして馬の世話まで続けて一人暮らししているのです。子供でもいたらもうやめてくれと止められる事態でしょう。
「最後まで責任をもって動物を飼うのは大変ですよね」
「そうだね。いくら美談にしようとしたって、あの子のご飯に治療、法律で決まっている手続きとかをちゃんとできないのは虐待みたいなものだよ。私の体調がどうであれ、そこは全うできるようにしないとね」
私が上手く祖母の後を継げば丸く収まる。そんな一途に歩めば報われる展開とは異なり、胸が重くなります。
ところで、不思議なものです。『富士の不死』は認知症のおばあさんと、旦那さんの黄泉返ったという目撃情報の噂でした。
しかし岸本さんは助手席から道案内をしてもらってから、茶菓子でもてなされる今までを振り返ってもしっかりした様子です。
件の旦那さんについても、生きていると誤解している節はありません。もういないと捉えていなければ、最後の馬の預け先探しなんてしないでしょう。
彼女が『富士の不死』の関係者とするなら、どこか不自然です。
「そういえば自己紹介がまだでしたよね。私は芹崎小夜という名前で、この近くの薬科大学に通っています」
「私は岸本恵って名前だよ。小夜ちゃんはあの大学に通っていたんだねえ。あそこの馬術部にも受け入れできないかって話をしたことがあるから知っているよ」
「そうでしたか。私が思いつく程度だともう実践済みですよね」
「気にしてくれてありがとう。今時、感心な子だね」
「いいえ。それから、岸本さん。あと一つだけ、思いつきを聞いてもらえませんか?」
もしかしたらと私の大学も預かる候補になるのではと思いましたが、馬がいる場としては最寄りになってもおかしくない距離です。やはりダメでした。
しかし私としての本題はこの次。
岸本さんさえよければ力になれることがあるのです。
「今は二月で冬休みですし、大学三年生になると授業数が減って割と余裕が出るんです。ここはバスもあまり本数がないですし、行きや帰りの時間でお手伝いができる時は協力させてください」
「いいんだよ。見ず知らずのばあさんなんだから、今日助けてもらっただけで十分だよ」
「はい、あまり手を出すのも有難迷惑にはなっちゃいますよね。だからたまにでいいんです。定期的にお話ができるだけでも、万が一、何かがあった時に気付いてあのお馬さんを助けたりできるかもしれませんから」
それは少しばかり卑怯な物言いだったかもしれません。
最後の馬の処遇を巡って悩みを抱いている岸本さんにとっては非常に大きな意味を持っています。
明らかな間を置いた後、彼女は問いかけてきました。
「――小夜ちゃんはどうしてそこまでしてくれるんだい?」
そう問い返してくることは予想できました。
だって、今日初めて会った人間がそこまで言い出すなんて明らかに変です。
それを上手く取り繕う方法や、誤魔化す方法ももしかしたらあったかもしれません。
しかし引け目を感じながら申し出たからこそ、この問いには正直に答えなければならないと感じました。
「私は、事情があって『富士の不死』と言われる噂を調べていたんです。その件がどういうものか安全に見極めることができたら、おばあちゃんの仕事を手伝っていいと言われました。岸本さんと出会ったのは本当に偶然だったんですけど……すみません。家族の中、孤立して頑張るおばあちゃんを一人にさせたくなくて積極的になっていたんです」
話してみるとどうでしょう。
岸本さんは一瞬、驚いたような顔をしました。
けれどもその表情が怒りや不審に染まることはありません。むしろ逆に破顔してこちらを見つめてきます。
「何をしているのか想像はできないけど、珍しいことをしている家族がいるんだねえ」
彼女はまるで本物の孫の話を聞くように頷きます。
「それだけ家族を手伝おうとしているなんて、いいお孫さんだよ。そういうことなら甘えさせてもらおうか」
事情があってと口にしたからか、岸本さんからの追及はありません。
ただ頭から爪先までを見て、好ましそうに目を細められるだけでした。
「小夜ちゃん。他にも何かを言いたそうな顔をしているよ?」
「あ、あのう。……心苦しいんですけど、できればお話を聞いてもいいですか? この噂は旦那さんが黄泉返ったんだって岸本さんが言ったことが始まりと聞いていて……。その、できればでいいんですけど……」
我ながらこれは図々しすぎるお願いで、縮こまる思いです。
怒られなかったのをいいことに言葉にしてしまいましたが、どんどん胸が痛くなってきました。
けれども私の反応とは裏腹に岸本さんは笑い飛ばします。
「いやぁ、恥ずかしい限りだよ。その話はバスで居眠りした時に夢を見てね。夢か現かと興奮して話したものだから、変に伝わったのかもしれないねえ」
「そう、だったんですか?」
「肩透かしな真相で悪かったねえ」
「いいえ! なるほど。そういうこともあるかもしれないですよね。答えてもらえただけありがたいです」
単なる噂が独り歩きとか、誰かが途中で誇張するというのも逸話や都市伝説ではよくあることです。
岸本さんの話を裏付けるように、亡くなった旦那さんの目撃例は続いていません。
イエティも噂の波が引くに合わせて弱っていきました。それと同じく膨らんだ噂があやかしを生んだけれど自然消滅したとか、野良あやかしが便乗した線もあります。
ともあれ、打ち明けてみれば気が楽になりました。
これならこれで詰め将棋のように次の捜査へ進んでいけることでしょう。私は憑き物が落ちたように清々しい気分で岸本さんとの談笑に花を咲かせるのでした。




