体調不良のおばあさん
本日は斑さんと兄を獣医学の講習会に連れていった一方、私は診療所で働くための残る二条件『富士の不死』と『鉄鎖の化け物』に関する情報収集です。
まあ、本日は情報の出どころや詳細は割とはっきりしている前者を狙いですね。
『富士の不死』。それは亡くなった旦那さんが生き返ったと言い回るおばあさんの話で、駅前の産直市や喫茶店などで語ったものだそうです。
私の調査もその軌跡を追うところから始まりました。
「お話どうもありがとうございました。あ、そこのキャベツとレンコンをください」
「あいよ。こいつ辺りが美味しいと思うぞ。シンプルにごま油と塩で食べても絶対に美味しいはずだ」
「わあ、ありがとうございます。お酒のお供にもよさそうですね」
「そりゃあもちろんよ!」
男性店員の目利きに感謝の笑みを向け、私は次の目撃現場へ移動します。
どうやら件のおばあさん――本名、岸本恵さんは二年前までは旦那さんと小規模な馬術場を経営し、駅や大規模施設などでチラシ配りをしていたそうです。
情報がしっかりと残っているのはその影響ですね。
そして旦那さんは二年前にバイク事故で他界。現在は岸本さんの調子も悪いらしく、近くの病院によく来るのだそうです。
「カウボーイ姿で気の良い旦那さんだったなぁ。彼女はその一歩後ろをついていくような人でね、それはそれは満ち足りた様子で旦那さんを支えていたんだよ。そんな相手も亡くなって、馬も各地にほぼ売却したそうで見る間に元気がなくなっていたんだ。それがある日、『うちの馬が旦那を連れて帰ってくれたんだ』って笑顔で語ってね。認知症でも出たんじゃないかって話をしていたんだ」
「けれどおばあさんだけでなく、他の人も旦那さんを目撃した。だから『富士の不死』なんて噂が立ったんですよね」
「そうだよ。お嬢さんはそれを解決しに来たのかい?」
情報を追って入った喫茶店のマスターに問いかけられます。
プライバシーもあるでしょうに口が軽くて助かると思ったら、それだけではなかったのかもしれません。
このマスターは世間の裏まで噂を拾う情報通なのでしょうか。
長袖シャツに蝶ネクタイ、ベスト、ソムリエエプロンとまさにマスターらしい装いで、頭髪はロマンスグレーのおじさまですが、どうにも衣装に着られている印象があります。
さては脱サラして一発、夢の喫茶店経営に踏み出したばかりなのでしょうか。
「いえいえ、そういう物事を解決する力なんて私にはありませんよ」
「そうかい? 大きなバッグかキャリーを持ったお淑やかそうな文学少女が訪ねて回った怪談は解決されるってここ一、二年くらい噂に上がっているんだが」
「私は単に噂好きな大学生です。こちらのバッグも産直市で買ったお野菜が入っているだけですし」
冗談がお上手と微笑み、淹れてもらったコーヒーに口を付けます。
実際のところ、バッグの隅には不穏な品々が詰まっているので見せはしません。
私が全てを話してもせいぜい護身グッズで武装した不審者止まり。解決する力がないのは事実なのですから。
私は事件を見極め、祖母や斑さんに託すだけ。薬の提案くらいはしますが、できるのはあくまで補助的な働きのみです。
それに、唯一の特異ポイントであるセンリはもうカウンター上でくつろいでいます。この子が見えないというなら、これ以上はすべき主張もありません。
「ごちそうさまでした。お話に付き合ってくれてありがとうございます」
「いやいや、お昼前でお客さんも少なかったからね。仕込み中だし、カウンターを離れない理由ができてよかったよ」
話の最中、マスターは時折シチューをかき混ぜていました。
アンティークな装飾と家具、コーヒーの香りで落ち着いた雰囲気のお店は、昼時になると洒落たランチメニューも振舞ってくれるようです。
こういう雰囲気は街の洋食屋さんと同様にとても心をくすぐってきます。
今日のメインはビーフシチューらしく、濃厚な香りに唾液を誘われました。
鍋を見れば、浮き出た油にトマトの色素が混ざってルビー色に輝いています。
ああ、わかります。
こういうシチューは肉と野菜が溶け合ったコクと、トマトの酸味が適度に混ざり合って、舌を痺れさせるほどに美味しいものです。
これは間違いなく美味しい一品と確認できました。情報のお礼も兼ねて、兄と斑さんを連れてくるのもいいかもしれません。
さて、支払いを終えた私は腕時計を見ます。
講習会が終わるまで、まだ二時間はありました。
それまでずっと待ちぼうけを食らうくらいなら、件の馬術場近くを訪ねて黄泉返りをしたおじいさんの情報を当たってもいいかもしれません。
「それにしても富士山と不死ですか。竹取物語に出てくる不老不死の薬を燃やしたのが富士山ではあるんですけど、黄泉返りの話ではないんですよね。予想した逸話と実際の噂が噛み合わない時はまだまだ再考の余地アリです」
月に帰るかぐや姫は帝に不老不死の薬を預けたものの、生きる希望を失った帝は富士山で薬を燃やさせた。そんな後日談があることは、逸話好きな人なら聞き覚えがあるでしょう。
どこかのあやかしが力を得るために逸話をなぞる事件を起こしたか、はたまた逸話がなぞられたためにあやかしが生まれたか、単なる勘違いか。
要素が似ているというだけでは断定できません。
「一旦、車を取りに戻りましょうか。……おや。センリ、どうかしたの?」
歩み出そうとしたところ、私の影からセンリがずるんと滑り出てきました。猫は液体なんて言われますが、この子はそれに拍車がかかっている気がします。
それはさておき、前肢を突き出して伸びをしたセンリはその場に座りました。
普段はその後、じっくりと顔を洗ったり、抱っこをせがんできたりするところですが一方向を睨んだままです。
何に興味を引かれたのかと視線を追ってみると、一人のおばあさんがうずくまっているのが見えました。
これはいけません。私はすぐさま駆け寄ります。
「あのう、大丈夫ですか?」
「……ああ、心配いらないよ。少し、息苦しく……なってねえ……」
「このカート、座れますよね。お手伝いします」
近寄ると、おばあさんはカートから伸びる管を鼻に入れていることがわかりました。
テレビ等で見かける病院の重病患者がこうして酸素吸入をしていた記憶があります。
うずくまって胸を圧迫するよりは楽になるはずと、ひとまず体を持ち上げてカートに座らせてあげました。
さて、この装備は一体何なのでしょう?
苦しそうなおばあさんに答えさせるわけにもいきませんし、待っている間に携帯で検索をかけてみます。
私が調べをつけた頃、おばあさんの呼吸も落ち着きを取り戻しました。
「お嬢さん、どうもありがとうね」
「いえいえ。それよりこの後は大丈夫ですか?」
「そこのバス停から家に帰るだけだから心配いらないよ。息苦しくなるのはいつものことだからね。少し歩きすぎただけだよ」
「調べさせてもらったんですけど、これは携帯用の酸素ボンベですよね。酸素量やバルブに問題ないか確かめてもいいですか?」
「それはどうだったかねえ」
問いかけてみると、確証はないのか少し不安げな表情です。
このカート内に収納されたボンベを見るだけなので大した作業でもありません。おばあさんと一緒になってそれを確認します。
おっと、これは確かめて正解でした。
圧力計の目盛りは赤い範囲を振り切り、ゼロを示しています。
「これはもう空っぽということですよね。ご家族か病院に連絡を取りませんか?」
「家には家用の機械があるし、替えもあるから心配はいらないよ。それに一人暮らしで呼べる相手もいないからねえ」
それならせめてボンベを売っていそうな病院にでも送り届けたいところですが、ふと考え直します。
行先によってはバスの本数も限られますし、酸素ボンベのやり取りは病院ではなく、ガス会社と直接取引をするという図式も検索中に見かけました。
病院へ送り届けても替えのボンベがないとか、高くついて年金生活者には辛いなどとかえって迷惑になってしまう可能性もありそうです。
やんわりと断ろうとするおばあさんの顔を見つめ直しました。
「バス停には人がいないですし不安です。おばあさん、私は車で来ているので家まで送らせてくれませんか?」
「いいんだよ、そんなに気を遣わなくたって。お嬢さんも用事はあるでしょう?」
「それが二時間ほどどこかで時間を潰さないといけなくて。この後も気がかりになってしまいそうなので、手助けさせてください」
押しつけがましくなってしまいますが、私にも祖母がいて不安になるのは確かなのです。
正直に訴えてみると、遠慮がちだったおばあさんの方が折れてくれました。
「それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらうよ」
「はい。すぐに車を持ってくるので少し待っていてください」
そう伝えた私は足早に駐車場へ向かうのでした。




