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おとなりさんの診療所  作者: 蒼空チョコ
第二章 青竜と歯石除去

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ウサギとカメ

 あやかしといえば正体がわからない妖しいものたち。

 そんな彼らが好むのは、正体がおぼろげになりやすい黄昏時から明け方となるのが大多数です。


 つまり一般的なあやかしは寝坊助さんなわけで、早朝のまほろばは印象がかなり変わってきます。


 この時間に見られるのは基本的に神様と精霊に妖精、そして野生動物。

 私が家からまほろばの稲原に降り立つと、周囲には木霊が現れました。


「おやおや。お出迎えをしてくれるんですか?」


 しゅるしゅると蔓が絡み、枝葉と苔が生い茂って形を成していきます。


 その姿は様々。

 虫や小人のような姿もあれば、鹿ほどの動物じみた姿もありました。


 彼らは植物そのものの写し身で、精霊の一種なんだとか。

 私の後を追ってくるものだから、さながら森の動物と戯れる白雪姫の気分です。


 彼らは無邪気にひたひたとついてきて、ある程度の距離になると急に足を止めます。

 植物の化身だからこそ、一定範囲しか動けないらしいですね。



 そんな同伴と歩きながら診療所の敷地内に着きました。


 人気がないのをいいことに散歩していたキジは、私の姿を見るや藪の中に消えていきます。

 刑部や雷獣もどこかにいるはずですが、きっと温かくなるまでは出てこないでしょう。


 さあ、朝の仕事を手早く済ませなければ。

 私は裏口から入って着替え、髪の毛を結いながら処置室に入ります。


 朝の動物病院でおこなうのは入院患者のご飯準備や投薬のほか、点滴の補充や血液検査、レントゲン検査などなど。

 入院があれば世話と処置はつきものになります。


 夜間に急患があった可能性もあるので、私はひとまずカルテを確認しました。


 カルテ収納箱には新着が二件。

 やはり来院があったようです。


「かまいたちの裂傷と、夜雀の脳震盪ですか。ふーむ、妙な話ですね。二件とも、まるで意趣返しのようです」


 人間を転ばせ、切り裂き、癒すという三位一体の妖怪に、人を夜盲症にさせる妖怪です。


 甲府の中心地を外れれば散歩中の犬がイノシシに出会うこともちらほらありますし、鳥がガラスに激突する例も耳にします。

 そういう意味では、かまいたちや夜雀が同様に事故を起こす可能性もなくはありません。


 しかし、一般的な動物より身体能力も知能も勝るあやかしがこうも立て続けに事故を起こすものでしょうか。


「この文字は斑さんですね。でも走り書きで記述が中途半端です」


 肝心の発端は書かれていませんでした。


 流血しているかまいたちが運ばれてきたので、すぐに止血と縫合をする流れとなったのでしょう。

 処置優先で書き忘れが出ても無理はありません。


 後で指摘するとして、ひとまず投薬の準備といきます。


 ところで、これがまた特殊なお仕事です。

 同じ犬でも小型、大型など、品種によって体格が違ったり、犬と猫で薬の適正量が違ったりするので、『成犬なら二錠』などというような規格はほぼありません。


 だから薬の準備は体重から必要量を計算し、錠剤をハサミで割って分量調節する作業となります。


「市場が小さいのは本当に悩ましいですね。特に小さな患者さんに処方する時、錠剤を八分割した時にはカルチャーショックでしたよ」


 あまりに少ないと液剤に溶かし、シリンジで『毎食後〇ミリずつ飲ませてください』というパターンもあります。

 人の業界なら、小児科であるかどうかでしょうか。


 そんな準備が終わった後は処方の薬が自分の予期したものと同じか答え合わせをしたり、何故その薬を選択するのか理屈を考えたりします。


 薬一つを取っても値段、副作用との兼ね合い、組み合わせ、内臓の健康度と分解能力などなどが深く関わってくるので生半可な知識では務まりません。

 これこそ薬剤師としての本分なわけです。


 この症状ならこれと、ある程度お決まりの処方になるとはいえ、今は本を開いて勉強あるのみでした。


「こういう時間に活動するとウサギと亀の気分に浸れますね」


 もしもし亀よと、童謡を口ずさんでいると階段から足音が聞こえてきました。

 下りてきたのは斑さんです。


 祖母と斑さん、玉兎くんは診療所の二階に住んでいます。


 こうして降りてきたのは偶然なんてわけではなく、この時間から入院患者の世話をする約束をしていたからでした。


「おはよう、小夜ちゃん。童謡なんてまた懐かしいものを歌っているね」

「おはようございます。斑さんが休んでいる間にいろいろと勉強して驚かせようと思ったら何となく思い出しまして」

「小夜ちゃんがウサギなら一切手を抜かずに走り切ってしまいそうだよ」

「相手を侮ってはいけないとおばあちゃんにきつく言われていますからね。私はわき目も振らずひた走るウサギちゃんです」


 私は背中に伸びる髪をウサ耳に見立てて持ち上げます。

 その意図を察してくれたのか、彼は笑顔で反応してくれました。


 そうそう、髪といえば目の前の斑さんは珍しくぼさっと寝癖が目立っていますし、スクラブを着たままです。


 カルテの記述忘れもありましたし、着替える手間も惜しんで休んだのでしょう。

 常日頃から綺麗な身なりで、汗で額を光らせることもない彼としては珍しいことです。


「このカルテの処置はそんなに大変だったんですか?」

「いや、断続的に来たからまた続くかもしれないと思って着替え損ねたんだ。おかげで体が重いよ」

「お兄ちゃんも夜間対応が多い時は死んだ顔になっていました」


 夜に急患依頼の電話が来るけれど、連絡なしで来るのをやめる人がいたり、トラブルの発生率が高かったり。

 そういったことの積み重ねでノイローゼになって夜間対応をやめるところもあると聞きます。


 助けている実感があるとはいえ、大変な世界なのです。


「これから座学だっていうのに寝ないでいられるか不安だな」


 斑さんが言う座学は獣医療に関する講習会です。


 このあやかし診療所は祖母の知識で成り立っています。

 しかしながらそれを学び取るだけで最善を尽くせるかといえば、答えは否。


 新しい手術法だとか、医療器具で精査する時のコツだとか――そういった知識は常に更新が必要なので、斑さんは兄と共に積極的に参加しようとしているのです。


「どうしましょう。それなら手が必要な処置だけ先にして、ぎりぎりまで寝ますか?」

「いや、空きっ腹にコーヒーでどうにか誤魔化しておくよ」

「折角の講習会なので出来る限りいいコンディションで臨んでくださいね」

「善処するよ。小夜ちゃんもわざわざ足を買って出てくれてありがとう」

「いえいえ。近場ですし、私も情報収集が必要だったので」


 単なるお手伝いというわけでもありません。


 私はイエティの時以来、消息が掴めていない『鉄鎖の化け物』と『富士の不死』を調べる必要もあったので運転を請け負ったのでした。


「千差万別のあやかし相手です。医者や獣医としての知識では賄いきれないですし、これからの体系づくりが重要ですよね」

「そうだね。そしてそれはきっと僕の仕事だよ」

「斑さん、こうして頑張っている姿だって見せている私にそれは寂しい物言いです。一生懸命に走るウサギが一緒にいれば百人力とは思いませんか?」

「それは悪かったね。うん、手伝ってくれると心強いよ」


 安否を気遣って腫れ物みたく扱われるばかりではありません。

 診療所のことにおいて認めてくれる点はとても面映ゆいものです。


 希望した通りの反応が返ってきた手前、少し気恥ずかしくなっていたところ、斑さんは不意に顎を揉みました。


「どうかしましたか?」

「頼もしいのもいいけれど、小夜ちゃんの心に留めておいてほしいことを思い出したんだ。ウサギとカメの話は慢心の禁物とか努力の重要性を説く話だったけれど、少し違った流れもあるんだよ」

「どんなお話ですか?」

「競争するのは同じ。だけど、カメは走るんじゃなくて自分にそっくりな家族をコースに配置して、自分はゴールに潜んでいたんだよ。慢心も関係なく、そういう勝負に乗っただけで負けることもある。あやかしの業界ならより一層注意をしないとね」

「なるほど。アメリカの民話ですね。日本人にとっての小泉八雲みたいなものです」

「残念。小夜ちゃんはこれも勉強していたか」


 彼はしてやられた様子で眉間を押さえます。


 それはリーマスじいやの物語という、アメリカの民話の再編にある話です。

 つい先日、つららさんの一件があった私としては思いつきやすい話でした。


 気を利かしてくれていた斑さんは少しばかりしょげた表情です。


「そんな顔をしないでください。どうであれ、斑さんが助けてくれるのは頼もしいですよ。そもそも、ああいう物語はイジワルなんです。ウサギの怠慢やカメのズルを咎めてくれる人がいたら結果はウサギの順当勝利じゃないですか」

「そっか。少しでも力になれているようで何よりだよ」


 苦笑気味の斑さんと共に私は入院室に向かいました。


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