診療所としてできること
後日、私と斑さんはつららさんを呼び寄せ、また車を走らせました。
倒した後部座席にはイエティも乗っており、さながら先日の再現です。
けれどもあまり事情を伝えずにつれてきた影響なのか、彼女はやたらとびくびくしていました。
しかも何故か道路の案内標識を見るほどにその顔色は悪くなっていきます。
はて。
何か怖がる要素でもあるでしょうか。
「あのう、小夜ちゃん。どうして富士の方向に? ちらほらと式神が飛び交っているのも見ますし、まさか私とイエティさんを魔祓い師に売るなんてことは……!?」
「いえいえ、そんな闇に葬るみたいなお話じゃないですよ」
富士の樹海が曰く付きの場所とはいえ、それは全くの見当違いです。
祖母にいくら迫力があると言っても私はただの大学生。
この業界に入門して一ヶ月の新人ですし、魔祓い師なんて巳之吉さんにとってのあやかしと同じく話に聞くだけの存在です。
「誤解なきように言っておくと、向かっている先は巳之吉さんのところの風穴です」
「えっ。でも家には近づくなと……。不安を抱かせることになりませんか?」
「イエティの治療をしている間に気付いたことがあるんです。その不安を払拭するかもしれないことを伝えるだけですし、過度な心配はいらないですよ」
感動は落差が命です。
ドッキリと同じく、それらしい気配を感じさせてしまえば余裕ができて本音の顔が見えなくなります。
場合によっては感動で涙を流す姿が決め手になることもあるかもしれません。
意地悪くなってしまいますが、つららさんと巳之吉さんには概要を伝えられないのです。
困った顔をしていると、斑さんは苦笑をこちらに向けてくれました。
「美船先生にも相談しての判断だよ。思いつきというわけではないから安心して欲しい」
「いえいえー。お二人のことは信頼していますので」
では、その信頼に応えないわけにはまいりません。
入念に脳内リハーサルをしていますが、それでも本番を前にすると緊張します。
そうこうしているうちに車は風穴前に着きました。
以前と同じく先客の車が路傍に停まっており、巳之吉さんが運転席から出てきます。
私たちもそこに車を停め、後部座席を振り返りました。
「つららさんは一応ここにいてください。まずは私と斑さんでお話してきます」
「わ、わかりましたぁ」
この予定を伝えるついでにイエティの様子を確認してみます。
やはり予想通り、つららさんを構うことも忘れて前方を凝視していました。
これを見た私と斑さんは頷き合わせて車外に出ます。
「すみません、お待たせしてしまいました」
「いや、構わない。ただ、一体何の用なんだ。あの車内には彼女もいるな? 悪いが、下手な仲裁なんて控えてもらいたい」
「いいえ。私が一目会わせておきたいと思ったのは、ここを『開かずの風穴』にしていたあやかしの方です」
「なに……?」
巳之吉さんは結局、あの子の姿を見ずに終わっていました。
だからこそ会わせてみる価値はあります。
私が車に視線を投げると、斑さんがイエティを慎重に誘導してくるところでした。
僅かに覗いたつららさんは慌てて隠れ、それを目にした巳之吉さんもやりにくそうに顔をしかめます。
「ただのユキヒョウ――ではないな」
「はい。巳之吉さんの研究の話が日本中に広まって生まれたイエティです」
「それがどうしたと言うんだ。こんなあやかしを生んだ責任を取る必要があるという話だろうか?」
「そうじゃありません。この子は巳之吉さんがつららさんにどういう気持ちを抱いているのか知る術になると思って連れてきました」
「感情は数値化できない。自分ですらわからないものがイエティにわかるのか?」
「正確にはイエティだからではなく、あの子だからわかるんです」
イエティはつららさんには懐き、私や斑さんとは野生動物のように距離を取ろうとしていました。
普通に考えれば、巳之吉さんは一般人である私と同じく適度な距離感を保たれることでしょう。
「ぐるるるぅっ……!」
ですが実際は違いました。
低重音の唸りが漏れる通り、イエティは初対面のはずの巳之吉さんを見て牙を剥きます。
不思議なことに、つららさんにも巳之吉さんにも初見で特別な反応を見せるのです。
そこに全ての答えがあります。
「この子は確かにイエティに関する人の想像が生んだあやかしです。でも、時としてあやかしは特定の人の想いに強く影響されます。だって単に聞きかじった人の空想より、直接向けられる感情の方がよっぽど強いですから。人を化かしたあやかしがつい興奮して事件を起こすのも、危機に瀕した人の感情に煽られるのが一因と聞きます」
よく言うように、好きの反対は無関心なのです。
単なる関心より、愛や憎しみがとても強い感情なのは人としても理解しやすい話でしょう。
それなら巳之吉さんは、つららさんに対してどれだけの感情を抱いていたでしょうか。
「ずっとあやかしを理解しようと研究に明け暮れていたそうですね。今までを振り返ってください。あなたはどんな気持ちで研究に臨んでいたんですか?」
十年、二十年と実家に帰ることも疎かにするほど熱心に研究する。
それは最早、信仰と言ってもいいほどの気持ちです。
あやかしにとっても特別でないはずがありません。
「……そういう影響は受けると聞いている。ただ、このイエティが私の影響を受けているという確証なんてどこにもないだろう?」
「いいえ、あります。もっと居心地がいい風穴もあるのに、この子はどうしてここを選んだんでしょうか? ここはつららさんが維持管理に力を貸しており、言わば持ち主が明らかな巣穴同然です。野生動物なら警戒して近づかない条件じゃないですか」
「雪山が背景にあるあやかし同士だ。親近感を覚えたっておかしくない」
「そうですね。その疑問は残ります。イエティが特別扱いしたのはつららさんだからなのか、同族のよしみなのかはわかりません。でもですね、その辺りはこのイエティちゃんが私と巳之吉さんにどういう態度で接するかでわかると思いませんか?」
私は巳之吉さんの傍に歩いていきます。
イエティがどちらに視線を向けるかわかりやすいように左右に分かれてみても、巳之吉さんよりイエティに近づいてみても、視線はずっと彼に集中したままでした。
もう、敢えて説明する必要もないでしょう。
巳之吉さんはずっとあやかしの研究を続けており、知識が豊富な人です。
私がどういう結論を導き出したいのかは、なんとなく察しているのかもしれません。
彼は根負けしたように、その答えを口にします。
「……つまり、このあやかしの振る舞いは私の影響だと?」
「少なくとも大きく影響は受けていると思います」
答えてみると、どうでしょう。
自分を律するように厳しく刻まれていた巳之吉さんの眉間の皺は次第に解れていきます。
彼は今も牙を剥かれているにも関わらず、力が抜けた様子でした。
「なるほど。よくわかる。親父やお袋と同じように、彼女と何の気兼ねもなく接することができたらいいとも考えた。けれど、思っていても不安が邪魔してそれをできない私自身は嫌いだった。もし私の半身がいるなら、こうして牙を剥くのも腑に落ちる。……しかし、それを見せて君たちはどうしたい?」
「特に何もありません。ただ、知ってもらいたかったんです。巳之吉さんは自分の気持ちを疑っていましたけど、恥じる必要はないものだったと思います」
「だが、それでもこれからの不安で私は彼女を拒絶した。褒められるべきでもない」
「そのこれからについて、私からも一ついいですか?」
「なに?」
「だって私たちはあやかし診療所の者です。動物病院然り、治療後は退院するものなのでこれからについてもお知らせします」
こんなことを言われるとは思っていなかったのでしょうか。
巳之吉さんは意表を突かれた様子で私を見つめてきます。
「もし仮に、巳之吉さんとつららさんの縁がここで途切れたとしてもこのイエティはきっと見守ってくれます。あやかしの寿命は果てしなく長いものです。ともすれば、普通の家との繋がりより長く続くものかもしれません。あなたはつららさんから家との繋がりを奪ったと思っているかもしれませんが、これからもずっと彼女を慕ってくれる存在を産んでもいるんですよ。だから今後についても悲観するばかりでなくていいと思います」
「……っ」
死を感動的に伝えるように、これはイエティの退院を綺麗に伝えただけです。
事実は事実。何も変わりません。
けれど捉え方くらいは変わるでしょう。
イエティは今の巳之吉さんを見ると興味を失ったように踵を返し、車内に飛び入りました。
その勢いがありすぎて「ひゃあっ!?」とつららさんの声が上がります。
何の気兼ねもなければ、彼の半身はあれだけ彼女と身近にいられるのです。
「以上になります。巳之吉さん、お手間をかけました」
「……いや、ありがとう。こうして伝えてもらって、気が楽になった」
深々とお辞儀をした巳之吉さんの表情は少しだけ晴れやかになっていました。
彼の半身が怒ることもなくなったのです。
単なる心境の変化ではなく、根幹の部分から変わったかもしれません。
「今はまだ、まともに顔を合わせる自信はない。けれど、仕事をやめて時間はできた。今の状況に合わせて少しずつ変わっていこうと思う」
「はい。ご健勝、お祈りしています」
私は彼に笑顔を返し、この場を後にしました。
車に戻ってみるとつららさんはイエティに押し倒された格好のまま、顔を押さえています。
涙を流しているのを隠しているのはわかりました。
「小夜ちゃん、斑さん、ありがとうございますぅ……!」
「大したことじゃないですよ。どうなるにせよ、この子はイエティとしては特殊でまほろばで生きるにしても定期的な駆虫とかは必要になるでしょうし、飼ってくれる人がいた方がいいんです。冷蔵庫の検査のついでに連れてきてくださいね」
元よりつららさんが保護するという形で話は進んでいましたが、我が家も商売です。
これくらいは絡めたってバチは当たりません。
ハンドルを握って出発すると、「程々にね」と斑さんが息を吐いたのでした。




