イエティに使える抗生物質
「――そうですか。ご両親の命がかかると思っちゃったら仕方ないことだと思います。むしろ、そこまで気にしてくれただけ嬉しいですよ。ありがとうございますぅ……」
巳之吉さんとの話を伝えると、つららさんは涙を流していました。
けれども胸を締め付けられるような苦しさはそこには見えません。
悲しい一方で納得している雰囲気が見えます。
そんな彼女には、私にとってのセンリのようにイエティが寄り添っていました。
涙を舐め上げ、悲しんでいる表情を崩すように顔をこすりつけています。
不思議なものです。
つららさんだけをこれだけ特別扱いするなんて、とても突然生まれ出たあやかしとは思えません。
やはりこのイエティには、何か秘密が隠されているのではないでしょうか?
そんな疑問を抱きながらも私たちは帰宅し、イエティの歩調に合わせてあやかし診療所に向かいます。
「おばあちゃん、ただ今帰りました」
「おや、案外早かったね。取り押さえるのに苦労するかと思っていたよ」
処置室に行ってみると、祖母は何やら大仰な書状――恐らくは手紙に目を通しているところでした。
あんなものを使うとすれば、どこぞの神様や仏様くらいです。
神社仏閣にいる神使や狛犬の出張診療や歯石除去でも頼まれたのかもしれません。
それはともかく、裏口から処置室に入るつららさんとイエティを見て話を続けます。
「雷獣といい、言葉が通じないと辛いですからね。でもその点、今回はつららさんのおかげで穏やかに事が運びました」
「ほう。じゃあ診察でもしようかね」
「下痢のようだったので、検温のついでにうんちも取って糞便検査をしておきます」
「それから血液検査もしておこうかね。小夜、どの動物に近いか確かめておきな」
「はい!」
祖母に先導されて診察室に入り、具体的な検査が始まりました。
聴診、リンパ節の腫脹などを確かめる触診、目蓋の血色確認など基本的に動物にとってストレスが少ない順におこなっていきます。
本来なら看護士が動かないように抱えておくところですが、こんな大型ではどうにもならないので斑さんの呪符によって仮拘束されていました。
私はといえば採取された血液を検査機器にかけ、機械が血液成分を測定してくれている間に余剰の血液をスライドガラスに乗せて染色します。
さらにこの待ち時間で糞便の顕微鏡検査と、三つの作業を並行しました。
「やっぱり桿菌が多く見えますね。下痢の原因菌はこれですか」
糞なんて細菌まみれですが、通常見られる菌種や量はある程度決まっています。
腸内バランスが崩れて下痢――世間でも耳にする話と同じ。
必ずしも悪い病原体に感染したとは限らないのです。
血液の染色が終わったので続いて顕微鏡で確かめます。
こちらでは血球の数を調べたりするわけですが、ここにもあやかし特有の違いが現れます。
「どんな様子だい?」
「問題なく見えました。血球の大きさ的に、見た目通り猫科に似た血球の大きさです」
「なら安心して薬を使えるね」
この確認が意外にも大事なのです。
あやかしとしての力が衰えるほど普通の動物に近づく一方、力が残っていれば生物学で説明がつかない体となり、薬が効きにくくなります。
それどころか、キメラ型のあやかしなら多種の動物の特徴を少しずつ持つために薬の効果や副作用が複雑化することもあります。
幸い、このイエティは猫科の動物とほぼ同じ状態でシンプルでした。
席を譲って祖母にも確認してもらうと、治療方針が定まってきます。
「アモキシシリンは草食動物には非推奨だし、大事を取ってタイロシンかね。あっちは確か牛や豚にも使えたはずだ」
「はい。私もそういう処方がいいと思います」
猫科の特徴が強いとはいえ、時には反芻類のカモシカが正体でもあるイエティです。
中途半端に影響が出るともわからないので、配慮はすべきでしょう。
こうして細菌性下痢の処方は決まり、対症療法が始まります。
イエティは斑さんの手によって入院室に連れていかれ、脱水の対処として点滴の準備が進んでいきました。
手綱係だったつららさんはこちらに歩いてきます。
「美船先生、お世話になりますぅ」
「あんたが飼っているわけでもないだろう? これも神様からの頼まれ仕事の内だよ」
「それでもですよー。あの子はどうも目が離せなくって」
「そんなに由縁でもある相手だったのかい?」
事件の発端しか知らない祖母は首を傾げます。
他に患者さんがいないということもあり、私たちはつららさんが不思議と懐かれたことも含めて今までの経緯を祖母に伝えました。
「――なるほど。まあ、あやかしの世界に確実なんてものはない。今までそういう例を聞いてきたけどね、その巳之吉って男はよく考えた方だと思うよ」
いつも明るいつららさんの表情が陰っていることを気にしたのでしょう。
祖母は自分の経験と照らし合わせて慰めの言葉をかけました。
その言葉はつららさんとしても実感があるのか、切なそうな表情を浮かべます。
「人との付き合いがこの代で最後になったとしても、よくしてもらえたと思いますぅ」
「さて。話がすぐに変わって申し訳ないけどね、イエティはひとまず薬が合うかどうかも含めて一週間預かろう。まほろばのどこかに放すのか、そうじゃないのかも後日話をするから、つららもどうするか考えておいておくれ」
「はいー、わかりました。美船先生、ありがとうございます」
「私はただ治療をするだけだよ」
「それじゃあ、今回の件に付き合ってくれた小夜ちゃんと斑さんに感謝ですねえ」
つららさんは深々と頭を下げてきます。
少なくとも私たちの行動で気分が楽にはなったのか、その表情には前向きなものも感じられました。
そうして今後の方針も伝えられたところで彼女は帰っていきます。
「小夜!」
「あっ、はい!?」
気もそぞろに見送っていたところ、祖母の声が耳を打ちます。
「す、すみません。ぼーっとしていました……」
「患者がいないから別にいいんだけどねえ。小夜は何が気になっているんだい? いかにも歯切れが悪そうだよ」
私がずっと気がかりを覚えていたのはお見通しだったようです。
ここは素直に年の功を頼らせてもらおうと思います。
「……はい。今回の件、おばあちゃんが言うようにお互いを拒絶しての別れよりはマシだと思います。だけど、悪い感情がないだけに和やかな関係に戻れたらどんなにいいんだろうなって思っちゃって……」
直系の子孫であるおじいさんと、懇意にしていたおばあさんともこれきり。
このままいけばつららさんは死に目にも会えないことでしょう。
巳之吉さんが親孝行するためとはいえ、それが悲しく思えていました。
正直に吐露すると、祖母は息を吐きます。
「及第点ってとこかねえ。誰の怪我もなくイエティを連れ帰った。治療方針も固まった。そこまではいい。でも、まだまだ未熟だよ」
「ごめんなさい。出過ぎたことですよね……」
「家庭事情なんて診療所の業務外だからね。手出しするなとは言わないけれど、あんたにはまだ見えていないものが多い。まだまだ勉強が足りないし、人を頼ることを覚えな。あと斑! いつまで点滴設置に時間をかけているんだい? こっちに来な!」
「すみません。イエティがどうしても動くので皮下点滴にするか迷っていました!」
つららさんがいなくなったこともあるのか、そわそわしているようです。
檻の中で動くので点滴の管が捻じれて輸液が止まり、機械が警告音を上げる――よくあることです。
祖母は私たち二人の前で腕を組みます。
「斑。ここはね、あんたが気付いて助言をしなきゃいけないところだよ? まあ、あんたはたった二十八歳。子供の頃はうちにいて、まほろばに来てからも医療の勉強にかかりっきりだったし、あやかしについては人間並みの知識になるのもわかるけどね。あんたに比べれば私の方がよっぽど妖怪ばばあだよ」
「……あ。おばあちゃんもやっぱりそれは思うんですね」
視線だけでつららさんを怖がらせる面もあるし、よほど迫力がある妖怪です。
そんな思いが口から洩れると、私も視線で射殺されそうになりました。
祖母は改めてやれやれと大きな息を吐きます。
「話がかみ合いそうで上手くいかない。そこが歯痒かったろう? 二人とも、最初から順に考えな。都合よく解釈して感動させる物語として仕立てるんだよ。特に今回は、当人たちをそれで納得させられたら済むんだからね」
「えっ。でも、感動ありきで組み合わせてありもしない捉え違いをしたら……」
「捉え違いも悪いことじゃない。嘘と演出もこの業界じゃ方便だよ」
今回の話は、つららさんが巳之吉さんの両親に悪影響を与えるかもという邪推が円満解決を妨げています。
祖母の言葉は確かにそれと対になりそうなものですが、あまり納得がいきません。
戸惑いを表情にしていると、祖母は続けます。
「例えば重病で入院中の動物が、飼い主との対面から数分後に息を引き取った時だよ。『ご主人の声で安心したんですね。症状からすると信じられない頑張りでした』と説明するかもしれない。本当は心停止を防ぐ薬とかでどうにかもたせていたとしてもね。でもそれはね、飼い主が感動と共に死を受け入れられるようにするためだ。死に目に会えなかったと、ずっと後悔させるよりはいい。必要ないとは思わないだろう?」
ペットが自分を待っていてくれたんだと、感動と共によく語られる話です。
祖母の問いに、私と斑さんは揃って頷きます。
「坊さんや葬儀屋の演出だって同じだよ。物事はね、辛いことでも捉え方次第で前に進む原動力にだって変えられる。悪い想像だけでなく、願いだって形になるあやかし業界ではなおさら重要なことなんだよ」
「前に進む原動力、ですか」
「巳之吉とやらが取った手段は現実的だ。悪くない。でもね、本心から相手を信頼できたら別の結末もあるとわかりきっているだろう? 筋道を綺麗に並べて、それらしく語れば丸く収められるかもしれないじゃないか。私たちの言葉にはそうできるだけの説得力がある。その大切なピースに気付けていない点で、あんたたちは未熟だよ」
祖母はそう言ってイエティのいる入院室を指差します。
「あのイエティは偶然の産物かい? あと一週間。いや、六日くらいかね。そこんところをよーく考えな」
祖母はそう言って私たちの肩を叩くと、また警告音を鳴らしている輸液ポンプの調節に向かうのでした。




