鏡のようなあやかし
さて、『開かずの風穴』のイエティは保護したのですが、つららさんと巳之吉さんの家庭問題や、『鉄鎖の化け物』の被害拡大を防ぐためにもイエティの証拠資料を届けに行く必要がありました。
到着した先は何の変哲もない田舎の民家です。
雪女が関わるからといって、地元の名家というわけでもありません。
古い縁側は残しつつ、玄関のリフォームや部屋の増設をした形跡が見られる――そんなどこにでもありそうな装いでした。
その庭に先程も見た巳之吉さんの車が停まっています。
「つららさん、じゃあ私たち二人でお返ししてきますね」
「ご迷惑かけますぅ」
彼女は頭を下げてくるものの、鎮静剤もなしに膝枕だけでイエティを宥められているのは立派な活躍です。
あんな風に手懐けられるなんて児童文学のドリトル先生のようで羨ましいですね。
まあ、無い物ねだりをしても仕方がありません。
私と斑さんはインターホンを鳴らします。
「ごめんください、つららさんと一緒にいた者です。巳之吉さんに渡したいものがあって来ました」
『ご苦労かけました。今開けますけん』
すれ違ったおばあさんの声です。
早足でやってきたおばあさんは丁寧に招き入れてくれました。
案内された居間では、あの巳之吉さんがテーブルについて待っています。
敵を見るような厳めしい顔――ではありません。
まるで先程までのつららさんのように憂いを抱えた表情です。
私たちがイエティの証拠資料を渡し、つららさんはこれ以後、この家に近づかない。
これがあの場で決めた物事だけですっきり終わらせられる顔でしょうか。
おばあさんが茶菓子や煎茶を並べ終わった頃、私は目的のものを差し出します。
「ひとまず本題のこちらをお返しさせてもらいます」
「ああ、確かに。……君たちには迷惑をかけた」
研究資料は汚名返上に不可欠なもの。
それを返しに来たとして、私たちは厄介者の雪女の仲間――そんな扱いになるはずが、対応は至って穏やかです。
本当にこれはどうしたものでしょうね。
少なくとも私たちの言動で関係が悪化する空気はなさそうです。
巳之吉さんの思いを聞き出せるのは今くらいしかないでしょう。
私は意を決しました。
「失礼な質問だったらすみません。今までのお話を聞いていると、つららさんが家族に害を与えかねないあやかしだから関係を断ちたいというだけではなさそうに思えます。何か思うところがあるんですか?」
「いや。深い事情、事件なんてものはない。実際にあの場で話した通りだ」
態度の理由を尋ねると、巳之吉さんは首を横に振ります。
「彼女は家の守り神のようだった。若い頃はそんな彼女を理解しようと民俗学を専攻したんだ。そこにも陰ながら助けがあったのか、いくつもの論文の実績を残して今の地位まで登らせてもらったよ。ただ、それでもあやかしというものはよくわからなかった」
「論文をたくさん書くくらいに研究していてもですか?」
「私が知っているのはあくまで民俗学的な考えの範囲なんだ。あやかしは業界内でもまことしやかに噂されているが、出会えた試しがない。君たちみたいな存在に今回会えたのが驚きだ」
風穴で私たちを見た時の表情はそういう意味だったようです。
巳之吉さんの言葉に、斑さんは「ありえる話です」と同意します。
「僕たちあやかしには神秘性が大切です。噂は好むところでも、正体を暴かれる科学的な分析は毛嫌いするでしょうね」
現代のあやかしの衰退はまさにそれが原因です。
ある意味、民俗学者は科学者と同じく不倶戴天の敵なのかもしれません。
そんな見解に近いものは得ていたのか、巳之吉さんはこくりと頷きました。
「ああ。よくわからないことこそ君たちの本質だと思う。そして、まさにそれが問題だ。彼女は子々孫々のためなら老いた親を殺すかもしれないし、そうでないのかもしれない。そんな想像こそがあやかしに力を与えると聞いた。もし親が不審死でもしたら、私はきっと彼女を疑ってしまう。……感謝はしているのに、今だって自分が彼女にどんな感情を抱いているのかがよくわからない。だから不安なんだ」
眉を寄せ、俯いて吐露するところからして、つららさんを疎ましく思っているわけではないのでしょう。
巳之吉さんの苦悩は真っすぐ向き合おうとしたからこそ生まれたものです。
「研究に明け暮れて親孝行もろくにしていなかったが、どうなってもいいわけじゃない。あやかしの価値観で殺されては困るんだ。わがままや過剰反応と言われても仕方がない。この家系と縁を切らせるのは全て私が原因だ」
「理屈はわかります。でも、それならどうして直接伝えなかったんですか?」
「世の中には介護疲れという言葉もあるだろう? 仕事をやめて親の世話をする選択が、雪女というあやかしの習性を刺激しないとも限らない。あの場で下手に事情を伝えるのもマズいかもしれない。……本当に、わからないことだらけだったんだ」
化け物は理解できないからこそ恐ろしさが増すものです。
例えば目の前にお化けがいるとして、それが悪霊になるのも無害になるのも自分の想像次第。
そんな状況で、人は無害だと信じ込むことができるでしょうか。
目の前の存在に、一切の恐怖も空想も持たずにいられるものでしょうか?
こういう不確かさこそ、人があやかしを遠ざけようとした答えでしょう。
祖母ですら、もしかしたらまた家族が傷つくかもと思って身を引いたのです。
巳之吉さんの苦悩はよくわかりました。
しかし彼はわずかな希望を抱いたように私たちを見つめてきます。
「だが、あの場には君たち二人もいた。私には天啓にも等しかったよ。この話を伝えるかどうか、君たちに委ねさせて欲しい」
私たちの身の回りには多くのあやかしがいますし、彼の判断も納得できます。
私としても拒むものではありませんでした。
「みなさんはあくまで雪女に関わった子孫であって、当事者だった老人と子供ではありません。即座にお伽噺と同じ構図になるとは考えにくいですし、つららさんもこの話を聞けば気が楽になると思うので事の経緯はお伝えしたいと思います」
斑さんを見ると、彼も同じ判断なのか頷き返してくれます。
巳之吉さんとおばあさんは深々と頭を下げてきました。
「恩に着る」
「つらら様にはお世話になったのに、とても悪いことをしたねぇ……」
話はそれで終わりました。
本題であるイエティの治療もあるため、私たちは出された茶が冷めないうちに席を立ちます。
「お袋はいい。俺だけで見送る」
そう言って、玄関までの見送りには巳之吉さんのみがついてきます。
「では失礼します」
「最後に一つだけ、付け加えさせてほしい」
おばあさんの見送りを断った意味はここにあったのかもしれません。
靴を履いてドアに手をかけられたところ、巳之吉さんは声をかけてきました。
「私には、妻も子供もいない。親父とお袋を看取ったら後はどうとでもなる身だ。だからその時はそれなりのけじめを取ろう。彼女が縁切りを恨むなら、その時は好きに祟ってくれればいいと伝えてほしい」
「わかりました」
何とも物悲しいことですが、親に対しての責任を取り、あやかしと誠実に向き合おうとした結果がこれなのでしょう。
そういう最悪の場合も想定した覚悟には、切ない気持ちを抱いてしまいます。
玄関の戸を閉じると、ため息のようなものが漏れました。
「人とあやかしがずっと上手くやり続けるのは難しいんですね……」
「そうだね。それは美船先生や、小夜ちゃん自身にだって言えることだ」
「相談できる人も助けてくれる人もいますから、私は恵まれています。センリだって私を守ってくれます。……ただ、だからこそ私はおばあちゃんや巳之吉さんに比べてあやかしに対する危機感が薄いのかもしれません」
ほら、こうして声に出せばセンリはすぐに顔を出します。
足元に現れたセンリは肩に飛び乗り、押し付けるほどに体をこすりつけてきました。
斑さんには見えていないでしょうが、会話に支障が出るので胸に抱きます。
「それは良くも悪くもあるね。僕たちは鏡だ。願いや恐怖がそのまま形に写る。恐怖心が薄いのはある意味、理想だとは思うよ」
「だからこそ、理想は高く。しかして堅実に、なんですね」
警戒をすれば猜疑心や恐怖も高まるのですから、言葉ほど簡単ではありません。
「いけませんね。ここで悩み続けても答えは出ないですし、ひとまずつららさんに事の次第を伝えて診療所に戻りましょう」
「あちらもあちらで急患がないとも限らないからね。小夜ちゃん、ひとまずお疲れ様」
「いいえ。まだこれからですよ」
帰りの道もあるし、午後からの診療手伝いもある――それだけではありません。
この一件はまだ引っかかるものを感じています。
歯切れの悪さといい、胸がもやついてしまうのですが、後に控えるものが多くあるので仕方ありません。
ひとまず違和感については置いておき、私たちは車に戻るのでした。




