『鉄鎖の化け物』の痕跡
おばあさんの話通り、幹はもう倒れたと言っていいほど斜めに傾いでいました。
倒れる以前には人の肩辺りだっただろう高さには、二種類の擦過痕が残されています。
一つは浅く広い擦過痕で、樹皮が剥げています。
そして、その傷に重なる形で深い溝が刻まれていました。
「爪痕というほどでもないですね。本当に噂通りの『鉄鎖の化け物』が体当たりでもしたのか、角が鈍いもので擦ったような跡が重なっています」
噂を元に考えるのなら動く鎖ではなく、じゃらじゃらと鎖を巻いた大動物の仕業とでも言えばいいでしょうか。
付喪神でもなさそうですし、私の知識の範囲では正体に覚えがありません。
斑さんも答えに悩んだ様子です。
「僕にわかるのは、イエティの気配とは全くの別物というくらいかな。やっぱり部外者の『鉄鎖の化け物』がわざと痕跡を残したんだと思う」
「そうなんですか?」
「僕ではどういう系統の気配なのかまではわからないけど、違うことは確かだよ」
木の温度を確かめるように手をかざしていた斑さんは車を振り返ります。
妖力センサーとでも言うべきものでしょうか。
イエティと比較しているようです。
「イエティの気配なりを察して事件を被せに来たんですね。早めに保護していなかったらもっと派手な痕跡を残されていたかもしれませんね」
どうしてそこまで名を上げようとするのでしょう。
多少の噂が立てばあやかしは十分に元気になりますし、魔祓い師に追われるリスクが高まるばかりです。
犯人の動機は不明ですが、対策はあります。
巳之吉さんに研究資料を返して資料発見の一報でも入れてもらえば、イエティと『開かずの風穴』の噂も霧散していくことでしょう。
この事件を早急に鎮火させる必要性は高そうです。
――ただし、単に解決すればいいわけではありません。
それでは寂しげな表情を浮かべているつららさんは報われないままです。
「斑さん。今回の件、私はとても感情移入しています」
正直に気持ちを言葉にしてみます。
私が何を思って口にしたのか、すぐに察してくれたようです。
彼は深く頷きました。
「……そうか。小夜ちゃんの家もあやかしのおかげで幸も不幸もあった。美船先生は家族のために自分だけがまほろばに行って、巳之吉さんは家族のためにつららさんとの縁を切ろうとしている。似ているかもしれないね」
ほら、この通り。
説明しなくても、斑さんには筒抜けでした。
小さい頃に私が泣いていても、すぐに理由を察して慰めてくれたものです。
けれど、彼は泣いている私の問題を打ち砕いてくれるヒーローではありません。
解決には何が必要なものを指し示し、時には助力して導いてくれた存在です。
そんな最も頼れる人に、私は気持ちを吐露します。
「確かに家族を危険に晒さないためには縁を切るのが手っ取り早いかもしれないけど、私は誰かが辛い思いをしたまま我慢するというのはとても嫌です」
だからこそ私は祖母の後を継ごうとしています。
もちろん、諸々の野望もありますが、全部が大切なことなので努力を惜しむつもりはありません。
人によってはもっと地に足をつけた考えをしろとたしなめもするでしょう。
けれども斑さんは笑って受け入れてくれました。
「理想は高く。しかして堅実に、だね」
「なんですか、それは?」
「美船先生がよく言うんだ。医療現場は論文に書かれている根拠や、病院と患者に無理のないコストで処置を考えないといけない。だけど、あやかしは人の生活や教訓、願いをもとに生まれた。現実を追うだけじゃなくて、理想も持たないとこの家業はやっていけないんだよ。奨励はしないけど、理想を目指すのは大事なことなんだ」
そう言って、斑さんは優しく見据えてきます。
だからこそ、どうしたい? と、希望を問われているかのようでした。
本当にずるいですね。
不安が渦巻いていた胸に火が灯りそうです。
「私、巳之吉さんに話を聞いてできるだけのことをしたいです」
「彼がつららさんを拒絶していてもかい?」
「雪女とあやかしについてあれだけ調べていて単に関わりたくないだけとは思えません。だからこそ、私にもできることがあると考えています」
「わかった。僕もできる限り補助しよう」
そう、この言葉を待っていました。
彼の頼もしい言葉に頷きを返し、私たちは車に戻るのでした。




