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おとなりさんの診療所  作者: 蒼空チョコ
第一章 開かずの風穴と母の愛

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開かずの風穴とイエティ

 足音で振り返った彼はつららさんを目にすると表情を険しくします。


「これも全部、あんたの仕業か」


 つららさんは視線の圧に負け、縮こまっています。

 おばあさんとの朗らかな対応とは一転した様子でした。


 巳之吉さんがそんな彼女に向ける言葉は気心知れた仲とはとても思えないものです。


「神秘性を重んじて首を縦に振ろうとしなかった寺院が急に資料提供に応じたことといい、我が家では都合のいいことがよく起こったものだ。あんたは親切な守り神みたいなものと思っていたよ。だけど年を経るにつれて、そうは思えなくなった」


 彼の呟きはつららさんに刺さるだけではありません。


 思い出されるのは我が家とあやかしの関係です。

 私と斑さんにとっても当事者のように思える言葉でした。


「いいえ、私は出来る範囲で協力しただけで過度なことは……」

「本当にそうなのか? 雪山で老人を殺し、子供と家族を生かした雪女だ。寝たきりの親父が私にとって足枷になっても殺さない保証がどこにある? そもそも、おやじの具合が悪くなったのも、実はあんたが祟っているんじゃないのか?」

「そ、そんなことは……」

「ないとは言えない。それがあやかしというものだと私は学んだ」


 巳之吉さんの目を見ればわかります。


 これは単なる言いがかりではありません。

 雪女やあやかしについて深く学んだからこそ生まれた疑念なのでしょう。


 現代では両親の介護で生活が困窮する人もいます。

 では、『子が苦しむ』『老いた親がいなくなった方が楽になる』といった状況で、必要悪だった雪女はどう動くでしょうか?


 私には舞台が雪山でないだけで状況は同じにも思えました。


 これは何とも居た堪れません。

 一任してほしいと言われた後なのに、口を出しそうになります。


 斑さんは小さく横手をあげ、そんな私を制してくれていました。

 すぅ、はぁと深呼吸で気持ちを落ち着けているうちにつららさんは口を開きます。


「そう、ですねぇ。私たちは人が思えば何にでもなります。巳之吉さんが思っていることも真実になったっておかしくありません……」


 つららさんは絞り出すように答えます。


 対する反応は変わりません。

 巳之吉さんは顔に深く皺を刻んだままでした。


「わかったらこれ以後、実家には近づかないでくれ」

「……わかりました。でも、せっかくここまで来たんだから茂作さんのお見舞いに行ってください。研究資料は、そこに届けますから」

「それくらいはするさ」


 話はそれで終わりと巳之吉さんは風穴の前を離れ、私たちに目を向けました。


「あんたたちは何だ?」


 本当はつららさんの味方と名乗りたいところです。

 けれどもこれ以上、空気を悪化させないためにも下手な擁護はできませんでした。


 辛いところですが、ここはつららさんに頼まれた通りにします。


「私はごく普通の大学生で、こちらはあやかしを専門に診る先生です。『開かずの風穴』の原因となっているものを保護しに来ました」


 答えてみるとどうしたことでしょう。

 巳之吉さんは少しばかり驚いた様子で眉を上げました。


 何を思ったかは不明ですが、すぐさま問いかけられます。


「それじゃあ、あんたは人間ってことか?」

「私はそうです。この通り、学生証も持っています」


 つららさんの仲間として偏見を向けられるかと思いきや、巳之吉さんは疑ったり、険しい目を向けたりすることもありません。


 彼はしばし思考を挟んだ後、つららさんに視線を向けます。


「だったら資料はこの二人に届けてさせてくれ。実家は近い。それくらいの無理は利くんだろう?」

「え、えぇーと、それは二人のご迷惑に……」

「いいえ。まだ時間的な余裕もありますし、構いませんよ」

「それならばよろしく頼む」


 お辞儀とはいかずとも、目を伏せて会釈程度に頭を傾けてきました。


 関係を断ちたいだけなら、もっと目の敵にするような険悪な空気でもおかしくないはず。

 なのにこれはどういうことでしょう?


 雪女やあやかしについて深く学んだような素振りといい、どうも気がかりです。

 意外な態度に私と斑さんが面食らっているうちに、彼は山道を降りていきました。


 残されたつららさんは物寂しげな表情を浮かべています。


「お二人とも、ご迷惑をかけてしまってすみません……」

「気にしていません。ほとんど通り道みたいなものですよ」


 ありがとうございますと小さく呟いたつららさんは遠い目で空を見上げました。


「現代は生き辛いですねぇ。住処がなくなった河童や、噂をされることもなくなったあやかしみたいに、私の幕引きはこうみたいです。それでも長く続いた方ですね」


 後ろ髪を引かれながらも、未練をどうにか断とうとする表情です。

 私が診療所に関わろうとした当初、祖母もよくこんな顔を見せていました。


 問題解決の奇跡でもあればハッピーエンドを迎えられそうなもどかしい空気です。

 彼の態度には不可解な点がありました。


 それに、友人としてどうにかしてあげたい気持ちはあります。


 何かをしてあげられる余地があるかもしれません。

 状況を知るためにも二人の関係を問いかけます。


「巳之吉さんとはどういうご関係だったんですか?」

「最初は悪い関係ではなかったんです。彼の研究も民俗学に関することで、私は研究資料を得られるように手を回していました。でも、いつの間にかこんな仲です」


 思い出を締めくくるようにつららさんは過去の変遷を語ります。


 けれどこの場を任せてくれと言った通り、慰めなんて求めていないのでしょう。

 彼女はぱんと手を叩いて空気を切り替えました。


「とと、個人的なお話をすみませんー。お二人の本来の仕事を待たせっぱなしでしたね。さあ、風穴の戸を開けましょう!」


 雰囲気が一転していることからも気持ちが察せられます。


 ここで敢えて蒸し返すのもよくないことでしょう。

 私と斑さんは彼女が促す通り、風穴に目を向けました。


「戸が凍っているけれど、この中に例の怪物がいるのかい?」


 斑さんは戸に手をかけましたが、酷く凍りついているためにびくともしません。

 まさに『開かずの風穴』そのものです。


「はいー。中にイエティの皮を隠していたらいつの間にか居ついたんです。普段、この風穴が適温になるように少しだけ力添えをしていたことも影響したのかもしれません。外に出すわけにもいかないし、苦しそうだったのでここにいてもらいました」

「ということはこの氷もつららさんの力なんですか?」


 冷蔵庫の氷精を見慣れている私としてはその可能性が思いつきます。

 問いかけてみると、彼女は微妙な表情を浮かべました。


「はい、多少は。でも、こんな目に見えるほど固く閉じてなかったはずですぅ。戸を壊すと直す手間もありますし、力業では開けたくないですねえ」

「なるほど。それなら僕が開けよう。二人は少し下がっておいてほしい」


 斑さんが前に出て、つららさんも私をかばってくれます。


 彼が胸元から呪符を取り出し、戸にかざすと氷は一切に砕け散りました。

 戸は自動ドアのようにひとりでに開き、中が照らされます。


 そこには話の通り、動くものがいました。


「なるほど。これがつららさんの言うイエティっぽくない怪物か」

「はい! オコジョやライチョウみたいに雪山の動物っぽくはありますけど、よく見るイエティとは姿があまりにも違うじゃないですか。妙な姿ですよねぇ」


 靄となる冷気の向こう側にいたもの。

 それは、四足歩行の獣でした。


 真っ白な毛皮をまとい、犬や猫よりずっと太い四肢と鋭い鉤爪を持っています。

 ネコ科の大型動物に似ていますが、体格は虎と熊の中間と言った方がいいかもしれません。


 近い動物を挙げるとすれば、ユキヒョウでしょう。

 それを大きくした感じです。


 海外の動物だし、世俗に疎いあやかしが知らなくても無理はありません。

 得体のしれない相手と警戒するつららさんに、私はネットで検索したユキヒョウの画像を見せます。


 すると彼女はまじまじと見比べました。


「……瓜二つですね」

「はい。つららさんが持ち出した研究資料はユキヒョウの皮だと分析されていましたし、その知らせが色濃く影響した結果だと思います」

「むぅー。身近にないものってどうも覚えられないんですよねぇ」


 つららさんが唸っている間もこのあやかしは大人しくしていました。

 いや、というよりはそうするしかなかったのかもしれません。


 予想外なことに、このあやかしの足元には同じ見かけの子供が一頭いました。

 子供を守るように身構えていますが、その四肢には力があまり入っていません。

 少しふらつき、目ヤニも溜まっています。


「この衰弱加減……。きっと、子供を庇ってこの場に冷気を満たしていたんだろうね」


 斑さんは感情移入した様子で呟きます。


 ああ、そうでした。

 まさに車内での話題そのものではないですか。


 斑さんはこれと同じ経験でお母さんを失ったんです。

 警戒する必要がないことを示すためか、斑さんは片膝をついて見守っていました。


「お二人とも、大丈夫ですよう。この子はとても大人しかったですから」

「ぐるぅ……」


 つららさんが間合いに踏み込んでも威嚇はされません。

 それどころか彼女が首を抱き締めると脱力していきます。


 同時に、風穴の戸に広がっていた氷が蒸発して消えていきました。


「ほらほらぁ、大人しくないですか?」

「というよりこれは弱っているんだと思うよ。生まれたてのあやかしな上に、ぽっと出のニュースがルーツだから信仰は一気に弱まっていく。それでも子供の負担を軽くするために場の冷気を保っていたみたいだからね」


 こうして会話をしている間にもイエティは伏せてしまいました。

 警戒心より疲労が勝ってきたようです。


 母獣はこんな様子ですが、子供は斑さんの言葉通りに守られていたのでしょう。

 最初は陰に隠れていたものの、じっとしきれなくなって母親の体を登る活発さでした。


 無邪気な戯れはいつ見ても癒しです。


 それをほくほくと眺めていると足元にいたセンリが戸の方に向かって歩き出し、消えました。

 危険はないと判断したのでしょう。


 それと同時、鼻を掠める臭いに気付きました。


「あっちに糞がありますね」


 臭い、汚いと非難されがちですが体液や排出物や健康状態を図る重要な指標です。

 この声に斑さんも反応してくれました。


「ああ、本当だ。しかも血便だし、この臭い……もしかしたら細菌性腸炎かもね」

「その話、おばあちゃんも言っていました。色や臭いで絞れるとかなんとか」

「草食獣と肉食獣で糞の臭いが違うように細菌も何を栄養にするかで違いが出るし、割と理屈はあるんだよ。病原体の塊でもあるし、わざわざ臭いにいくものでもないとは思うけどね」


 斑さんが新たに呪符を取り出すと、地面の下痢は燃え上がって消えました。

 続いて斑さんはイエティの背の皮膚を摘まみ上げて脱水の度合いを確かめたり、目蓋の裏や歯茎の色を見たり、持っていた聴診器で肺と心臓の音を聞いたりします。


 けれどもこの確認は慎重に距離感を保ってのものです。

 伏せっているイエティも一挙手一投足に視線を向け、身を近づけすぎた時などは口元を威嚇気味に釣り上げていました。


 やはりつららさんと私たちでは全く扱いが異なっています。

 冷気に関するあやかし特有の仲間意識でもあるのでしょうか。


 ひと通り調べ終えた斑さんはどっと疲れたように息を吐きました。


「少し脱水はあるけれど一分一秒を争う事態ではないね。ひとまずつららさんが約束したイエティの皮を返却して、予定通り診療所に戻ろう。それで、現物はどこに?」

「あっちのスノコの下にありますぅ」


 この風穴には漬物と思しきプラスチックの容器のほか、米を三十キロ単位で買う時に見かける茶色い紙袋が何袋も積まれています。


 つららさんの指示に従って探ると、プラスチックケースに入った干物のようなものが見つかりました。

 乾燥した上に風化しているので面影もありませんが、これがイエティの証拠と言われたユキヒョウの毛皮だそうです。


 今のつららさんと巳之吉さんを繋いでいる品と思うと、手にずしりときます。


「あとはこれを返しに行くだけなんですけど……その前に聞きたいことがあります。巳之吉さんは実家に近づかないでくれと言いましたが、つららさんはあのご家族とこれきりになってもいいんですか?」

「……さっき返答したとおりですよ。あやかしは人の想像でどうとでも化けます。誰かが恐ろしい雪女を想像するならそうならない保証はありませんし、仕方ないです」


 彼女は実に寂しそうに呟きます。

 イエティはその気配を察したのか、喉を鳴らしてすり寄っていました。


 まるで長年連れ添った人と犬のようです。


 そんな優しさに触れた影響でしょうか。

 つららさんの口から「ただ……」と弱音が漏れました。


「本音を言わせてもらえば、辛いですねぇ。小夜ちゃんは知っていますか? まほろばは住みよいところなんですが、その言葉通りの理想郷じゃないんですよ」

「人がいなくてもあやかしが生きていけるのにですか?」


 苦しみが絶えない娑婆と、人の信仰がなくとも生きていけるまほろば。


 対比するように言われていたものだから、私としては意外でした。

 耳を疑うように問い返してしまいます。


「はい。人はあやかしの生みの親で、切っても切れない間柄です。そんな相手がいない世界ですから、本能を見失って無気力になっちゃうんですよ。だからあやかしは時々娑婆に繰り出して悪さをします。私を私と見てくれる人はもっと特別です。それがいなくなるのは、とっても辛いですね……」

「誰かに存在を認められてこそのあやかしだからね。人と密接に関係するあやかしだと、半身を裂かれるようなものと聞くよ」


 斑さんも同意するように、単に会えなくて寂しいというだけではないのでしょう。

 そんな話を聞けば、やはり見ているだけというのはできません。


「わかりました。でしたらこれを返す際に別の解決法も探したいと思います」

「うう、小夜ちゃん。ありがとうございますぅ」

「いえいえ。乗りかかった舟ですから」


 潤んだ目で見上げてくるつららさんを抱き留めた後、私たちは風穴を後にしてイエティの母子共々、車に乗り込みます。


 我が家の病院用の車なので、中は広々と八人乗りです。

 イエティも相当な大きさではありますが、伏せの状態であれば乗り込めました。


 動く度に座席がミシミシといっていましたが、傷やへこみが残らないことを祈ります。


「出発の前におばあちゃんが言っていた松を見ないとですよねー? 多分、あれです」

「そうですね。ささっと確認だけしちゃいましょう」


 同じ道を戻っていくと、傷ついた木が見えてきました。

 風穴内と同じくイエティを抱えてもらっているつららさんは車内にいてもらい、私と斑さんだけで傷つき具合を確認します。


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