第35話「移民街なのじゃ!」
リスタ王国 王都 移民街 ──
再び王城を出発したマリーは移民街を訪れていた。移民街は王都の外れにあり、困窮者や王国内に伝手のない移民のために作られた地区になる。さほど広くはないが王国から住居が割り当てられ、衣類などの必需品も配給されている。そのため入国者はいきなり宿無しになることはないが、あくまで期限付きで必要最低限の生活が営める程度の保障になっている。
クルト帝国にある貧民街に比べても、王国で管理されているので待遇も治安も良かった。それでも他国での罪を悔い改め再出発を許された移民の三割は、再び罪を犯し『国外追放』にされているのである。
そんな街で場違いなメイド服を着ているマリーは、早速スキットルを持った酔っ払いに絡まれていた。
「よぅ姉ちゃん、色っぽいねぇ……ぎゃぁぁぁ!」
声を掛けながらマリーに触れようとした酔っ払いは、瞬時に腕を捻り上げられ宙を舞ってから地面に叩きつけられた。そして落下してくるスキットルを空中でキャッチすると、マリーは酔っ払いに冷たい視線を投げつけながら
「丁度いいです。親分さんに会いに来たのですが、役場は……」
と尋ねてみた。『親分さん』というのは、この街の管理者の渾名で王国の正式な役人である。問題を起こしがちの移民たちのまとめ役で、住人からは敬意を込めて『親分さん』と呼ばれている。
地面に這いつくばっていた酔っ払いは、マリーの問いに小さく悲鳴を上げると脱兎の如く逃げ出してしまった。マリーは特に追いかけることはせずにため息をついて
「忘れ物ですよ?」
と声を掛けるが、すでに姿はなくスキットルをカバンの中にしまうのだった。
しばらく歩いていると役所が見えてきた。この街の役所は衛兵詰所を兼ねており、現在三十名の衛兵が詰めている。マリーはそのまま役所の玄関から中に入っていく。
◇◇◆◇◇
リスタ王国 王都 移民街 役所内 ──
役所は移民街以外にも王都各地にあり、商売を始める時や納税などの諸手続きを行うことができる。この移民街の役所では、さらに住居の割り当てや衣服の配給も行っているが、食事だけは手が回らず修道院の炊き出しに頼っている状態である。
役所に入ったマリーはそのままカウンターへ進み、笑顔を向けてくる受付の女性に向かって
「すみません、親分さんはいらっしゃいますか?」
と尋ねてみた。マリーは常にリリベットの側にいるため、かなりの知名度がある。来たばかりの移民でなければ顔を知らない国民はモグリと言えた。
「こんにちは、マリーさん。所長なら部屋にいるはずですよ。どうぞこちらへ」
受付の女性は席を立ち、マリーを連れて所長室の前まで案内してくれた。女性がドアにノックすると中から涼しげな男性の声で
「どうぞ」
という返事が聞こえてきた。女性はドアを開けるとマリーと共に中に入る。
◇◇◆◇◇
リスタ王国 王都 移民街 役所内所長室 ──
受付の女性は部屋に入ると、奥で仕事をしている男性に向かって声を掛けた。
「所長、マリーさんがいらっしゃいましたよ」
「マリーさん? はて……一体どちらのマリーさんかな?」
そう言いながら、机に向かって書類仕事をしていた眼鏡をかけた中年男性が顔を上げた。そして驚いた顔をすると手に持ったペンをペン立てに置き、席を立ってマリーの目の前まで近付いてきた。この男が役場の所長にして『親分』こと、シグル・ミュラーである。シグルはマリーに握手を求めるように手を差し出した。
「これはこれは、まさか女王付メイドのマリーさんとは……初めまして、この役所の所長シグル・ミュラーです。お見知りおきを」
「王城より参りました。マリーです、よろしくお願いします」
マリーは微笑みながら握手で応えた。シグルは手を離すとマリーにソファーを勧め、対面にはシグルが腰を掛ける。受付の女性は一度お辞儀をすると部屋から出ていった。
「さて、あの有名なマリーさんが、こんな所まで何の用でしょうか?」
「この人物について教えていただきたいのです」
マリーはお世辞を聞き流し淡々と話を進めるべく、カバンから『ハンス・ザノブの資料』を取り出すとシグルの前に差し出した。シグルはそれを受け取るとペラペラと捲ってから、思い出すように少し目を瞑るとポンッと手を叩いて
「あぁ、この方……ハンスさん! 最近王都に来た方ですね?」
「ご存知なのですか?」
「えぇ、まぁ移民街に入られる方には、なるべく声をかけるようにしてますからね」
と微笑みながら答えるシグルに、マリーは感心したように頷く。シグルは少し困ったような顔をして断りを入れてきた。
「しかし……失礼ですが、マリーさんは無官でおられる。住民の情報は教えるわけには……」
「それではこちらを」
マリーはカバンから一枚の書状を取り出して、シグルの前に差し出した。手紙にはリリベット直筆で『この者に便宜を図るようお願いする』と短く書かれていたのだった。女王のサインはされているが王命ではなく、強制的な効力がない書状だ。
「ふむ……陛下のお願いですか、きっと何か事情があるのでしょうね。わかりました、お話しましょう」
「ありがとうございます」
ごほんっと咳払いをしてから、シグルは姿勢を正して話し始めた。
「ハンス・ザノブ氏はクルト帝国出身の五十四歳男性、妻も子供もいたそうですが、この国へはお一人で来られたようです」
ここまではゴルドから受け取った資料にもあった情報だったが、マリーは頷いて話の先を待つ。
「元々は男爵位を持っていたようですが没落して一家は離散、食事もままならぬ生活をしており、盗みを働いたところを見つかり民衆に私刑にあったようですね。その時の怪我が原因で現在も脚を患っています」
「男爵ですか……?」
マリーが首を傾げると、シグルは頷いて話を続けた。
「えぇ……まぁ本人から聞いた身の上話なので、どこまで本当かわかりませんがね。今のところ近隣住民とのトラブルもありませんし、生活態度などは問題はないようです。私が知っていることは、これぐらいですね。会いに行かれるのなら、確か六番通りにお住まいですよ」
「わかりました、ありがとうございます」
マリーはそう告げる席を立ち、お辞儀をしてから所長室を後にするのであった。
◇◇◆◇◇
リスタ王国 王都 移民街 六番通り ──
マリーはハンスがいるという六番通りの家の前まで来ていた。移民街の通りと住居は番号で管理されており、六番通り何番の家と言えばどこかわかるようになっている。マリーは近くの住民にハンスの家を尋ねると、その場所はすぐにわかった。
「ここがハンス・ザノブの家ですか……」
この街の住居はほぼ同じ規格で作られているため、周りの家とほぼ区別がつかないが、番号的にはこの家で合っているはずである。マリーは木製のドアをノックする。
ドン! ドン! ドン!
しばらくしてドアの向こうから、しがれた男性の声が聞こえてきた。
「誰だね?」
「王城から参りました。マリーと申します」
ドアがギギギと軋む音を立てて開き、中からは白髪でボサボサ頭の男性が現れた。この男が今回ラッツに暴行されたというハンス・ザノブである。ハンスは開いたドアの先にいた場違いなメイド服の女性に驚きながらも、しがれた声で訪問の理由を聞く。マリーはなるべき警戒されないように微笑みながら
「修道院の炊き出しの件で、お話を伺いたいのですが?」
と告げた。ハンスは怪訝そうな顔をしたが、王城から来たという者を無碍にも出来ず、半開きだったドアを開けてマリーを中に招き入れた。
◇◇◆◇◇
移民街 六番通り ハンスの家 ──
家の中は飾り気はなく、寝台が一つ、机が一脚、椅子が二脚と樽がいくつか、そしてハンスの荷物だろうか? カバンが一つ置いてあるだけであった。殺風景な安宿の一室といったイメージだ。マリーはハンスに勧められるがまま椅子に座り、対面にはハンスが座った。
「何か飲むかね? ……と言っても水しかないが」
「いいえ、結構です。そうだ! もしよろしければ、拾った物ですが……」
と言いながら、マリーはカバンの中からスキットルを取り出してハンスの前に置く。ハンスはそれを奪い取るように掴み取ると、蓋を開けて匂いを嗅ぐ。
「これは……酒か! ありがたい!」
と言って一気に煽って飲み干してしまう。ハンスはぷはっと息を漏らし、満足そうな顔をすると
「いや~実に久しぶりの酒だ! 染み渡るわ。……それで修道院での出来事だったか? あの金髪の青年は何か虫の居所が悪かったのだろう。ワシは特に気にしておらぬよ、どうも昔から金髪の奴とは相性が悪いらしくてね」
いきなり掴みかかってきたラッツを責めることもなく微かに笑うハンスに、風貌はともかく物腰も優しく問題がある人物とは感じられないという印象を感じたマリーは、先程のシグルの話を確認することにした。
「親分さんに聞きましたが、ハンスさんは以前は男爵だったそうですね?」
「あぁ小さいが領地も持っておったのだが、とある事で帝都からお咎めがあり、爵位まで剥奪されてしまったのだ」
マリーは何度か頷いて話の続きを待つ。そんな様子のマリーに、話し相手が欲していたのかハンスは笑顔になりながら話を続けた。
「この国は素晴らしいな! 民衆は活気に溢れ、ワシのような没落したものにも優しくしてくれる。ここでならワシのような者でも再出発できる気がしてくる」
「それは良かったです。貴方の再出発が上手く行くことを祈っております。それではお時間をいただき、ありがとうございました」
以前は何かあったのだろうが、現在のハンスは模範的な国民だと感じたマリーは、話を切り上げて席を立つとお辞儀をした。
「もう帰るのかね? ワシも久しぶりに人と話せて楽しかったよ」
と優しげに言うハンスは、そのまま出ていくマリーを見送るのであった。
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『シグル・ミュラー』
シグルは、役場の所長をしている小役人。とても親切で、移民街の住人からは『親分さん』という渾名で慕われている。
かつてはクルト帝国のとある侯爵家の領主軍で参謀を勤めていたが、その清廉な正義感から軍部の不正を告発した。
しかし逆恨みで殺されそうになり、辛くも脱出しリスタ王国まで逃走してきたのだった。




