4. 閂
美咲は後悔していた。油断があったことは確かだ。
男の表向きの顔は、一見、人を安心させる何かを持っている。もしかしたら、この人ではないのでは、という考えも頭の片隅にはあった。今泉も、この人は違う、と言い切っていたことだし。しかし、今の牧野は一転して殺人鬼の目つき。やはりそうだった。ここで油断してしまう自分は未熟なのか。
男がトイレから戻ってきたら、自分は餌食にされてしまう。心拍数が上がった。何とかしなければ。必死で頭を回転させる。周囲の状況を把握する。脳内のあらゆる情報を捜索する。一瞬、パズルが組み合わさった。いや、目測をあやまったら、終わりだ。だが、できることといったらこれぐらい。幸い自分の体は動きそうだ。
縛られた両足を床につけて、力の限り体を揺らした。椅子ごと体が倒れる。さらに体を揺らしながら、椅子ごと回転させる。回転しながら、リビングを出て玄関へと延びる通路へ向かう。そして、その途中にあるトイレのドアの前へ。
痛みなど感じている暇はない。男が音に気付いてドアを開いたら、無意味に終わるのだ。
椅子の背の先端がドアの表面をとらえた。ドアは閉じたままだ。
美咲は今、玄関の方に顔を向けて横になった状態。背の高い椅子のため、顎を引けば、椅子の背の高さに体が収まる。足の部分はキッチン下の収納スペースの扉に接している。
安堵感の中、乱れた呼吸を必死で整える。ドアを内側から開けようとする振動が伝わってきた。男の声が聞こえた。
「おい、おまえ、なにしやがった。そこにいるのか?」
息の乱れでドアの外の状況に気付かれてしまったか。
「ははあ。状況はなんとなくわかった。それでお嬢ちゃん、いつまでこれを続けるつもりだ。このままだと、二人とも餓死するぞ。お嬢ちゃんに我慢できるかな?」
「・・・」
「そうか、声を出せないんだったな。頼むからそこどいてくんないかな。お嬢ちゃんは開放するよ。そのあとで、警察にでもなんでも連絡したらいい。なあ、約束するよ。」
こいつは何を言っているんだ。ここをどいても美咲にとって圧倒的に不利な状態が待っているだけだろう。
このトイレの隣、玄関側にはシャワー室がある。つまりこのトイレに窓はない。隣室は、今は誰もいない私の部屋だ。壁を叩いてもだれも気付かない。トイレの換気扇も人が通れるような大きさではないはずだ。
たとえ、誰かが気付いて駆けつけてきたとしても、この光景は、牧野が犯人だという証拠になる。
私がじっとしていれば、牧野は終わりだ。苦しみながら最期を迎えるがいい。
男が力の限りドアを押しているのだろう。強い振動が伝わってきた。どれだけ叩いてもこの頑丈な椅子でロックされているドアが開くことはない。




