1. 事故物件
「私、そういうの興味ないんで・・・他の方を当たってもらえますか・・・」
隣の部屋の半開きになったドアの中から女性の涙声が聞こえた。そのドアの隙間から体半分を挟んだ長身の男性。さわやかな短髪にブルーのスーツ姿はセールスマン風だ。男は強い口調でまくし立てる。
「私の話ちゃんと聞いていました? 話を最後まで聞かないのって、相手に失礼だよね?」
「だから、さっきから言ってるじゃないですか・・・」
「あのねぇ、お姉さんだって自分の資産が増えて困ることなんて何もないでしょう?先ほどご説明した通り、極めて低リスクないんですよ。早くしないと売れちゃいますよ、こんないい物件。」
「お願いします、帰ってください・・・」
「痛てえ! 強引にドア閉めないでくださいよ。これって暴行罪だよね!」
またあいつか・・・同じやり口だ。
4月に入って最初の休日、確か3日前だったか、この1Kアパートの隣の部屋に引っ越してきたばかりの若い女性がターゲットにされている。牧野としても帰宅途中のちょうどいいタイミングだ。遠慮なくやらせてもらおう。
牧野は男の後ろからできる限り大きな声で話しかけた。
「すみません。取り込み中ですか?」
男性は驚いて振り向いたが、目が合うと睨みつけてきた。
「あんだよ、あんた。関係ねーだろう。」
「関係ありますよ。この人、会社の同僚なんで。これから、夕食の約束をしていたんですが・・・」
「ちぇ、わかったよ。勝手にしろ。」
そう吐き捨てると男は駐車場の方へ消えて行った。
女性がドアから顔を出して、こちらをそっと伺った。黒髪のポニーテールに色白の肌。三日月型の目に涙を浮かべているが、安堵のためか口元は緩んでいる。
「あ、あの・・・あ、ありがとうございます。た、助かりました。」
「アポなしに訪ねてくる人間にろくな奴はいませんよ。モニターで確認して、配達以外は出る必要なんてないですからね。」
女性の目から涙が零れ落ちた。
「ご、ごめんなさい。いい歳して見っともない・・・」
女性はハンカチを出して目を覆った。気が弱いのだろう。守ってあげたくなるタイプだ。その華奢な体を抱きしめたい衝動にかられた。
「一人暮らしは初めてですか?」
女性は無言で頷く。
「無理がないですよ。いきなりで怖かったでしょう。」
女性はまだハンカチで目を押さえたままだ。
「困ったことがあったら気軽に言ってくださいね。じゃ、おやすみなさい。」
牧野がお辞儀をして横を向いた時、女性に呼び止められた。
「ああの、お礼をさせてもらっていいですか?」
「いえ、そんな、お気遣いなく・・・」
「いいえ、させてください。明日もこれぐらいの時間にご帰宅ですか?」
「ええ。」
「あ、あの、ご迷惑でなかったら、夕食をご馳走させてください。一人暮らしだといつも作りすぎちゃって。」
女性は笑顔に変わっていた。ハンカチを両手で握りしめ、上目遣いでこちらを見つめている。断ることなどできようか。
「はい、では遠慮なく。」
「はい、ぜひ。あの、食べられないものとかありますか?」
「ないですよ。あなたの得意なもので大丈夫です。」
心のどこかで期待していた展開。それ以上かもしれない。あのような魅力的な女性にこんなにも安々と近づけるとは。自分のものにしたい。牧野は明日に向けて気持ちが高ぶっていた。
一つ気がかりなのは、隣の部屋は事故物件なのだ。可哀そうに、ずる賢い不動産屋か大家に騙されたのだろう。それだけピュアな女性なのだ。
*
翌日の同じ時間、田村美咲と名乗るその女性の部屋を訪ねると、昨日とは打って変わって、明るい笑顔で牧野を招き入れてくれた。ダイニングテーブルには手作りの料理が並んでいた。肉、魚、野菜がバランスよく含まれた家庭料理といった感じだ。
二人でビールを飲みながら、身の上話をした。美咲は秋田県のある田舎町の出身で地元の大学を出た後、就職するため4月に上京してきたという。保険会社の事務関連の仕事をする予定という。
彼女はクマのキャラクターが描かれたピンクのエプロンを身につけていた。その子供っぽさがまたいい。透き通るような白い肌とそれにふさわしい穢れなき心の内が垣間見られた。優しく扱わないと割れてしまうような繊細さ。これまでのどんな女性よりも魅力的だ。隅々まで味わい尽くしたい、と思った。
椅子にもたれているうちに、眠気を感じた。仕事の疲れとアルコールのせいだろう。彼女は今、キッチンで後片づけを始めている。牧野はそのまま目を閉じた。




