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商材シャーデンフロイデ  作者: 尾妻 和宥


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11.ジャパニーズ土下座

 だから私は二人のもとまで走り、スライディングする恰好で土下座した。

 滑った拍子に、西山の足もとスレスレまで達した。

 いまだ包帯の解けぬ頭を、西山のスリッパの甲に押し当てた。


「どうか、お許しください、西山先生!」と、私はあらんかぎりの誠心誠意をこめて叫んだ。「先日は、あろうことか師匠に盾突くという暴挙をしでかしてしまいました。私も思いあがっていました。西山先生があってこそ、いまの自分があると言っても言い過ぎではない。どうか、ふたたび私に情けをかけてください!」


 必死だった。

 やはり夢を捨てきれるはずもなかった。

 栄光への階段をかけあがるには、どうしても西山による訓練と支援が必要だった。私も視野が狭すぎて、他に方法が見当たらなかったのだ。

 私は額を、西山のスリッパにこすりつけた。

 西山は妻を抱いたまま、


「Oh……。ジャパニーズ、土下(、、)()。僕ちゃんが、もっとも軽蔑する旧態依然たる作法。せせこましい演歌、浪花節なにわぶし。オペラのまえで、それをやるのはお下劣すぎる……」


「お願いします! お願いします!」


「悪いが、これから待ち合わせがあるの。すぐスタジオを閉めて、昔の恩師と付き合う約束があんの」と言って、さかずきを傾ける仕ぐさをした。「だから、帰ってくんないかな? よかったら、眞子ちゃんも来るぅ? 神戸の佐伯さえき先生だよ、君も知ってるだろ?」


 と言って、妻の手を引いて出入り口の方へ歩きはじめた。

 立ち去るとき、地べたに這いつくばった私はわざと蹴られた。

 思わず床に転がった。


「敏行ちゃん!」


 眞子は西山を制止させようとした。

 西山は有無を言わせなかった。レッカー車のように妻を牽引し、ついにEXITの緑色のランプの真下まで達した。厚い防音ドアを押した。


 ――やはりダメか。


 西山にいくら頭をさげようと、一度自尊心を傷つけてしまったら和解はありえない。ましてや不貞行為は言語道断だった。到底水に流せるものではない。

 この男にかかれば、好きなものは好きであり、嫌いなものは演歌やJ-POPが生理的嫌悪で受け付けないように、逆立ちしても好きになれないのだ。


 床に額を張り付かせたまま、諦めかけた。

 西山がスタジオの外に出た。

 玄関前には、さっき私といっしょに乗ってきた眞子の黒い外車が尻を向けて停めてあった。


「わかったわ、敏行ちゃん、私が送ってあげるから!」


 眞子の、やけに明るい声が聞こえた。

 そちらを見た。

 すでに屋外は日がかげっていた。

 後部座席のドアを開けてエスコートしている妻。

 西山はにこやかに笑い、車高の低い車に頭をさげかけた。


「悪いけど、あいつをとっとと帰らせて、スタジオ、戸締りしてくんないかな? 窓はぜんぶ閉まってるから、そこの扉だけだよ。今日はなんだか疲れちゃって……」


 上半身をかがめ、座席に乗り込もうとした、まさにそのときだった。

 すぐ後ろの眞子がハンドバッグから、なにか黒々とした塊を取り出すのが見えた。

 その先端を西山の、だらしない臀部でんぶに押し当てた。


 次の瞬間、バチバチバチッという弾ける音とともに、青い閃光。

 肥満体型がうねり、とたんに車内へ倒れ込んだ。

 私は思わず、眼をみはった。


 スタンガンだった。

 眞子は念には念を入れて、西山の尻に片膝を押しつけ、なおも電気ショックを浴びせた。

 容赦ない攻撃に、さしもの西山も気を失った。車外に短い脚をピンと突き出し、微動だにしない。片方の革靴が脱げかかっていた。

 私は立ちあがり、出入り口に向かって走った。


「先生に、なにをするんですか!」


「史郎クン! この人はこうでもしないと大人しくならない。誰かに見られるとまずい。場所を変えましょ。そこで説得するの!」


「こんなことしたって、逆効果ですよ!――まさか、はじめから計画してたんですか?」


 眞子は険しい顔で私をにらんだ。


「もしものために用意してた。まさか本当に使うとは思わなかっただけ。とにかく人気ひとけのないところに行こ。最悪、この人を脅すしかない。圧をかけてらないと、首を縦にふるわけがないの、この男は」


 と眞子は言い、西山の服のポケットをまさぐった。

 鍵を見つけた。

 西山はだらしなく後部座席に突っ伏し、短い脚を車外に出したままだ。まるでカエルの干物のようだ。


 ところがすぐに気を取り戻し、うめきながら身体をよじった。

 眞子はそのたびにスタンガンを下腹部にお見舞いした。

 青い閃光とともに、西山の肉体は痙攣をくり返し、また大人しくなった。

 最近は心臓が弱っていると耳にしたことがあった。あまりやりすぎると、もしものことが心配された。


「佐那クン、この人を車に入れて! すぐにドアを閉めなさい! 私はスタジオの玄関を閉める!」


「ですが――こんな」


「やりなさい! もう、後には引けないの!」


 たしかに事ここに至ったら、どうにもならない。考えてから行動するのではなく、行動しながら考えるしかあるまい。しかしながら、私はオペラ歌手として再起を計りたかったにすぎないではないか。あきらかに道から逸脱しはじめていた。

 私は眞子に従った。24歳になるのに、あまりにも主体性に欠けた。


 市場で転がる冷凍マグロのように重い西山を、なんとか車内に押し込んだ。

 彼女は建物の電灯をすべて消したあと、ドアを閉めた。

 外から鍵をかけた。眞子は抜かりなかった。ちゃんと手袋をつけていた。

 当時、セキュリティシステムの類はなく、不用心だった。

 鍵をウェットティッシュで拭うと、ぐったりした西山の手で握らせてから、ふたたび西山の衣服のポケットに戻した。


◆◆◆◆◆


 ハンドルは私が握っていた。無我夢中だった。

 眞子に命じられるがまま、郊外の森のなかへと車を向けて走らせていた。

 すでに日は落ちた。

 街灯もない闇をヘッドライトで切り裂き、奥へ奥へと分け入っていく。

 少なくとも、スタジオを出て直後のできごとは、部外者に目撃されていないはずだ。私たちはそう信じることにした。


 後ろの席で横たわった西山。かたわらに寄り添った眞子。

 スタンガンは相手の体内に微弱な電流を与え、痛みとともに筋肉を強ばらせ、一時的にひるませるにすぎない。

 すぐに西山は、のろのろと身体を動かしたが、そのたびにショックを浴びせた。


 冷徹な眞子の顔は無表情だった。なにが人をここまで非情にかり立てるのか、私には計りかねた。

 西山はすぐ気を取り戻した。

 結局面倒なので後ろ手に紐で縛り、足首も固定させた。粘着テープで口をふさいだ。

 ちゃんとこれらの小道具を用意していた彼女の用意周到さに、私は慄然とした。




 いったいどれほど車を走らせただろうか。かれこれ1時間は、一軒たりとも民家のない山中を進んでいる。

 眞子は土地勘があるようだった。

 じきに左手に人工物が見えてきた。


 小屋だ。木造平屋で、両開きの扉にはかんぬきがかけられている。

 その背後には、有刺鉄線で張り巡らされた大きなため池。

 水は汚く濁り、底は見透かせない。池のなかで、なにやら無数の、茶褐色の楕円形がうごめいており、私が眼をこらしたときだった。

 

「佐那クン、そこで停めて。小屋の横!」


 シートの脇から眞子が身を乗り出し指さした。

 私は頷き、古ぼけた建物の前で車をパーキングさせた。

 眞子は西山の口をふさいでいた粘着テープを勢いよく剥がした。

 シートに転がった西山は、憤怒の眼つきで私たちをにらんだ。

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