63.ふ・い・う・ち
鍵をかけて控え室に閉じこもったレーナは、鏡に映る自分の顔を見て、はぁとため息を吐いた。
「……なんて顔してるのよ、あたしは」
こんなに酷い顔は見たことがなかった。自分でもダメ出ししてしまうほどの惨状に、レーナは改めてスランプとなってしまった原因に思いを巡らす。
彼女の顔から笑顔が消えてしまった原因。それは、先ほど日野宮あかるが星空メルビーナに見せた表情にあった。アカルのあの……大好物のエサを目の前に出されたときの犬のような、締まりのない表情ときたら!
「なによ、デレデレしちゃってさ! バッカみたいっ!」
怒りは言葉に出しただけでは収まらない。鏡の前に置かれたメイク道具を手で激しく払うと、ガシャーンという音とともにバラバラに散らばっていく。
「なんでよりによってメルなのよっ! あたしは、あたしはあなたの親友なんでしょ!」
レーナがこうも怒り狂うのには理由があった。というのも、レーナにとってメルビーナは『いつか超えるべき高き壁』だったからだ。
同世代で最も人気のあるアイドルであり、生まれ持ってのルックスと愛嬌、そして歌声を持つ天性のスターである″星空メルビーナ″。
彼女と同じ時代に生まれたことを後悔する子たちもいた。メルビーナと同じ事務所のセシルとハルカなど、メルビーナと別路線を歩むために、わざわざ″事務所複合型アイドルユニット″である『激甘☆フルーティ』に入ったくらいである。
だがレーナは、″今世紀最強のアイドル″と言われるメルビーナと、真っ向から戦う決心をしていた。
メルビーナが天才なら、自分は芸能界の純血馬。『二世タレント』などというレッテルを打ち破るためにも、星空メルビーナは避けて通れない壁だった。
それだけではない。レーナは気付いていた。メルビーナの瞳の奥底に光る、暗い輝きを。
かつてレーナとメルビーナは、同年代ということもあり、歌番組などで一緒になることも多かったことから、そこそこ仲が良かった。だがあるときレーナは、星空メルビーナという存在の″本性″を偶然にも知ることになる。
メルビーナは、妖精のような笑顔のその裏側に、とてつもない腹黒さを持っていたのだ。
自分の強みを知り、相手の弱みを見抜き、蹴落とし、持ち上げ、成り上がる術を持つ少女。それが星空メルビーナだった。
ふとしたときに、人を小馬鹿にしたような表情を浮かべては優越感に浸る。ときどき他のアイドルたちに向けられる侮蔑的なまでの視線が、その事実を物語っていた。
彼女のその視線を知って以来、レーナはメルビーナと距離を置くようになった。『あんな腹黒を、アイドルの頂点に置いておくわけにはいかない』。そんな想いが原動力となり、これまで必死にアイドルとしての頂点を目指してきた。
なのに、初めてできた親友である日野宮あかるが、メルビーナの魅力の前にメロメロになってしまった。
さらにはメルビーナが最後にレーナに向けたあの表情。レーナをはるか上から見下すような、勝ち誇った侮蔑の表情を見せつけられ、レーナの心は千々と乱れたのだ。
「なんでよ、どうしてあたしじゃダメなのよ……」
鏡に映る情けない自分の顔に、思わず弱音が漏れる。母譲りの大きな二重の瞳から、ポロリと大粒の涙がこぼれ落ちる。
「……ふぇぇぇん」
思わず漏れ出る、小さな泣き声。もしかするとそれは、誰かに助けを求めようとする彼女の心の悲鳴だったのかもしれない。
本来であればその泣き声は、誰にも聞こえるはずがなかった。なにせここは、完全に密閉された控え室。他に人が居るはずもない。
だけど、そんな常識を覆すような事態が起こる。
ドンッ! ドンッ! 激しく叩きつけられるノックの音。
「レーナ! どうしたのっ⁉︎」
続けて聞こえてきたのは、彼女の親友である″日野宮あかる″がレーナを呼ぶ声。
「……アカル?」
「レーナ、泣いてるのかっ⁉︎ すぐにここを開けろ、でないとぶち壊すよっ!」
「ええっ⁉︎」
思いがけず聞こえてきた親友の声に、驚き戸惑うレーナ。とっさに返事が出来ずに立ち尽くす彼女の目の前で、いきなり控え室のドアが吹き飛ぶ。激しく音を立てながら転がっていく扉。
代わって扉があった場所に現れたのは、撮影用のドレスをはためかせて、キックを放った格好のまま静止した″日野宮あかる″の姿だった。
◆◆◆
レーナが控え室に駆け込んだあと、俺は慌てて彼女を追いかけようとした。だけどマネージャーの黒木さんなんかは「レーナはまーた″天の岩戸″かぁ。仕方ないなぁ……」といった感じで首を横に振るのみ。
くそっ、なんだよその反応は。マネージャーのくせに、このままレーナを放っておいて良いのかよっ⁉︎ 俺がギロリと睨みつけると、黒木マネージャーは少しひるんだ表情を見せる。そんな彼を無視して、そのままレーナを追いかけていった。
ガシャーン。
控え室の前に着くと、中から何争うような物音が聞こえてくる。げっ⁉︎ もしかして中に変質者とかがいて、レーナに襲いかかったりしたのかっ⁉︎ 背筋に緊張が走る。
扉に近づいて耳を澄ますと、今度はレーナのすすり泣くような声が聞こえてくる。なんだよ、なんで泣いてんだよっ⁉︎
焦った俺はドンドンッ! と激しくドアを叩きながら「レーナ! どうしたのっ⁉︎」と叫ぶ。すると中から消え入りそうな声で「……アカル?」と呼ぶ声が聞こえてきた。
これは、レーナの身に何かあったのか⁉︎ そう思ったら、もはや居ても立っても居られなくなった。
「レーナ、泣いてるのかっ⁉︎ すぐにここを開けろ、でないとぶち壊すよっ!」
だがすぐに返事は返ってこない。ここで一気に頭のスイッチが切り替わった。瞬時に戦闘モードに入ると、控え室のドアに向かって身構える。
今回繰り出すのは、ここ数ヶ月でさらに鍛え上げたアカルちゃんの美脚から繰り出される回転回し蹴り--『アカルちゃんボンバー』だ。
「はああぁぁぁっ‼︎」
全身をバネのように捻ると、掛け声とともに強烈な後ろ回し蹴りを放つ。強烈な一撃を受けて、吹き飛んでゆく控え室のドア。
「レーナッ⁉︎ 大丈夫っ⁉︎」
声を上げながら室内に入ると、控え室の真ん中では……キョトンとした表情を浮かべたレーナが、一人でポツンと控え室の中心に立っていた。
「……あれ? レーナひとり?」
「そ、そうよ?」
「変質者に襲われたりしてない?」
「そ、そんな人ここにはいないけど……」
「よ、よかったぁぁぁぁぁあ! 誰か変なやつが部屋に入ってきて、レーナが襲われてたのかと思っちゃったよぉぉ!」
レーナの無事を確認したところで、一気に全身の力が抜ける。はぁぁぁ、びっくりしたなぁもう。それにしてもレーナが何事もなくてよかったよ。
「って、あれ? レーナさっき泣いてなかった?」
「ち、ちがうわよ! あ、あれは泣いてたんじゃなくて、わざと涙を流すことで気分の切り替えを行ってたの! い、一流の俳優はそうやって気分転換するものなのよっ!」
「へぇー、そうなんだ。それは知らなかったよ」
ってことは、すべては俺の早とちりってこと? だとすると……あちゃー、ついドアまで破壊しちゃったよ。
「どどどどうしよう、これ?」
「……そんなの知らないわよ。とりあえず黒木さんにはあたしから言っとくわ。このドアを破壊した犯人はアカルだってね」
「げっ!」
「大丈夫よ。ただ今回のギャラから修理代がちょっとだけ引かれるくらいだから……ぷぷっ」
そう言うとレーナは堪えきれないといった感じでぷっと吹き出す。
こ、こいつなに笑ってやがるんだよ、他人事だと思いやがって。だいたいさー、誰のせいでこんなことしたと思ってるわけ?
「アカル、もしかしてあたしのこと心配してくれたの?」
「……もう知らない!」
頭来たからもう返事してあげない。アカルちゃんプーだもんねっ!
「ごめんごめん。拗ねないでよアカル」
「別に拗ねてなんかないよ! それよりもう気分転換は終わったの?」
「え? あ、ええ。十分気分転換出来たわ。……おかげさまでね」
「そう、それはよかったね! だいたいさぁレーナ、あなたはプロなんでしょ? だったらさ、気分転換出来たのなら、このあとはきっちり仕事をしなさいよねっ!」
負け惜しみも兼ねてイヤミたっぷりにそう言ったものの、言われた方のレーナは気にした様子もなく、逆に胸を張って「ふふふ……そうね。あたしはプロのアイドル。きっちり最後まで仕事をこなしてみせるわ」などと宣言されてしまった。へーへー、心強いことで。
「それに、撮影の良いアイディアも浮かんだしね」
「良いアイディア? それってどんなの?」
「……うふふっ、秘密よ」
そう言うとレーナは、さっきまで泣いてたのがウソみたいに、魅惑的な笑顔で微笑んだんだ。
◇◇◇
休憩明けのレーナは、それまでの不調がウソみたいに絶好調になった。
ある程度レーナのことを見慣れた俺でさえ、思わず惹きつけられしまうような表情を幾多も見せてくれる。撮影監督が思わず両手を叩いて大喜びをしたほどである。
ノリノリになったレーナに引っ張られるようにして、撮影はサクサク進んでいった。これまでの遅れを取り戻すような勢いで順調にスケジュールを消化していく。
そうして迎えた撮影終盤。ふいにレーナが監督に声をかけると、なにやらゴニョゴニョと相談を始めた。
レーナの耳打ちを聞いて、監督は「なにっ⁉︎」とか「レーナちゃんはそれでいいの?」などと驚きの表情で何度も確認する様子が伺える。だけどレーナはその度に頷き同意を示す。
んー、なんだろう、気になるな。一体なんの相談をしてるんだか。
「あたしの撮影シーンについての提案よ、アカルには関係ないわ」
「……あ、そう」
面と向かってそう言い切られてしまうと、こちらとしてもこれ以上追求できない。
不満に頬を膨らます俺の横で、監督がADさんたちになにやら指示を出して、大慌てで動き回り始めた。あっという間に周りに五台ものカメラが設置されていく。
「……すごいカメラの数。なんか次のシーンは気合い入ってるね。いろんな角度から同時に撮影したりするのかな?」
「ええそうよ。次は一発勝負だから、絶対に撮り漏らしがないように準備をしてるの」
「一発勝負?」
「……こっちの話よ、アカルは普通にしてれば良いわ」
あーそうですか、言うつもりないんですね。だったらこちとら気にせず演技しますよーだ。
「それじゃあ最終カット入りまーす。本番ヨーイ! 3…2…」
監督のカウントダウンのあと、俺たちの周りのカメラが一斉に回り始める。レーナは俺から少し距離を置いた場所で、反対を向いて手を後ろに組んで立っていた。俺からはレーナの表情がなに一つ見えない。
いったいこれからどんなシーンを撮影するんだ? そんな疑問が脳裏をよぎる。
「アーカール?」
「えっ?」
本番中にもかかわらず、ふいにレーナから声をかけられた。これまでカメラの回ってるところではお互いに声を出さずにいたので、突然の呼びかけに驚いてしまう。
その隙にレーナは、こちらに向かってゆっくりと……流れるように駆け寄ってきた。二人の距離が一気に縮まり、顔と顔が至近距離で向き合う。
「……レーナ?」
俺の呼びかけに応えようとせず、レーナの手が、俺の頬にそっと添えられる。
次の瞬間、レーナの顔がゆっくりと--スローモーションのように俺の顔に覆いかぶさってきた。
「っ⁉︎」
唇を包み込む、柔らかな感触。気がつくとレーナの唇が、俺の唇を優しく包み込んでいた。
これは……キス⁉︎
ええーっウッソ⁉︎ いまキスされてる⁉︎
驚愕の事実に気づいて、俺は動揺を隠せずにいた。完全な″不意打ち″を前に、頭の中は大混乱をきたす。
狼狽える俺の様子が伝わったのか、レーナがそっと唇を離した。そして何事もなかったかのように俺からスッと距離を置く。
交差する視線と視線。一瞬、レーナが微笑んだように見えた。
レーナが俺に背を向けて、そのままゆっくりと離れていったところで、監督から「カーット!」の声がかかる。
その瞬間、まるで魔法が解けたかのように周りの人たちがワッと湧いた。
「ちょっと、今の映像凄かったよ!」「やばっ、これ鳥肌立ったわ!」「レーナちゃん、神懸かり的な表情だったよ!」「ちょ、早くテイク見せてくれ!」
口々にいろいろなことを言いながら一気に湧き上がる監督や映像担当、さらには広告代理店や『耽美堂』の担当者たちを横目に、俺は茫然自失しながら自分の唇を指で撫でていた。今でもハッキリと残る、レーナの唇の感触。
はたと気付いてレーナに視線を向けると、いたずらに成功したときの子供みたいな笑みを浮かべていた。
……クソッ、なんてこったい。こいつ、俺のことをハメやがったな!
「……レーナ、騙したね?」
「だって事前に言ってたら、アカル警戒したでしょ? だから一回限りだったのよ」
だ、だとしても、この不意打ちは無いでしょー! だってさ、きききキスだよ?
実際映像を確認してる監督たちが、興奮気味に「うぉぉぉ!」だの「うわぁぁあ!」だのと大絶叫してるし。うわー、どうしよう。参ったなこりゃ。
「……これでおあいこよ、アカル」
「えっ! な、なにが⁉︎」
「うふふ、ナ・イ・シ・ョ」
そう言って笑うレーナの笑顔に、俺は胸の奥がドキンと高鳴るのを感じたんだ。
--この瞬間からかもしれない。
--俺が、レーナのことを強く意識し始めたのは。
◆◆◆
こうして撮影された『耽美堂』のコスメブランド『スターリィ・プリンセス』の新商品、『グィネヴィアン・スカーレット』のテレビCMは、しばらくして公共の電波に乗ってオンエアされることになる。
これまで″塩対応″と酷評されていた、美華月 麗奈の華麗なる表情。
相手役として出演する、可憐なまでの謎の美少女。
そしてCMの中で交わされる、女の子同士の衝撃的な″キス″。
特にキスシーンがたいへんセンセーショナルであったことから、キスしたあとのレーナの魅惑的な表情もあいまって『神キス』とまで評された。
その結果、賛否両論はあったものの、『グィネヴィアン・スカーレット』のテレビCMはあっという間に世間の話題を独占して大評判となる。
すると、これまで『二世アイドル』や『塩対応』などと呼ばれ、数多くいるアイドルたちに埋もれていた″美華月 麗奈″に一気にスポットライトが当たることとなり、彼女の人気が大爆発するキッカケとなった。
同時に、レーナとキスをした相手……彼女のブログに『親友』として紹介された″AKARU″という美少女の存在が、世間一般から注目されることとなったのは、これまた当然の結果である。




