蠢動
焼け焦げた左腕の筋肉が、蠢動する。
動作の命令を出す脳が損なわれ、それを伝達する神経すら消えうせたその指先が小指から親指にかけて不規則に痙攣し、あたかも何かを招くかのように蠢いた。
既に全身の八割ほどをそのおぞましい肉から外に出した蛇は、二股に裂けた舌を出しては引っ込め、何かを唱えるように口を開閉させる。
それに反応したかのように、指先から伝わる蠢きはやがて振動に代わり、それが全体に至るにつれて肘の関節までが屈伸運動を繰り返す。
およそ全身の十五分の一程度の質量しか持たないそれが、目を背けずにはいられない正気的とはかけ離れた挙動を続ける。
やがて、腕からはみ出した蛇が己の首を空に向け、天空からの最後の一滴の恵みを受けるかのように、大きく口を開いた。
その直後。
めりめり、と身の毛もよだつ音がしたかと思うと、骨が熱によりふさがれた肉の断面を突き破り、伸びだした。
先端が剣の様に尖った白い固形は、蜘蛛の巣が張るかのように、植物が生長を見せるかのように、狂気的な規則性に則りじりじり体積を広げていく。
先ずは肩口まで。
ついで同時に、脊椎を上下に形作り、上部からは頭蓋骨を、下部へ伸長しつつ己が子を包み守るように肋骨を形成して行き、その尖端が尾てい骨を成した時に、周りの土がその骨の周りに纏わりつきだした。
磁石に砂鉄が寄るかのように、吸い寄せられるように骨を徐々に包んでその白色を隠していき、無論土の中に潜んでいた虫や小動物もその中には混じっていたが、逃げようともがくのを嘲笑うかのように小さい命も同じく取り込まれていく。
上半身だけの泥人形のごとき物がそこに生まれた時、気付けば下半身の形成も同様に進んでいた。
骨盤、大転子から始まる大腿骨、膝関節、腓骨脛骨、そして足先に至るまで。
そして、やはり上半身同様に土が損なわれた肉を、幼児の手遊びがごとく乱暴に補っていく。
人型の、土の塊。そこに在るのはそうとしか言いようのない、趣味の悪いオブジェクトに他ならない。
……特に高い密度で詰め込まれた頭部が完成した時、不自然に残っていた右肩口の部分。
そこから、先の蛇が、さも一仕事終えた、と言わんばかりに地面に頭を据え、やや疲れた風情を見せていた。
ずるりと。
もう少し頑張ろう、とでも言うのだろうか。
その蛇は、頭を掲げ、地に突き刺し、最も近くにある巨木に向かって進行し始めた。
尺取虫が動くかのように、規則的で、手足の有る物からすればなんとも愚かしく思え、それでいながらある種の美しさすら感じ取れるその挙動。
自身の質量よりおよそ何倍と推測するも憚られるその土の塊を、蛇は、一所懸命引きずって、木の根元にたどり着いた。
軽く、息を吐くかのような動きを見せた後、蛇は巨木の根に噛み付く。
……どくり、どくりと何かを飲み込むかのように動くその喉は、爬虫類に宛がう表現として相応しくないが、艶かしく、性的興奮すら惹起するかのような美があった。
そして、蛇がその行為を終えた時。
百年を超えるであろう樹齢の木は、全ての葉を落とし、枯れ果てていた。
そして、蛇に連なる土人形は、一体如何なる力によるものか。
人としての肌を、血肉を取り戻していた。
眼球も、毛髪も、内臓も。恐らくは、脳髄すらも。
……冒涜的な何かを終えたその蛇は、己と繋がっている寝たままの姿勢の人型の首筋に顔を寄せ、ちろりと細い舌で舐めた。
胴体をうねらせ、人型の顔にまで這い上がった蛇は、唇にその舌を寄せようとしたが……刹那の逡巡を見せた後、代わりに瞼をぺろりと舌で軽く撫ぜて、二、三言喋るような仕草を見せた。
それに反応したのか。
人型……いや、最早ヒトそのものであるから、その様に表現すべきであろう。
その人間は、目を覚ました。
口を開く。
「おぎゃあ」
そう、小声でわざとらしく呟いた後、人間は二度三度小さく咳をする。
ぺっぺ、と地面に唾を吐くと、そこには虫の足や土の欠片、小石などが混ざっているのが分かった。
そしてそれにより、さきほどの蛇が土くれからヒトを作り出した、というまぎれもない狂った事実が、改めて世界に示された。
「えっほ、げほっ。あーあー、あ゛ー」
――おはようナイン。ご機嫌いかが――?
あんまりよろしく無いですよそりゃあ。
死んだのなんて生まれて初めてですもん。
――初体験って言う奴ね――
色っぽさの欠片もありませんがね、なあんちゃって、ね。
僕、誕生。
おぎゃあ、おぎゃあ、おんぎゃあ。
そんな僕を放って、ティア様はいつの間にか姿を消していた。
右に目を向ければ、見慣れた僕の右腕がそこにちゃんとある。
……くふふ、うふふふふ。あーあ。
さようなら、僕の中の大事な誰か。
ご馳走様でした。
――――――――
ティア様の言うことにゃ、僕がこんがり焼けてからもう丸一日も経っているらしい。
お疲れだったらしく、それだけ言うとすぐに眠ってしまったので、他に何も聞けなかったが、取りあえずはこのストリーキング状態を何とかせねばなるまいよ。
もうエヴァさんも戻っているだろうし、とりあえず情報交換だ。
素っ裸でエルフの里に戻ると、当然周りのエルフさん達はきゃーきゃー言って逃げ惑った。
仕方ないじゃないか。折角ガロンさんが見繕ってくれた僕の服、ローグの奴が僕ごと焼き捨ててくれやがったんだからさ。
きゃーきゃー言いながら、指で顔を隠しているように見えて実は隙間からばっちり見ている彼ら彼女らの視線を避けつつ、エヴァさんのいる小屋にダッシュで戻る。
エルフは好奇心旺盛なんだろうな。異種族の異性のグランドオベリスクに興味が津々なのは理解できないこともない。何せ僕だってそうだ。
でも男にまで同じリアクションを取られてもちっとも嬉しくない。気持ちよくない。
小屋が見えた。日も落ちてきた夕方だ、走り寄るにつれ、段々と大きくなるそのシルエットに安心する。
昔、外で遊び回ってから家に帰った時、母が夕飯の支度をしながら出迎えてくれた、あの懐かしい感覚が蘇ってきた。
帰ってきた、ここでのマイホーム。
もうここには僕を苛める奴なんかいないんだ! エヴァさん、僕の愚痴を聞いてください!
「エヴァえもーん! 僕を苛める奴がいるんだよう、やっつける道具をだして頂戴!」
そう叫びながら、バアン、と小屋の扉を開いた。
……素っ裸のエヴァさんが、姿見に向かってお腹のお肉を摘んでいた。
片方の手を腰に当て、肩からタオルをぶら下げて、扉の音に反応したのか首だけをこちらに向けている。
その表情は……何が起こっているか分からない、と言った心境を全く素直に表していた。
ディアボロに戻った際に変身魔術は解いていたのだろう、褐色に戻っていたその肌は湿り気を帯びていて、天井からの魔力光を蠱惑的に反射し、肩甲骨からお尻にかけてツ、と滴り落ちる水滴にすら思わず僕は嫉妬した。
その小股が切れ上がった、と評するに相応しいお尻は全く弛みなど見せず、そしてその二つの柔らかな丘の間、切れ込んで行くラインには、心を奪われずにはいられない。
そして、鏡に映った彼女の正面姿。
アロマさんやガロンさんほどの大きさはないにしても、こちらも全く重力の支配を受けているとは思えないその双丘。
彼女が気にしているそのお腹周りはたおやかなくびれの線を描き出しており、慎ましやかに体の正中上に存在するお臍が彼女の生物的実存をより鮮明にする。
そして、その下にある無毛の領域は、彼女の持つ色気に不相応でありながら、その魅力を更に引き出して云々かんぬん。
これ以上の言葉は要らないだろう。
彼女は美しかった。
もう僕は、彼女のことを年増だなんて言えない。
この世の美はここにあったのだ。
ただ、ただこの瞬間に立ち会えたことを運命に感謝して、そしてそれを伝えたい。
「ビューティフル」
素直に僕は、彼女のハイキックを受け入れた。
そしてその瞬間に訪れた脳内ベストショットは、これから先、一生失われることはないだろう。
目を覚ますと、夜も既に更けた時刻。
エヴァさんがあんな格好をしていたのは、お風呂上がりだったかららしい。
もうこんな手垢のついたラッキースケベ的ハプニングは起こらないと思っていたのだが、よっぽど僕と彼女はそういう星の巡り合わせの元にあるらしい。
望むところだ。僕としてはまったく望むところなのだ。
「話は色々あるが……まずは服を着たまえ」
「貴女がそれを言うん……ああいえいえ何でもありませんともはい」
倒れていた僕にバスタオルをかけてくれていたのは、彼女の優しさからだろう。断じて僕のバンビーノが見苦しかったわけではあるまい。
とりあえず言われたとおり、見られても恥ずかしくない姿に着替えた。
「で? 君はスリザに行っていると聞いた気がするんだが」
「そこですよ、聞いてくださいな。僕、酷いいぢめを受けちゃったんですよ、うええぇん」
「気持ち悪いからやめなさい」
「はい。それでですね、このままにはしておけないと、どげんかせんといかんとそう思う訳でしてね」
「ふむ」
「何か便利な道具を出してください」
「駄目だ」
な、何故。
「言いたいことは幾つかある。一つ、誰に苛められたのかを君は口にしていない」
「言えまっすぇん」
「……二つ、君が最初に言ったろう。自分はスパイなのだから、戦闘する機会などないと」
「僕が闘争を求めたのではない。闘争が僕を好んで迎えに来たのだ」
「格好付けた言い回しをしても本質は変わらん。君の仕事を鑑みるに、敵性の存在に見つかったこと自体が愚か者の所業だ」
「うにゅう」
「そして三つ。君は折角あげた自分のナイフを無碍に扱った。あれは結構傷ついたのだぞ」
「それは……申し訳ない」
よく言うよ。どうせあれにも探知魔術とか付与してたんだろうさ。
ティア様があんまり握りこむなって言ってたから、もっとえげつない仕掛けがあったのかもしれないし。
「しかし、だ」
「……?」
「自分の質問に答えてくれるなら、手伝いくらいはしてやらんでもない」
「りありー? さんきゅー!」
「……答えたらだぞ。それに、考えるだけだ。この間のように、煙に巻かれてもたまらんからな」
ティア様の『まほう』のことかな。
僕、嘘なんかこのことについては一つも言ってないのにい。
ただの愛なんだってば、本当に。シンプルな答えっていうのは研究者の望むものではなかったのかい。
「……ある、人物……だろうかな。彼か彼女かも分からないが。それについて聞きたいのだ」
「僕の知っている人ですかね。とは言え、僕、お友達少ないですしぃ」
「いや、恐らく君しか知らない人物ではないかと自分は推測している」
「ふむむん?」
「以前、君が口にしていた名だ」
昨日ディアボロに戻った際に手に入れた、アリスの報告書にも書いてあった名である、とまでは言わない。
目の前の男なら気がついていたかもしれないが、態々君は監視されていた、等と伝えることにメリットは何一つないからだ。
そしてエヴァは、その名を口にした。
「……ティア様とは、一体誰か。自分に教えてくれないか」
――お前には、まだ早い――
……待ってティア様。
そんな意地悪しないでもいいんじゃないですか? 貴女のこと気になってるみたいですよ、ファンになってくれるかも。
――そんな気安く言わないでちょうだい。このエルフは、存外古い存在だからあんまり近寄って欲しくないの――
なんでです?
――嫌なことを、思い出しちゃいそうだから――
いいじゃないですか、どうせその内、僕が愛してあげることになるんですから。
ほら、ティア様ぁ、折角向こうから興味持ってくれたんですよ?
こんなに仲良くなれそうな機会、早々ないんですから。
――な、ナイン。どうかお願い。まだ心の準備が――
……仕方ないなあ。ティア様ってば、相変わらずチキンちゃんなんだからもう。
分かりましたよ、分かりました。もう我侭言わないからほら。
泣かないでくれ、僕の愛しいティア様。
愛していますから、どうかもう、涙を流さないで?
――泣かせたのは貴方よ……もう……――
ごめんねティア様。
僕が悪かったよ、ごめんなさい。
しばらくエヴァさんには、内緒にしておこう?
ほら……また、寂しくなっちゃったなら、抱きしめてあげるから。
だから今は、ね?
――……ええ、それでは――
「……精霊とは、一体何か。自分に教えてくれないか?」
「いいですよ? 僕の知っていることなら、何でも答えましょうとも」
――――――――
「……ふむ、色々と参考になった。ありがとう」
「いえいえ、それではご協力いただけるので?」
「ああ、それは構わないが……具体的に何をする予定なのか、それを教えてくれた方がこちらとしても何を渡せば良いのか判断しやすいな」
「ああ、じゃあ、これからのスケジュールをお話しますね?」
最初は、親魔族派の『虎』さんの力を借りて、「虎の威を借る狐さん」ごっこでもしたかったんだけどなあ。
あそこ、武闘派だからやりやすそうだったんだけど、かなり鼻の利く獣人さんがいるってマーチスさんが言ってたからなあ、近寄れなかったんだよねえ……それとは別に、なんかごたごたしてるみたいだったし。
しょうがないので、ええと、なんていったかな……ああそうそう思い出した。
「ブレーメンの、音楽隊」
「なに?」
「これも旧世界の御伽噺なんですけど、聞いたことあります?」
「……いいや、生憎と。だが、ブレーメンという名だけは知っている」
「へえ? ……まあいいですけど」
それは僕が知る限り、こんな話だった。
働き者のロバさんがおじいちゃんになった時、働けなくなっちゃって、飼い主に苛められて逃げ出した。
そこで、ブレーメンと言う土地に行き、音楽隊に入ろうと考え旅をするけど、その途中で似た境遇のイヌさん、ネコさん、ニワトリさんに出会って旅は道連れ世は情け、って感じでトコトコ向かう。
ヘトヘトになった彼らは、森の中で休んでる途中で家を見つけるが、そこでは泥棒さん達がご馳走をパクパク。
ずるい、と思ったんだろうね、ロバさん達は。
下から順に、ロバさん、イヌさん、ネコさん、ニワトリさんが乗っかっていき、皆一斉に大声で喚いたんだ。
そのシルエットと大声に驚いた泥棒さん達は、お化けが出たと思い込んで逃げ出して、動物さん達はご馳走にありつき、ぐっすり眠ることが出来た。
……でも、泥棒さんもおかしいと思ったんだろう。
こっそり後で戻ってみたら、暗闇の中で動物さんたちに甚振られ、這う這うの体で逃げ出した。
動物さん達はそのお家で、音楽を奏でながら、末永く仲良く暮らしました。
めでたし、めでたし。
「めでたし、めでたし」
「その話が、これからの予定と何の関係があるんだ?」
「不思議だと思いませんか?」
「……何がだい?」
「彼ら、ブレーメンって場所に行きたがってたのに、結局たどり着かなかったんですよね」
「……それは、あくまで最終目標が音楽隊に入ることだったからだろう。それが達成されたから、ブレーメンに行かなくても良くなったんじゃないか?」
「変でしょ、それ」
「うん?」
「だったら、最初っから旅なんかしなくても良かった。四匹が出会ったその時に、音楽隊なりなんなり結成すれば良かった」
「いや、それだと彼らはご馳走にありつけなかっただろう」
「……ご馳走が彼らの目的だった……? 確かに、ご飯がなければ誰も生きてはいけませんよね……」
「何を……?」
「そもそも音楽隊に入ったからって、ご飯を食べていけるかどうかも分かりません。そんな技術もないロバさんが、音楽隊に入れると思った根拠は? そもそも、なんで音楽隊に入らなければならなかったんでしょう。生きていくのに、もっと安定した仕事はなかったんでしょうか」
「……君ね、そんな事を言ったら、初めから動物が音楽を奏でるという矛盾について論じなければならなくなるだろう」
――いっちばん僕が気になってるのはね。
――何で、観客がいなくても彼らは幸せに音楽を奏で続けてられたんでしょーかね……ってところです。
――自己満足。自己表現。自己顕示……そして、それらに対する誰かの評価。
――これがなければ、知恵ある者は満足いく生を送れないと、僕はそう思っているんですよ。
「……結論を言いたまえ」
「要はね。彼ら、妥協したんじゃないかなーって」
「妥協?」
「今まで人に使われていた彼ら。だけど、老いてなお、自分はまだ有用だ、って。そんなプライドが彼らに、音楽隊への入隊だなんて滑稽な誇大妄想を見せた」
「…………」
「成果は出せましたね。泥棒を、追い払った。自分達の力でさ」
「…………君は」
「そして、悟ったのかもしれません。自分達はここまでだ。あるいは、自分達の最後の晴れ舞台であった、と」
「君は、何を考えている?」
「そんな晩節を汚すのを恐れて、仲間内だけで、過去の栄光に縋って生きる。最後まで、下手糞な音楽を奏でながら、自分達は音楽隊だ、って。いじましい話じゃあありませんか」
「……自分には、君が何を伝えたいのかさっぱり分からない。いいから結論を言ってくれ」
「せっかちさんねえ。要するに、動物さんたちに音楽を奏でてもらおうって話ですよ」
――滑稽に、残酷に。
「……皆が眠たくなるような、そんな魔術って、エヴァさん使えます?」
「……それは……」
――ファースト・ロストの惨劇の際、戦闘時に無惨にも使われた奴ですよ。
貴女がやったんでしょ?
ねえ、違う?
『原初』の魔女、エヴァ・カルマ殿。
「……知っていたのか」
エヴァさんは、普段の茫洋とした目をやや細め、僕に向かってそう言った。
「エルフとは知りませんでしたけど。お蔭で、司祭さんは折角結界張ったのに破られちゃいましたからね。いやあ、あの時は参りました」
「君は……そうだな、君はナイル村の」
「ええ、生き残りでござい」
「……恨んでは」
「いーんですよそこら辺の話は。ぜぇんぜんこれからの予定とは関係がないですから」
「……」
「まあ、話をふったのは僕ですけどね。でも、知りたいのは一つだけ。大人数を眠りに誘う、単純でありながら強力なあの魔法。エヴァさん、使えます?」
「ああ、使えるとも。使用後は、魔力枯渇の所為でしばらく身動きできないが」
「上限は何人くらいです?」
「……あまり他人に言える内容ではない。秘術の一つだからな」
「ふうむ、じゃあ、密集した百人くらいならいかがです?」
「それなら……まあ、よほど間隔が空いていなければ」
「おっけぇーい。それじゃあ」
「待ちたまえ。まだ自分はやるとは言っていない」
「にゃんと」
「とりあえず、君の話は詳しく聞こうじゃないか。しかし、どの道大事になりそうだから、クリスとアロマの意思に諮らなければならん」
「……にゃるほど、ごもっとも」
「そも、我々のパイプの一つである『狐』が潰れたということでかなり問題になっているんだ。既に裏は取れたんだがな、今後この件については他の工作員が担当することになるとはいえ、それでも現場にいる自分達が無関係でいられる訳はない」
ちぇー。組織ってのは大変ですねー。
こう、僕みたいなお馬鹿さんじゃ、所詮単純な方法しか思いつかないからなあ。
引っ掻き回したいわけでもないしなあ。
だって、僕は、ディアボロの皆のお手伝いがしたいんだから。
愛ゆえに。てへり。
「それに、もうすぐアリスも来るのだし、相談してからの方が……」
そんな事をエヴァさんが口にしかけた時、丁度魔法陣のある部屋から光が溢れた。
何事か、と思ってみてみると、僅か数瞬でバタン、と扉が開いて子狐さんが現れた。
何故ここに。
いや、それよりも。
彼女は何故服を着ている。
裸でなければ転移は不可能ではなかったのか。
畜生。
まさかあの一瞬で?
ありえぬ。
畜生。
いや違う、そんなことはいいのだ。
彼女は何故ここに?
そんな僕をよそに、ひどく取り乱した様子で子狐さん……アリスさんは口を開く。
「ボルトは、ボルトは無事なの!?」
「……アリス・クラックス。曲がりなりにもここは自分のセーフハウスだ、挨拶もなくその態度は如何なものか」
「エヴァ……様。これは申し訳ありません、ですが私の弟が」
気もそぞろ、といった感じでキョロキョロ視線を惑わせると、僕の姿が目に入ったのだろう、途端に眦を吊り上げてこちらを睨みつけてきた。
さっさと彼女の求める情報を言わないと首を絞められてしまいそうなので、聞かれる前に伝えておく。
「彼は……『鳩』さんの情報によれば無事みたいですよ。他の人たちは残念ながら全滅しちゃったらしいですけど」
「あ、そ、そんな……じゃあ、ボルトは今どこに?」
「『狐』を襲った者の手に落ちたそうです。ローグとか言う使徒の一人だとかに」
「そんな」
そんな、そんなとそればかりを繰り返すアリスさんの震える膝を見て、痛々しく思った。
可哀想に。
家族の安否を気にしなければいけない状況なんて、不幸の極みと言っていいだろう。
可哀想に。
たった一人の弟だもんね。大事に、大事にしてたのに。まるでトランペットのようにねえ。あれ、クラリネットだったかな。どっちでもいいか。
可哀想に。
ひひひ。
……やがて、震えも収まった子狐さんは、僕にその苛立ちと己の身に起きた不幸からなる憎悪を向けてきた。
「どうせあんたが余計なことをしたんでしょう! 今まではこんな事なかったのに、この疫病神!」
「ひっどいなあ。今回は僕なんもしてないのに」
どっちかと言えば苛められた方だってのに。
「五月蝿い、あんたなんか最初っからいなければ良かったんだ! この……人間め、死んじゃえ!」
さっき死んできましたっちゅーの。
ひっどい事言うのね。死んだら取り返しがつかないんだよ?
死んだら普通、一生その人とは会えないんだよ?
ごめんなさいも、ありがとうも言えなくなっちゃうのに、気安く死ねだのなんだの言わないで欲しいなあ、子狐さん。
そんな感じで僕がショックを噛み締めていると、アリスさんは既に小屋から飛び出そうとしていた。
「アリス、待ちたまえ。まずはお互いに冷静になって……」
「結構です。どうせボルトの居場所は掴めていないんでしょう!? あの子は私が助けます!」
そう言って、結局出て行ってしまった。
慌しい。
「……まったく。君は面倒ばかり引き起こしてくれる」
「ごめんなさい、でも、まあ。アリスさんをこのままにはしておけませんので、作戦概要、さくっとお話しちゃいますね」
僕は、これからの心積もりをエヴァさんにお話してみた。
……話を聞き終わったエヴァさんは、腕を組んでさも呆れた、と言った表情を見せた。
「君は、大胆なのだか小心なのだか」
僕の計画……というには余りにお粗末だが、それを話したところ、君はやはり良く分からん、とぼやかれてしまった。
「お手数おかけしますが、それでもね。まあ、ローグとやらは僕を狙っていたみたいですし、責任みたいなものも……ちょっとは感じてまして」
そんな彼女に対して、頭を垂れつつ返事を返す。
使徒。
魔族の敵。
そうなれば、元々親魔族派の取り込みは彼らの中で予定されていた事なのかもしれないが、それでも僕の存在が彼らの行動に影響を与えて、その結果ボルト君が囚われのお姫様状態になってしまったというのなら、助けてあげざるを得まいよ。
だって、アリスさんが泣いちゃうもんね。
あの子の涙は、きっととても綺麗で透き通っていて、舐め取ってあげたくなる宝石のような美しさを見せてくれるのかもしれないけれど。
それでも、その涙は喜びから出るものであって欲しいから。
だって僕は彼女のこと、愛しているんだもの。
何より、このままアリスさんを放っておくほど甲斐性なしになるつもりはない。
僕は紳士でありたいのだ。
「……随分とあちこちに手を回したものだな、もうそこまで話を進めてしまったのなら許可を出さざるを得ないだろうが」
勝手なことばかりして、と言いたげな目でこちらを見やるが、仕方あるまい。
そもそもここに来て、それぞれのグループに侵入した度に命が脅かされていたのだ。
多少の勝手は許してくださいよ。何せ、一度殺されちゃったくらい危なかったんですから。
「じゃ、僕は子狐さん追いかけますね」
あの子は僕の大事な大事なヒトですから。
死なせるわけにはいかんのですわ。
「本当に勝手な奴だな、君は。いい、もういいとも、君の話が確かなら、ディアボロに戻って相談している時間もなさそうだ。自分の権限において、君の行動を認めよう」
「あら、いいんですか?」
「君が初めから……いや、元々君は情報収集の為に来たのだったな。情報操作は業務に含まれない」
物分りのいい事を言いながら、こちらには恨みの篭った視線をぶつけてきた。怖い。
これ以上ここに居ても薮蛇だ。
すたこらさっさ、と僕もアリスさんの後を追ってスリザに向かおうとしたところ、呼び止められる。
振り向くと、彼女が見覚えのあるものをこちらに向け、渡そうとしている。
「持っていきたまえ」
そう言って、彼女は以前食事時にプレゼントしてくれた、あの毒殺用ナイフを、今度は鞘付きで差し出してくる。
「僕はこういうの苦手だってのに」
「場合によっては、斬った張ったがあるかもしれんだろう。持っていて損はない」
「仕っ方ないなあエヴァさんってば。そんなに僕が心配ですか?」
「ああ、勿論」
エヴァさんの顔を、覗き見る。
――サンプルとして……ってな顔してますね。
まあいいか。モルモットはモルモットで、研究者のことを愛してあげることも出来ますから。
それを教えてあげますね?
……ねえティア様、このナイフもう大丈夫?
――ええ、洗脳術式はもう解除されているわ。見抜かれた、と思ったんでしょうね――
この期に及んでそんなことしてたら流石にエヴァさんを今後信用できなくなってしまうが、その程度の分別はあったらしい。
「……そうだ、最後に。君に二つ、言い忘れた事がある」
「……? 伺いましょう」
「一つ目。君を苛めた誰かとやら。もし自分の予想どおりであったとしたなら……事が済み次第即座に逃げたまえ。それが無理なら、せめて死体は残るようにしてくれ」
「うわーいやっさしいお言葉。いま一つは?」
「金輪際、自分の事を魔女と呼ぶな。次は許さない」
「……へへえ、了解」
「まあ、次があればの話だが」
「手厳しーい」
そんなありがたい言葉を受けて、僕は夜のエルフの里に飛び出した。
参考:ブレーメンの音楽隊(グリム童話)




