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僕の地獄へようこそ

「は、は、はっ、はあっ」


 アリス・クラックスは走る。森の中を、必死で走る。


 あんな化け物と、まともにやり合えるはずがなかった。


 そもそも、戦いをさせてもらえるかどうかすら。


 殺されるのであればまだいい。

 この身は既に、アロマ・サジェスタに捧げている。

 その程度の覚悟はとうの昔に完了している。


 そう思っていたはずの自分が、恐怖だけに突き動かされて走っている。


 それはつまり、殺される程度・・・・・・では済まない事態が発生していると言うことだ。


 獣人である彼女は、己の戦闘力に自信はなくとも、今まで自分を生かしてきた臆病さ故の第六感を信じて全力で逃げ出していた。



「あ、あんな、あんな奴が、とにかく、とにかくっ! アロマ様に報告を……」



 ――――だぁれが殺した、駒鳥さん――――



「っ!」


 急いで幻術を己にかけて、周りの木に紛れる。


 既に自分の幻術が見破られていることは分かっているが、多少なりとも気休めになればと思っての苦肉の策であった。


 自分の心臓の音がうるさい。


 止められるものなら止めたいのに、ああ、こんなに。


 こんなに大きい音を立てていたら、あいつに、あいつに……見つかってしまう…………!


 木にもたれかかり、呼吸を整える。

 目を閉じる。

 気配を消す。


 自分は狐だ。


 ただ静かに獲物に忍び寄り、ただ冷静に敵から逃げ出せる、優秀な因子を引き継いだ、狐の獣人だ。


 ゆっくりと目を開け、音を立てずに四つん這いになり、静かに、静かにその場から身を離す。


 大丈夫、足の速さ自体は負けていない。

 このまま気配を消してこっそりと離れれば、逃げ切れるはず……!



 ――ガツン、と。


 首に衝撃を感じたと思った瞬間、目の前が真っ暗になった。


「な……っ!?」


 周囲は警戒していた。


 間違いなく自分の周りには、誰もいなかった筈なのに、一体誰が。


 いや、決まっている。

 死角から来たのであれば、それは……!



 上からだ。



 空の支配者の一族が、上空から私をその鉤爪で地面に押さえ込んだのだ。



「ピュ、ピュリ……!」

「あかんやん、どこ行こうっての?」


 口の中に土が混じり、苦い味がする。


 でも、そんなことを気にしていられるほど悠長な状態ではなかった。



「あ、貴女こそ、自分が何をしているか分かってるの!?」

「ウチ、何も聞いてへんで。この仕事にアンタが関わってるなんて聞いとらん」

「これはアロマ様からの特命です。いいからさっさと離しなさい!」

「ひどいなあ、アリス。アンタ、ウチを裏切ったんやな」

「何を……?」

「陰でコソコソ、ほんま、狐っちゅうのはいやらしい……」

「……ピュリア……!?」



 何とか首を捻って彼女の顔を見たが、彼女は私のことなど見ていなかった。


 見当違いの方角を、茫洋とした目で見つめていた。


 正気じゃない……であるならば、まだ逃げ出す余地は有る。


 自分の髪留めを外して、仕掛けをいじって刃を出し、ピュリアの足を切りつけた。


 予想外だったのか、彼女が私の首から足を離した隙に、拘束から逃げ出す。




 ――――そぉれは私。雀が言った――――




「…………っ!」


 逃げなきゃ。

 逃げなきゃ。

 せめて死んでも・・・・逃げ切らなければ。


 取り返しのつかないことになる。


 何が何でも、アロマ様に伝えないといけない。


 アレは、生かしておいてはならない、絶対に殺さなければならない怪物だと伝えなければならない!


 命などいらない。


 私はもう、ただこの一言だけを伝えるためだけの存在でいいから……!




「駄目じゃないですかピュリアさん、しっかり捕まえておかないと」



 怪物の声が聞こえた。


 普段どおりの、何も変わったことはないとでも言いたげな、そんな平静な様子で、あの狂人は声を放っていた。


 逃げなければ。


「ごめんなあ、でもほら、見いや。脚ぃ、斬られたってん」



 走る。



「あらら、可哀想に。ほら、舐めてあげますから出してください」



 走る。



「ホンマ? 嬉しいなあ……でも、楽しみは後に取っとくわ。先にやらなあかんことがあんねんやろ?」



 気持ち悪い気持ち悪い。



「いい子ですねえピュリアさんは。後で、ぺろぺろしてあげますからね」



 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!



「……ウチの血、よぉ味わってな?」



 やだやだやだやだやだ。



「ええ、勿論……ところで、アリスさん、って言いましたっけ?」




 やだやだ、いやだ……。






「どこに行こうってんです? さっきからジタバタと」





 目の前に、あいつの顔が……。


「動けないでしょ。どうしてでしょうね」


 走っていたはずなのに、あの二人の会話がちっとも遠のかなくて。

 周りの景色が、少しも変わらなくって。


 おかしいとは分かっていたけれど、私には走ることしか出来なかったから。


「この森はね、ちょっと特別なんですよ。魔族や獣人にとっては、確かに『禁断の森』だったのかもしれませんね」



 怖い、怖い、怖い。



「駒鳥でも、雀でもない。鳥さんはピュリアさん。貴女は狐さんでしたね」



 怖い、気持ち悪い、近付かないで……。



「鴉はお好きですか? 鶴はどうでしょう? ……元々狐さんと鳥さんは、相性が悪いのかも知れませんが、ひひひ」



 息、深呼吸、しなくちゃ、冷静に、冷静に……。



「……葡萄はお好きですか? 貴女にとっての葡萄ってなんでしょうね? 甘いのか、酸っぱいのか……食べるまでが、一番のお楽しみ」




 れ、れいせい、に……。



 い、息……呼吸って、どうやるんだっけ……?


 いや、そんな事はどうでも良い。


 逃げなきゃ!





「……でもきっと。貴女が大事にしていた葡萄はねぇ……」




 ……いやだ、やめて。


 私は、私は!


 私を!




「もう、二度と味わえない」







 ――――お願いだから、私から私を奪わないで!!




「やだあ!! 助けてアロマさまあぁぁっ!!」








 ……その日、深く暗い森の中で、ピュリア・ハープとアリス・クラックスは飲み込まれた。


 訳の分からない狂気に犯され、彼女らは、二度と戻れない場所に足を踏み出した。















 ……いいや。


「違うね、僕が突き落としたのさ」


 ね、ティア様?


 恋は、するものでもなく、得るものでもなく、落ちるものだもの。


 愛だって、きっとそうだろう?


 ……だから。愛してあげますよ。

 みんなみんな、愛してあげますから。

 

                      

 愛してやるから、覚えていろ。

                              

 震えやがれ。



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