ようこそ新世界へ。私はあなた方虫けらを大いに歓迎いたします
――たかが人間が、魔王に逆らうなと。クリス、貴女はそう仰るんですね。
――たかが人間が、魔王に土をつけるんです。愉快でしょう、ねえ、ティア様――?
――くすくすくす、と、誰かが笑った。
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魔王が、ナインに手を上げた。
その事実は、ディアボロの城内の一部であっという間に知れ渡った。
無論、唯一の城内の人間である彼を知らぬものはほとんどいなかった。
彼をよく知らぬ者からの悪感情は多々あったものの、結局はさして興味が湧くものでもなかったらしい。魔族は、それ程にクリステラを信頼していたし、彼女の右腕として、彼女を支えるアロマ・サジェスタがいる以上、問題はあるまいと。
ただ、まあ……一応魔族に貢献しているとの風聞もあったので、どんな考え……例えば不埒なそれを持っていようが、役に立つ内はせいぜい働かせておけばいい、と。
おおよそ皆そのような考えであった。
ナインの現状の立場に対する嫉妬など、抱くことすら恥ずかしい。人間ごとき、使い捨ての惨めな駒を羨むなど、そんな恥ずかしい真似が出来ようか。
言葉には出さないが、下の者までがそのような意識を持っていた。
そんな風潮に対する例外の一人が、ガロン・ヴァーミリオンであった。
彼女は事が起きたのち、噂を耳にして直ぐにナインと接触を図ろうとしたが、クリステラの許可を受けることが叶わなかった。
……思うところは存分にあったようだが、先日クリステラに忠誠を改めて誓ったばかりの彼女の軽挙妄動を彼女の部下が押し留めた。
何より、その動きを耳にしたらしいナインから部下づてに渡されたメモを見て、水のかかった火のように大人しくなったらしい。
……クリステラ自身に対しても、当然何がしかの意見があったようだが、終ぞ彼女はそれを表に出すことはなかった。
ただ、ナインが無事であったことだけは何度も確認したようだ。
他にナインと関わりのあった何人かも、いくらか考えるところがあったようだが、結局、クリステラが暫くナインを表に出さない様にしていたこともあり、ただ無事を聞いたことによる安心と、魔王とナインとの関係に対する不安だけを抱えるに留まった。
つまり今回の事件が引き起こした目に見える変化としては、ナインの顔に、左目の上から右頬に走る向こう傷が残ったのみであった。
『――しかし……皆様方、ご存知でしょう?
目に見えるものは、全てそれ以外の残滓。洞穴の壁に写る影。
真実という奴めは、常に視界の外にございます。
ナインの外に。
クリステラの外に。
哀れな孤児の外に。
孤独な魔王の外に。
何かを見ることとは、それを理解すること。
直視も出来ないものとは、距離を取る以外に身を守る術はない。
しかしそのままではいられない。目に入らないものこそが、理性にとって最も恐ろしい。
――だから人は、不明なものに名前を付ける。
理解した気にさえなればよいのです。それが真実である必要などありはしないのだから。
ただ、恐怖から逃れられれば、それで十分なのですから』
――だから魔族は、敵である人間の力を、策略を、自分たちの良識ではかってしまった。
いつだって世界を動かすのは、自分以外の誰か。力ある者の一撃ではなく、虫の一噛み。
この世界に主人公などいない。
自分の評価にかかわらず、権威ある者の一言に関わらず、運命という名の予定調和のみで定まらず、残酷な結果だけがただ残る。
――この点で言えば、ナインも、クリステラも。世界の意思、即ち運命の駒以上の存在には、なることが出来なかった。
『――争い、奪い、憎しみ合う。魔族と人間は、そういった関係です。
だからと言って、人は、ああ人は、クリステラが散々呪った程度に生易しくはなかった。
彼女が望んだ以上に悪辣な生き物になってしまった。
誰かが、ぽつりと言いました。人か魔族か、その誰かは、震えながら言いました。
仮にも神の名の元にある筈の使徒達が、あんなことをするなんて。
――あんなことをするだなんて、って』
――クリステラ以外がナインの傷を見ることなく、彼はディアボロ城から姿を消すこととなった。
ナインがクリステラに傷を受けた僅かに4日後、魔族領アグスタにあるディアボロ、全ての魔族の強さの象徴が治めていたその城は陥落することとなる。
12月31日は、旧世界においても、今の世……新世界においても新たなる年を迎える節目である。
無論魔族も、新年を心地よく迎えるために、彼らの文化に則って様々な準備をしていたところであった。
しかし、人間にとってはその一週間前こそが本当に重要な、それこそ一年間で最も重要と言われる日として扱われている。
12月24日。
サリアがこの世に救いをあらわしたと言われる『聖祭』の日。
その日――ディアボロが侵攻を受けた日を境に、魔族及び獣人らは、人類からの反撃により多大な出血を強いられることとなる。
――これから記されるのは、その原因と、経緯と、結果である。




