36_聖女と第一神
その後も、エリアノとウィンターがフェアドロの功績を説明するが、頭に入ってこなかった。
最後に、エリアノがまとめる。
「今回の研究から、彫刻作品を読み解く際には、作品そのものだけではなく、作者の生涯にも着目することが重要だと考えました。以上で発表は終わります。ご質問がある方はいらっしゃいますか」
質疑応答の時間になり、ルクティアヌスは気づくと手を挙げていた。
「ルクティアヌス神は、信者を堕落させた罪で、神界で裁きを受けた。キミは、ルクティアヌスは間違っていたと思うかい?」
その問いは、ウィンターに投げかけたものだった。
長い間神として生きている自分さえ答えの出ていない問題だ。なぜ人間の少女に、こんなことを聞いてしまったのかは分からない。
するとウィンターは、少し考えてからゆっくりと口を開いた。
「罪……だったんだと思います」
「…………」
「でも、それだけじゃないよねって、私は赦したいです。愛情を目一杯注ぎ、大切にして、慈しんだ神様をどうして責めないといけないんですか?」
「……!」
ウィンターは、「確かに、悪いことしたら罰を受けなくちゃならないんだと思います」と続ける。
フェアドロも、なぜあんなことをしたのだろうと悔やんでたかもしれない。彼を庇護したルクティアヌスが責任を問われることもあるかもしれない。ウィンターはそう言いながら「でも――」と言う。
「ふたりの間にあった絆さえ間違ってたなんて、私は思いません」
それは、ウィンターがルクティアヌスに向けたメッセージだった。この講堂で彼女だけは、質問を投げかけた青年がルクティアヌス本人だと知っている。
彼女の言葉が、ルクティアヌスが抱えてきた苦しみも傷も、罪悪感も、何もかも拾い上げて癒していくような不思議な感覚だった。
(……そんな風に許されたら、立ち止まっていられなくなる)
すると今度は、エリアノが口を開いた。
「きっとフェアドロはルクティアヌス様に、こう思っていたんじゃないでしょうか」
エリアノはルクティアヌスをまっすぐ見つめ、優しく目を細める。
「ありがとう、あなたに大切にしてもらえて本当に幸せでした。だからもう、自分を責めないでって」
エリアノの姿が、声が、フェアドロに重なり、ルクティアヌスの唇がわずかに震えた。同時に、フェアドロとの懐かしい記憶が頭を過ぎる。
(キミは、フェアドロの生まれ変わりなのかもしれないね)
ルクティアヌスは最後にそう直感した。
発表が終わって廊下に出ると、ウィンターとエリアノが話していた。ルクティアヌスは思わず話しかける。
「お疲れ様、ウィンターにエリアノくん」
「私たちの発表、どうでしたか?」
「発表自体は良かったよ。でも、最後の質疑応答、あれは君たちの妄想だろう。研究では根拠に基づいて推論しなくちゃね?」
「うっ……手厳しい……」
ウィンターはしゅんと肩を落とした後で「でも」と続け、こちらを見上げる。それから、優しげに目を細めた。
「もう一度、フェアドロさんには会えましたか?」
「…………」
ルクティアヌスはエリアノに視線をやり、彼の姿にフェアドロを重なった瞬間を思い出した。
「ああ、会えたよ」
挨拶をしたあと、去っていこうとするふたり。
ルクティアヌスはエリアノの肩を掴んで呼び止める。
「待ちたまえ」
「は、はい。なんでしょうか」
こうして対面し、近くで見れば見るほどフェアドロにそっくりだと思った。
生まれ変わりは存在する。
神界の『魂の門』に立たなくてはフェアドロの生まれ変わりか確かめることはできないが、エリアノにフェアドロの欠片を本能的に感じた。
「彫刻は好きかい?」
「はい」
「家族は?」
「母と父、祖母と……妹がいます」
「仲はいいのかい?」
「はい」
「それは良かったね」
フェアドロには、家族がいなかった。
新しい人生では温かい家庭があって、飢えることもなく過ごしているようで安心だ。
「キミはルクティアヌスをどう思う?」
エリアノはどうしてそんなことを聞くのかと首を傾げたあと、律儀に答えた。
「そうですね……。昔からなぜか、ルクティアヌス様の像が好きで。特に、神殿に置いてある像は今もよく見に行っています」
「そうか。呼び止めてすまないね。もう行っていいよ」
「失礼します」
去っていくエリアノの後ろ姿を見送りながら、ルクティアヌスは子どもの姿になる。
そして、誰もいない廊下で小さく呟く。
「そこにいるんだろう。ネストロフィアネ」
そう呼びかけると、廊下に白い鳥が飛んできて、ネストルフィアネの姿になった。
「とうとうあなたも、あの娘に絆されましたね」
「ああ、そうだね」
「神々を翻弄する彼女は、やがて私の脅威になるでしょう」
「そう怯えなくていい。未来はきっとそれほど悪くないはずだ」
「神に寵愛を受けた人間は傲慢になり暴走します。ウィンターもいずれ、フェアドロのような大罪を犯すかもしれません。光が闇に飲まれて世界が崩壊しても、そう言えますか?」
ネストロフィアネの言う通り、ウィンターのような聖女が、神界の教義を無視して、弱者や罪人を救おうとしていたら、秩序が乱れる可能性もある。
神界にとっては、人間たちが神の言うことに忠実な方が扱いやすい。
「闇がなければ光も存在しない。悲しみがなければ喜びもない。人間に矛盾を与えたのは我々神だっただろう。ボクらが闇を否定してどうするんだい」
だが、ネストロフィアネは、徹底的に闇を排除し、光だけを信じる世界の方が安全だと信じてきた。
「それに……ウィンターを否定したところで、セシュリエータは戻らないんだよ」
「…………」
ギノは最初からラピナス十神だったわけではない。彼の前に、闇の神と呼ばれたひとりの女神がいた。それがセシュリエータ。
理不尽に苦しみ嘆く人間が正しく報われるようにと願い、この世界の生まれ変わりの構造を創った元神だ。
セシュリエータは全ての魂が等しく幸福になるために転生の仕組みを美しく創った。
亡くなった人間は神界の『魂の門』で人生を振り返って、最適な次の人生を選ぶ。
罪人は次の人生では犯した罪を精算して赦しを得て、理不尽を味わった者は次の人生では愛のシナリオをなぞる。病気を経験した者は健康な身体で生き直す。どんなに不幸な命も、経験した苦悩はひとつも取り零さずに報われるのだ。
もちろん、人間である限り困難や試練は避けられないが、成長し、納得のいく人生が送れるように緻密に設計されている。
(彼女が世界に遺した全ての人間が報われ、目的に沿った最適な人生を生きる構造は、今も機能し続けていて、理不尽は決して無意味にならない)
『魂の門』は、死んだ人間が新しい命に宿るために通る門だ。
神界でウィンターが異世界人の人格を持っているとギノが語ったとき、ネストロフィアネは荒唐無稽だと突っぱねたが、この世界以外の魂が『魂の門』を通過して、この世界の生きている人間に宿ることは、前例はないものの可能性としてゼロではない。
(ウィンターが他の世界で病死した別人というギノの話は、事実だろう。理由は分からないけれど恐らく、こちらの世界の魂の門を通ったんだ)
転生の仕組みが作用したことで、病気がちだった少女は、健康なウィンターとして生き直している。
孤児だったフェアドロも、今世は家庭に恵まれて経済苦を味わわずに済んだ。
しかしラピナス十神は、セシュリエータが創った『魂の門』の仕組みも、転生がどんなものなのかも完全には理解していない。特に、比較的新しい神のギノやユアンリードは尚更だ。
誰よりも優しくて慈悲深い女神セシュリエータは、最悪の殺され方をした。
彼女が人の姿で戦地に降り立ち、平和を訴えていたとき、人間に魔法による呪いを受けて命を落とした。
他の神なら人間に殺されることなどありえないが、セシュリエータは世界の生まれ変わりの構造を創るために全ての神力を使って弱っていたのだ。
そして、自分を傷つけた者たちさえ許すと笑って、ネストロフィアネの腕の中で命を落とした。
「分かっているよ。キミがどんなに彼女を愛していたか。彼女を失ってどれだけ苦しんで、自身を責め、心を砕いていたか。分かっている」
「……」
「それにもしかしたら今ごろ、フェアドロやウィンターのように生まれ変わって楽しく生きているかもしれない」
ネストロフィアネはセシュリエータを失ったのをきっかけに、悪を嫌うようになった。
もちろん他にも要因は色々とあったが、明確に闇を排除する思想になった背景には、元闇の神の死がある。
「会えないなら、どこで何をしていようと、それは存在しないのと同じです」
窓から吹き込んだ風が、ネストロフィアネの長い髪を寂しげに揺らす。
「……そうだね。キミはそう言うだろうね」
彼の思想はどんどん極端なものになっていき、あらゆる闇を要らないものと見なして、新たな闇の神ギノと対立した。
闇のセシュリエータと光のネストロフィアネは完全に対等な二対の神だったが、ギノに代わってから次第に光が優位になっていった。
「無駄な慈悲は不幸を生むだけです。この世界は、光だけが満ちていればいい。私は弱者も悪人も見捨て、教義に忠実な者だけを救います。あんな思いをするのは、二度とごめんだ」
ネストロフィアネは再び鳥の姿になって、窓から羽ばたいていった。
ウィンター・エヴァレットは、弱さも迷いも不器用さも未熟さも剥き出しで、けれど『痛みをよく知っているから』という一点に由来する精神性が、神の心を揺さぶる。
(ウィンターを見ていると、セシュリエータを思い出す。ネストロフィアネが動揺するのも無理はないだろうね)
セシュリータの遺した功績は大きなものだが、彼女はいつもへらへらしていて、適当で危なっかしくて、強がりなくせによく泣く、どの神よりも不器用な神だった。




