35_第十神ルクティアヌスの罪
愛を司る第十神、ルクティアヌスは気まぐれに地上に遊びに行くことがあった。
人間界は面白い。
何もかも満ち足りている天界では味わえない経験が溢れている。
天界からそっと、人間が創る物語を読むような気持ちで人々の暮らしを眺めるのも楽しいが、ルクティアヌスは次第にそれだけでは満足できなくなり、人のふりをして人間に会いに行っていた。
その日、地上に下りて田舎の街を歩いていると、道の端に倒れている子どもを見かけた。
(可哀想に)
子どもに近づいてみると、生命維持に必要な神力の気配がとても弱く、今にも命の灯火が消えてしまいそうだった。
全身薄汚れていて、服もボロボロ、頬は痩せこけている。
荒れた唇で弱々しく呼吸をしているのを見て、気の毒に思った。
その子と目が合ったとき、助けを求められた気がして、放っておけなかった。
「お食べ」
懐からパンを取り出して渡すと、子どもは起き上がって黙々とパンを食べた。
翌日も、なんとなく気になって同じ場所に行くと、その子はいた。
傍に歩み寄って果物を与える。
その次の日も、その子に食べ物を与えた。
子どもの元に毎日通うようになり、一週間が経った。
最初のころよりも顔がふっくらとして、元気そうだ。パンを食べ終わると、子どもはルクティアヌスに抱きついてきた。
「なんだ、甘えているのかい?」
その子が、ルクティアヌスの服についている装飾をこっそり取ったのに気づき、わずかに眉を上げる。
「…………」
しかし、翌日もまた同じように子どものところに行った。
そして、またパンを渡す。
「どうして来たんですか」
子どもは初めて言葉を口にする。それから、ひどく申し訳なさそうな顔をして、盗んだ装飾品を差し出した。
「あの、これ……」
「返さなくていい。それはもうキミのものだ」
彼の手に装飾品を握らせ、微笑みかける。
小さな手は震えていて、一晩、罪悪感や自責の念に押し潰されていたのだろうと想像した。
盗みを働いた者は、助けてはならない。それがラピナス神の教義だ。しかしこの子は、生存のために手段を選べる状況ではなかった。
天界において、神は特定の人間に情けをかけてはならないという暗黙の了解がある。
けれどルクティアヌスはこの子の傷ついた心に、優しく、丁寧に触れてみたくなった。そうしたら、どんな顔を見せてくれるのか興味があった。
「ボクの元に来なさい。あらゆるものからキミを守ってあげよう」
「……はい」
「名はなんというんだい?」
そして彼は、フェアドロ・ルクレールと名乗った。
◇◇◇
「ウィンターさんはまだ来ないんですか? 発表の順番は最後に回しましたが、もうこれ以上待てませんよ」
「聖女の緊急の仕事が入ったんです。ですが、必ず来ます。あと五分だけ待っていただけませんか」
「もうこれ以上は無理です。あなたたちはもう失格に――」
講堂の舞台の上で、エリアノと運営スタッフが揉めていた。
ピリピリと緊張した空気が流れる中で、足音が遠くから響いた。
「お待たせしました。ウィンター・エヴァレットです……! はっ……はぁ……、遅れてすみません」
「ウィンター様……! よかった、こっちです……!」
舞台袖から走ってきたウィンターは、エリアノに手招きされる。
彼のもとに駆け寄り、膝に手を置いて乱れた呼吸を整える。
汗をかいて額に髪がべったりと張り付いているし、制服ではなく全身土で汚れた白ローブ姿だった。
「何あれ……全身泥だらけじゃない」
「聖女の仕事に行っていたそうよ。随分忙しそうにしていたから、きっと発表の準備も間に合っていないでしょうね。留年寸前って噂だし」
「逆に面白そうだ。聖女様が慌てふためく姿を見られるかもな」
ルクティアヌスの前方の席に座る生徒たちが、ウィンターに好奇心の目を向けている。ルクティアヌスは立ち上がり、後ろからぬっと彼らを覗き込んだ。
毛先を切り揃えた髪が、重力に従って下に垂れる。
「うわっ……!? な、なんなんだこの人……」
「講堂では静かに。マナーは守ろうね。しー」
愛を司る神は、人を支配する力を使うことができる。
唇の前に人差し指を立てると、生徒たちの唇の上下が張り付いて、声を出せなくなった。
静かになったあと、席に座り直し、ウィンターを見つめる。
「お待たせして申し訳ございません。発表を始めさせていただきます。一年のエリアノ・ルクレールと申します」
挨拶をした青年の顔を見た瞬間、ルクティアヌスは目を大きく見開く。
エリアノと名乗った彼は、フェアドロと瓜二つの姿をしていて、同じ姓を名乗ったから。
「同じく一年ウィンター・エヴァレットです。私たちは彫刻家フェアドロ・ルクレールを発表テーマに選びました。よろしくお願いします」
後ろのスクリーンに、魔法の映写機で資料が映し出される。
そこには、フェアドロが残した作品が現れた。
エリアノはフェアドロの概要を、分かりやすく説明していく。
「皆さんがご存知のように、フェアドロは『堕落した彫刻家』と呼ばれています。もともと孤児だった彼は、ルクティアヌス神の神託を受け、神像作りを始めました。ですが、罪を犯し収監されます」
フェアドロを拾ったルクティアヌスは、彼を心から慈しみ、大切に育てた。
最初は哀れみと好奇心からだったが、だんだん自分に心を開いていくフェアドロが、かわいく思えて仕方がなかった。
『おや、また絵を描いているのかい?』
『先生。こ、これは……』
『ふ。隠すことはないでしょう。恥ずかしがらなくていい。これはボクかい? 上手に描けているね』
『お世辞はいいです。僕、もっとあなたの姿を美しく世に残したいです。先生……いえ、ルクティアヌス様』
『……! 気づいていたのかい……?』
『神界の使いの方と話しているところを見ました。使いの方は一瞬でどこかに消えて……。転移魔法、ですよね』
人間の親が子を育てるのを真似ていると、ルクティアヌスは度々神界から忠告を受けていたのだ。
なぜなら神は本来、全ての信者に等しく愛情を注ぐのが美徳とされているから。
依怙贔屓すれば、その人間が傲慢になる危険がある。
フェアドロは幼いころから絵を描くのが好きだったが、次第に彫刻に興味を持ち、ルクティアヌスの彫刻ばかりを彫るようになる。
ルクティアヌスはラピナス十神の最後の神であり、他の神々に比べて人気がなかった。フェアドロは作品が評価されなくても、同じ題材を繰り返し作り続けた。
だが、フェアドロが結婚して長男が生まれてまもないころ、彼は神殿の他の神を勝手にルクティアヌス像に作り替えるという罪を犯した。
彼はただ、不人気なルクティアヌスの信仰を広めたかっただけなのだろう。
フェアドロは神殿に断罪されて牢獄に入った。彼の妻と子は、周囲からの非難に耐え兼ねて、海に飛び込んだ。
一方のルクティアヌスも神界に呼び戻され、信者を堕落させた神の烙印を押され、力の一部を没収された。
それから、二百年の時が経ったが、ルクティアヌスはフェアドロのその後の人生を知ろうとは思わなかった。
怖かったからだ。
彼の人生を台無しにしてしまったことが申し訳なくて、罪悪感にひたすら苛まれていた。
「フェアドロは二十年の獄中生活を経て、再び彫刻刀を取りました。世間は神への冒涜だと彼を非難し、像を破壊しました。それでもフェアドロは、配達業でどうにか生計を立てながら、八十歳でなくなるまでルクティアヌスの彫刻を続けました」
彫刻を、死ぬまで続けた……?
エリアノの口から説明を聞いたルクティアヌスは、馬鹿な、と目を見張った。
フェアドロは第十神に傾倒したばかりに、妻子を失って犯罪者になったのだ。普通なら心が折れて、二度と彫刻などしないはず。
(ボクを恨んでいたんじゃなかったのかい?)
すると、ウィンターが続ける。
「彼は現在も、『堕落した彫刻家』と言われていますが、その一方で、彼が残した多くのルクティアヌス像は、その芸術性を高く評価されています。ここまでの内容から、私たちは考えたんです。どうしてフェアドロの作品にみんなが魅力されているのかなって」
ウィンターは一拍置いてから、その先の言葉を紡ぐ。
「きっと、そこに愛が宿っているからなんだと思います。罪を犯し、何もかも失っても、ルクティアヌス様への愛だけは手放さなかった。その想いが作品にこもってるんじゃないかって……」
すると、ウィンターの合図によって舞台にワゴンが押し出されてきた。
そこには、作りかけの彫刻が乗っていた。
エリアノが説明する。
「これは、教会から今回特別にお借りした、フェアドロの遺作です。火災の際に破損して中空構造になっていることが分かり、中からこのような物が出てきました」
それは、ルクティアヌスがフェアドロに与えた例の装飾品だった。
そこに彫られた文字を拡大したものが、スクリーンに映し出された瞬間、ルクティアヌスははっと息を呑む。
『親愛なる我が神に、最大の敬意を』
その言葉の下に、亡くなる数日前の日付と名前も彫ってあった。
フェアドロは、ルクティアヌスが姿を見せなくなったあとも、ずっと慕ってくれていたのだ。




