龍の想い、龍は重い
「風が居心地悪いの」
勇者フェロニアの故郷、海辺の村近く。磯の香りと塩気を含む風を受けて龍少女は気だるげに己の翼を打ち振るった。
それだけで風が巻き起こり、吹き付ける潮風を跳ね返して遠くの海へと小さな波を起こさせる。
「ああ、嫌な風だ」
ファリスもそれを感じ、鋭く遠くに見え始めた村を鋭く観察しながらうなずきを返す。
ただ潮風がべたつくという話ではない。人間に比べて熱いほどに体温の高い龍にとっては、海水を含む潮風は体表で蒸発しやすく更にまとわりつく感じがあるのだろうが、それだけで不快という感想は恐らく出てこない。何といっても、刺激的で好いと塩の塊を貪って御満悦になるような存在なのだから。自然現象で不快感は示さない。
だから、ファリスにも分かる。村近く、人の生存圏はもうすぐそこと言えるで近くなったのに……
「鐘の音が聞こえない」
楽園の鐘。魔を祓い人の世界を造り出す神のもたらしたあの音が聞こえない。
「……それ故か。吾には如何様にも噛み合わぬ歯車を言の葉に出来ず歯痒よう感じておったが、霊神めの加護の亡きが故。
言われてみれば、左様。無ければならぬ祈り無し」
ふむふむと興味深げに見回すことで揺れる紅の髪。
「して、汝よ。斯様な事は真に可能なりや?」
「鐘を壊すことなら理論上は出来るさ。壊す手段は特殊だけど存在する。一応、移転とかそういった事も不可能じゃないらしいからね」
まあ、私は鐘守ではないから知らないけれど、とファリスは肩を竦めた。
「……難儀なことよな。神の恩恵を受け、己の手でその庇護を捨て去り……
それが、自己として立つ覚悟なれば、理解も出来ようが……」
むむ、と唸るのは星たる龍の娘。星の海へと飛び立ったという伝説の龍神を継ぐ、今の龍の神。
「他人に不幸になってほしい、そんな人は居るものだよ、エーミャ」
「吾は汝に不幸になって欲しくはないがの」
「私だってそうさ。それでも、そう思わない者達は居る。
妬ましい、疎ましい。そうした想いを抱くのは仕方ないけれど……彼等はそれを行動に移して、人々を排斥する」
きゅっと、ファリスは腰の剣の柄を握り締めた。
「だから、私は彼等を、彼等だけは、同じ人とは認めない。
自分の欲で皆を排そうというなら、私はその彼等を排する。ディランが護った世界の為に」
そうしてふっと顔の険しさを緩め、ファリスは横でうむうむと頷く龍を見た。
「……どこまでも手を貸してくれるんだね、エーミャ」
「夫婦ゆえな」
「……結婚した覚えは、無いけれどもね。そもそも私は」
「左様か」
何か理解したといったように、龍の翼がはためく。
「汝、吾に気後れしておるのか」
「いや、それは勿論当たり前なんだけれどもね。そもそも良いのかと思っているよ。
私は、残りの命を次代の勇者の、ニアの為に使うと決めたのに」
ふぁさりと風を孕み、龍神たる少女は浮き上がる。そうして、ファリスと目線の高さを合わせた。
「漸く解した。言の葉は便利で不便よな。心伝えるものなれど、全てをさらけ出すには足りず口惜し。
なれど、解せば明快。気に止む事は無きよ」
「そう、なのか?」
目をしばたかせるファリス。
「吾とて、汝の信仰に呼ばれた以上、汝が去りし後10000年程は、汝へ恋心を捧げんとは想っておるが」
「……ありがとう」
(いや、死後10000年引き摺る宣言は重すぎる……)
という本音は口にせず、ファリスは礼だけ口にする。皇龍少女の小さな縁から産まれたものは、少しファリスには大きすぎた。
「されど、愛は別なれば。吾とて神に類する者。
今は信仰者などほぼ汝しか居らぬがの、霊神等この地の大半が信仰者であろ?
故、愛とは受け与えるもの。吾にのみ捧げよなど、吾が根源からして言えぬ言葉を何故他の者に強要できようか」
くすりと微笑みを浮かべ、少女は手を差し出した。
「構わぬよ。誰を愛そうと、何者の為に動こうと。吾は懸命に生きる汝を寿ごう。
可能なれば、恋心は吾に捧げるが快きがの?」
「……そうか。少しだけ、君への遠慮が取れたよ」
とんでもない重さを見せられてはより重石になった気もする。が、ファリスは一応大丈夫だと気を引き締め、改めてもうすぐそこな村を見た。
「鐘はやっぱり、壊されている。
分かってはいたけれど、どこまで無事なのか……」
もう輪郭だけでなくある程度人々の見分けがつく程度の距離。
噴水で項垂れる小さな影が、ファリスの目に入った。
「リガル」




