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のこり香――この物語は絶対的にフィクションです――  作者: 神光寺かをり


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3/3

のこり香

 M氏は三箱目の煙草の封を、もどかしげに切りながら、


「畜生め、こんなことなら、あの時、口で()()のではなく、年寄り臭い白髪頭をぶん殴ってやるのだった。金輪際この街に来ようなんざ、思いもしないぐらいに、よ」


 物騒なことを吐いた。

 と……。


「白髪頭、ですって?」


 細君が(とん)(きょう)な声を上げた。

 M氏がいぶかしげに細君を見やる。


「その、特急の、ラウンジの席を独り占めにしていた人が、白髪頭?」


「それ以外に、俺が嫌いな奴はいまい」


「どんな、白髪でした? いえ、そもそも、どんなお顔でした?」


()が、か?」


 細君は背筋をぴんと伸ばすと、


「ですから、その、()()()()が、です」


 ゆっくりと言った。

 急に妙なことを……と思いはしたが、そういえば、あの時の年寄りについて、その顔つきの細かいところは語ったことはなかったやも知れぬ。

 M氏は手をこまねいて、目を閉じた。三十年近く前のことを、今一度、よくよく思い出そうとしている。


「着流しに、下駄履きで……」


 そそのことは細君は何度も聞かされている。


「着物のことなどは、この際どうでもよいのです。私が確かめたいのは、背格好であるとか、顔立ちであると、もっと細かい所です。……それで、どんな方でした?」


 口調は普段と変わらぬ、ゆっくりと穏やかなものであったが、細君は常には見えぬほど鋭い眼光で夫を見つめており、丸顔も心なしか引き締まって見える。


「う……。俺よりは、小柄だった……気がするな……」


 M氏は、へどもど答えた。


「そりゃ、兄様は大柄ですから、大抵のお年寄りは、小柄でしょう。……それから?」


 細君の眼差しは鋭さを増した。(にら)むかのようであった。

 M氏は大きな体をわずかに縮ませた。


「妙に四角い顔で、四角い黒縁の眼鏡で、()()()()()()()顔をして、真っ白けの白髪を()()()()()()()()……」


「真っ白な、白髪の、長髪……?」


「ああ」


「おでこは、前髪で隠してらした?」


「ん……?」


 M氏は小首をかしげたが、ややあって、


「ああ」


 とうなづいた。

 途端、細君は、ばっ、と立ち上がった。

 驚いて口を開けたM氏の顔など気にも留めず、細君は寝室へ走った。

 古ダンスの引き出しを、めいっぱいに引く。

 十年眠らせて、(しょう)(のう)の匂いの深くしみこんだ文庫本を、一冊、ひっ掴んで、細君は居間へ戻った。

 M氏が露骨に嫌な顔をするのを、やはり構いもせずに、細君は、文庫本の表紙を開いた。

 むっちりとした指がカバーの袖を示した。


「このお顔でした?」


 そこには著者名とプロフィールと、いわゆる「著者近影」が印刷されている。

 いや、これは当の作者が()(まか)った後の刷りであるから、「近影」というよりは、「遺影」と呼んだ方がよいのかも知れぬ。

 写真の老人は、四角い顔で、四角い黒縁の眼鏡で、()()()()()()()顔をして、白髪混じりのやや薄い()()をオールバックに撫で付けていた。


 M氏の顔色が、変わった。気色ばんで赤黒かった顔の色が、わずかに薄くなったようだ。

 こわばった顔の唇に、リトルシガーを挟んだまま、もそもそとした声で、


「……違う……」


 絞り出すように言うのが、ようやく、であるらしい。

 細君はうなづくと、また走った。今度は仕事場へ向かう。


 戻ってきた彼女の手には、今度はタブレットが掴まれていた。

 なにやらタップとスワイプを繰り返した後、細君は、ふっと、微笑とも付かぬ微笑を頬に浮かべた。

 液晶画面が、M氏の眼前に差し出される。


「こちら……?」


 M氏の顎が、力を失った。

 喉の奥から、


「あ……」


 という声が出て、火の消えたリトルシガーが、ぽとりと落ちた。

 M氏は奪うようにして、細君の手からタブレットを受け取ると、穴が空くほどにまじまじと画面を眺めた。

 やや()()()()の、()()()()()()()()、四角い黒縁眼鏡をかけた、四角い顔の年寄りが、紫煙の(くすぶ)る紙巻きを指に挟んで、楽しげに笑っている。


「……この、(つら)……」


 M氏はいま一度、言葉を絞り出した。


 それはI氏ではない。


 I氏よりも数年後にこの世を去った、別の小説家(ものかき)「S氏」の名前が、その写真の下に添えられていた。


「……違った……」


 M氏の喉から、言葉が、ほとばしり出た。

 顔が奇妙に引き連れている。

 笑っているらしい。

 M氏はタブレットを細君に投げ返した。

 椅子を蹴って立ち上がりざま、M氏は桜色の風呂敷包みをひっつかみ、


「行ってくる」


 しわがれた声で言い、一つ大きく息を吐いてから、のっそりと勝手口へ向かった。


「行ってらっしゃい、お気を付けて」


 その背中に、細君が大きく声を掛けた。



 さて……。

 勝手口のサッシ戸がぴしゃりと閉まるその音を聞いた、M氏の細君は、すっかり冷め切ったお茶を飲み干して、長歎息(ちょうたんそく)を吐いた。

 タブレットの液晶の向こうで笑っている、その小説家(ものかき)の顔に微苦笑を向けると、細君は電源ボタンをそっと押した。

 それから、ゆっくり立ち上がり、寝室に戻った。


 開けっ放しのタンスの引き出しには、まだ数冊の文庫本が取り残されている。

 そこへ先に出した一冊を加えて、改めてごっそりと取り出すと、タンスの上に置き並べた。

 そのわずかな、生活の隙間のような場所が、細君の「書棚」であった。

 書棚には、実家から持ち出した本の内の、()()()()を免れた()()と、後に買い足したものが、混然として並んでいる。


 細君はその中から、大分に手摺れのした、数冊の古びた文庫本を取り上げた。

 そうして、先程来、引き出されたままの引き出しの、新しく出来た隙間にそれらを収め入れると、季節はずれの着物をかぶせて、ピシャリ、と締めた。


 樟脳(しょうのう)の匂いのする風が、引き出しの隙間から吹き出して、部屋の空気と混じり、薄れながらも漂い続けている。


 細君の鼻腔(びくう)は、そのさわやかな香りに、すっかり慣れきってしまっていた。


〈了〉

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