のこり香
M氏は三箱目の煙草の封を、もどかしげに切りながら、
「畜生め、こんなことなら、あの時、口で諭すのではなく、年寄り臭い白髪頭をぶん殴ってやるのだった。金輪際この街に来ようなんざ、思いもしないぐらいに、よ」
物騒なことを吐いた。
と……。
「白髪頭、ですって?」
細君が頓狂な声を上げた。
M氏がいぶかしげに細君を見やる。
「その、特急の、ラウンジの席を独り占めにしていた人が、白髪頭?」
「それ以外に、俺が嫌いな奴はいまい」
「どんな、白髪でした? いえ、そもそも、どんなお顔でした?」
「Iが、か?」
細君は背筋をぴんと伸ばすと、
「ですから、その、特急の人が、です」
ゆっくりと言った。
急に妙なことを……と思いはしたが、そういえば、あの時の年寄りについて、その顔つきの細かいところは語ったことはなかったやも知れぬ。
M氏は手をこまねいて、目を閉じた。三十年近く前のことを、今一度、よくよく思い出そうとしている。
「着流しに、下駄履きで……」
そそのことは細君は何度も聞かされている。
「着物のことなどは、この際どうでもよいのです。私が確かめたいのは、背格好であるとか、顔立ちであると、もっと細かい所です。……それで、どんな方でした?」
口調は普段と変わらぬ、ゆっくりと穏やかなものであったが、細君は常には見えぬほど鋭い眼光で夫を見つめており、丸顔も心なしか引き締まって見える。
「う……。俺よりは、小柄だった……気がするな……」
M氏は、へどもど答えた。
「そりゃ、兄様は大柄ですから、大抵のお年寄りは、小柄でしょう。……それから?」
細君の眼差しは鋭さを増した。睨むかのようであった。
M氏は大きな体をわずかに縮ませた。
「妙に四角い顔で、四角い黒縁の眼鏡で、しかつめらしい顔をして、真っ白けの白髪をずるずる伸ばした……」
「真っ白な、白髪の、長髪……?」
「ああ」
「おでこは、前髪で隠してらした?」
「ん……?」
M氏は小首をかしげたが、ややあって、
「ああ」
とうなづいた。
途端、細君は、ばっ、と立ち上がった。
驚いて口を開けたM氏の顔など気にも留めず、細君は寝室へ走った。
古ダンスの引き出しを、めいっぱいに引く。
十年眠らせて、樟脳の匂いの深くしみこんだ文庫本を、一冊、ひっ掴んで、細君は居間へ戻った。
M氏が露骨に嫌な顔をするのを、やはり構いもせずに、細君は、文庫本の表紙を開いた。
むっちりとした指がカバーの袖を示した。
「このお顔でした?」
そこには著者名とプロフィールと、いわゆる「著者近影」が印刷されている。
いや、これは当の作者が身罷った後の刷りであるから、「近影」というよりは、「遺影」と呼んだ方がよいのかも知れぬ。
写真の老人は、四角い顔で、四角い黒縁の眼鏡で、しかつめらしい顔をして、白髪混じりのやや薄い短髪をオールバックに撫で付けていた。
M氏の顔色が、変わった。気色ばんで赤黒かった顔の色が、わずかに薄くなったようだ。
こわばった顔の唇に、リトルシガーを挟んだまま、もそもそとした声で、
「……違う……」
絞り出すように言うのが、ようやく、であるらしい。
細君はうなづくと、また走った。今度は仕事場へ向かう。
戻ってきた彼女の手には、今度はタブレットが掴まれていた。
なにやらタップとスワイプを繰り返した後、細君は、ふっと、微笑とも付かぬ微笑を頬に浮かべた。
液晶画面が、M氏の眼前に差し出される。
「こちら……?」
M氏の顎が、力を失った。
喉の奥から、
「あ……」
という声が出て、火の消えたリトルシガーが、ぽとりと落ちた。
M氏は奪うようにして、細君の手からタブレットを受け取ると、穴が空くほどにまじまじと画面を眺めた。
やや長髪の白髪の、前髪で額を覆った、四角い黒縁眼鏡をかけた、四角い顔の年寄りが、紫煙の燻る紙巻きを指に挟んで、楽しげに笑っている。
「……この、面……」
M氏はいま一度、言葉を絞り出した。
それはI氏ではない。
I氏よりも数年後にこの世を去った、別の小説家「S氏」の名前が、その写真の下に添えられていた。
「……違った……」
M氏の喉から、言葉が、ほとばしり出た。
顔が奇妙に引き連れている。
笑っているらしい。
M氏はタブレットを細君に投げ返した。
椅子を蹴って立ち上がりざま、M氏は桜色の風呂敷包みをひっつかみ、
「行ってくる」
しわがれた声で言い、一つ大きく息を吐いてから、のっそりと勝手口へ向かった。
「行ってらっしゃい、お気を付けて」
その背中に、細君が大きく声を掛けた。
さて……。
勝手口のサッシ戸がぴしゃりと閉まるその音を聞いた、M氏の細君は、すっかり冷め切ったお茶を飲み干して、長歎息を吐いた。
タブレットの液晶の向こうで笑っている、その小説家の顔に微苦笑を向けると、細君は電源ボタンをそっと押した。
それから、ゆっくり立ち上がり、寝室に戻った。
開けっ放しのタンスの引き出しには、まだ数冊の文庫本が取り残されている。
そこへ先に出した一冊を加えて、改めてごっそりと取り出すと、タンスの上に置き並べた。
そのわずかな、生活の隙間のような場所が、細君の「書棚」であった。
書棚には、実家から持ち出した本の内の、押し込めを免れた残りと、後に買い足したものが、混然として並んでいる。
細君はその中から、大分に手摺れのした、数冊の古びた文庫本を取り上げた。
そうして、先程来、引き出されたままの引き出しの、新しく出来た隙間にそれらを収め入れると、季節はずれの着物をかぶせて、ピシャリ、と締めた。
樟脳の匂いのする風が、引き出しの隙間から吹き出して、部屋の空気と混じり、薄れながらも漂い続けている。
細君の鼻腔は、そのさわやかな香りに、すっかり慣れきってしまっていた。
〈了〉




