176.鬼界(1)
鬼。
ただその一文字。
鬼。
天を仰ぎ見ようとも。
鬼。
大地を睥睨しようとも。
ただ其処彼処に鬼が在るだけ。
世界の全てが鬼でしかないこの世界。
だがその在り方は望んでいたものとは少し違っていた。
それが許せない。
本来であれば、そう思うことすら許されなかった存在。
他の存在と同様に、その誤った流れに呑み込まれて沿って在るだけだった彼。
それが外れている。
僥倖と言えば僥倖か。
あるべき流れに戻すために動くことが出来るのだから。
主が千年待ち臨んだ本来の願いへ。
悲願を叶えるために歩み出そう。
それが例え、かつての敵の力を借りねばならないのだとしても。
そんな想いが意識を貫く。
どろどろとした汚濁の中、唯一の光明のように。
そしてようやく理解する。
それが一体誰のものなのかを。
堕ちかけた自らが縋るべきその道。
それに応えるために受け止めなければならぬものがある。
その覚悟に呼応するかのように、暗闇から景色が姿を現す。
はるか昔。
覚えのある、とある村の光景。
羅腕童子の心象世界。
今度こそはその結末を見届ける必要があるのだという確信があった。
いつぞや見た村―――奥木村に降り立つ。
前回と同じように村人たちにはオレのことはどうやら見えていないようだ。
「あー…くそ」
状況が落ち着くと同時、怒涛のように記憶が整理される。
伊達政次率いる鬼たちとの対決。
そしてその結末。
全ての敵を完全に取り込んだと思った瞬間、内側から弾けるように意識が飛び暗転したこと。
そしてそのまま鬼の意識の中に溶け込んでいくオレに対し、覚醒を促せた存在。
正確にはこの自らの心象世界に引きずり込むことで意志の輪郭を取り戻させた存在。
それこそ、あの場に居なかった羅腕童子であることはこの景色を見れば間違いないだろう。
「勝ってもダメとか…なんつう無理ゲー」
文字通り鬼のような数の鬼たちとの死闘を制しても危うくゲームオーバーになるところだったことに、ため息をつく。まぁ理不尽だとは思うが、それを言っていても始まるまい。
……あれ?
ひとりごちっているうちにふと気づき、エッセに呼びかけてみるが返答はない。
裡にその存在を感じることは出来るがなぜか意思疎通が出来ない感じだ。
だがこちらの戸惑いなどお構いなしに物語は紡がれていく。
奥木村の公長。
それが以前この奥木村が出てきたときに、鬼を退治した男の名だった。
かつては都で随身という護衛のような職種?についていたこともあり、そのためこのような村では珍しい剣の使い手だ。少なくとも都では指折りの剛の者だったらしい。
さすがにそんな男がなぜ村にいるのかまでは村人たちの世間話からはわからない。数年ほど前にふらりとこの村に立ち寄り定住することになったらしい。もしかすればそれなりの家名がある出身かもしれないが、他の村人と同じように名前のみで生活しており実際のところは不明だ。
で、その息子が公岑。
定住した公長が村の娘と結婚して出来た子で、公長が漆黒鬼を退治したときに出てきた男の子だ。流行病で母親は死んでしまっているが、父親の教育の賜物か真っ直ぐ育っている。
村の生活は実に穏やかだった。
日の出と共に起き、そして日が沈むのと同時に寝る。
春に種を蒔き、夏に汗し、秋に収穫を得、冬に耐える。
唯一慌ただしいのは年に数度ほど村の近くに現れる鬼は公長が退治、そこから得た素材を定期的に都と地方を行き来する行商の者に売り、いざというときの村の資金源としていたことぐらいだ。
鬼が出てくる段階で全然穏やかでもないな!と思わなくもないけれど、意外とこの時代では鬼は一般的だったらしい。少なくとも現代社会よりはずっと。
飢餓や病などで村が全滅するなどして弔われない者も多いし、そもそも死亡率そのものが高い。おまけに未開なだけあって恐怖や畏れといった感情に由来する妖の発生要因も多いためだ。
他の村であれば近場に鬼が出現したとしても襲われないように祈るか、被害が出れば田堵とかいう村の有力者を中心に自衛するか退治できる者を手配するしかない。
だがこの奥木村には公長がいる。
随身時代、都の魑魅魍魎とも戦った経験がある彼にしてみればせいぜい強くても漆黒鬼程度でしかない鬼たちは与し易いらしい。待ち受けるどころか発生しやすいポイントを積極的に潰し安全を確保、その上で鬼が現れれば素早く退治する。
その手際から近隣の村にまで応援に行くこともあり、その際の報酬もあって痩せた土地の多いこの村でも全体の生活水準は比較的高いようだ。
「……今日も馬手売と一緒だったのか?」
日暮れ時。
自らの家で玄米と山菜汁というメニューの夕食を取りつつ、公長は息子に小さく笑いかけていた。
「うん。凄いんだよ! 山菜のありそうなところすぐわかっちゃうんだ!」
興奮気味に答える息子を満足そうに見る目は優しい。
馬手売というのは村にいる同世代の子で、この公岑と仲がいい女の子だった。無論小さな村だからみんな親族みたいなノリで、子供同士は全員ある程度仲がいいみたいなんだけども。
ちなみにこの時代の一般の人たちの名前は割と適当だ。
いし、とかなんかそのへんにあるものの名前を取っていたりもするし、あとは生まれた干支+男女それぞれによくある末尾で名前にしたりする感じ。
だから馬手売は午年の生まれなんだろう。これが丑年なら牛手売となる。なので結構名前が被っている人もいるが、まぁそもそも村の農民とかだと余程のことがないと名前を書くような必要性がないせいもあるんだろう。
苗字は無く村の名前がその代りのようだ。例えば今の公長は、奥木の公長、という名乗りになる。
「でもさ、この前、おとうが鬼をやっつけた話したんだけど、一緒にいったって言ったら危ないでしょって怒られちゃった!」
息子は面白くなさそうな顔で続ける。
「あ~ぁ、早くおとうと同じくらい大きくなれたらいいのになぁ~。やっぱり鬼を凄い剣でやっつけられるくらいになるにはおとうくらいおっきな腕じゃないとダメなんでしょ?」
「……焦らなくてもすぐに大きくなるさ」
長閑な村の長閑な時間。
生まれ、育ち、老い、そして死ぬ。
いつまでも続くと思った村のサイクル。
「よぅ、まったくシケたメシ喰ってんなぁ」
投げかけられる声。
親子がそちらを振り向くと、ひとりの男が立っていた。
年は公長と同じくらいか。
だが身なりは明らかによく着ている服も擦り切れていない。
「………何か用か、鳥彦」
酉年生まれの登場である。
この鳥彦、公長と似たような年齢なのだがこの年で近場の荘園をひとつ取り仕切っている豪農だ。元々は他の連中と同じような百姓だったのだが、代々その才覚で規模を拡張し有力百姓となり、今は豪族から荘園の運営を任せられるほどになっている。村の一員ではあるものの村からは少し外れた場所に邸宅を構えており、偉そうな態度もあって少し村人からは敬遠されていた。
「そう尖ってんじゃねぇよ、そろそろいい返事を聞かせろつってんだよ」
「私兵として雇われる件は断ったはずだ」
「……ちょっと考えりゃわかりそうなもんだがな。断るってのがどういう意味なのかを」
ぎろり、と鳥彦は公岑を見る。
「大事な息子に何かあってからじゃ遅いんだぜぇ?」
「………貴様」
腰を浮かせかけた公長に、鳥彦は後ずさる。
「へっ、よぉく考えるこったなぁ。また来るぜ」
捨て台詞を吐いて逃げ出すように立ち去る鳥彦。
彼はそのまま暗くなり始めた道を自らの邸宅へ小走りに駆けて行く。
「……ちっ、どうしても懐柔されねぇ気かよぅ。
あいつが手下になりゃ完全にこの村に敵はいねぇってのに………取り込めねぇんなら、あいつの人望はむしろ邪魔だな。村長がおっちぬ前になんとかしねぇと予定が狂うぜ……」
ぶつぶつと聞こえた呟きが風に消えていった。
□ ■ □
発端はある日のこと。
季節は春。
オレがこの村の光景を見始めて体感的には一年ほど経った時期だ。
「……また頼んでも、いいか?」
そう難しい顔で公長に話しかけてきたのは村長らしき男だ。
どうやら村から徒歩で一日ほどの場所に鬼が現れたらしい。発見者は村の猟師。
それ自体はいつものことだったが現れた鬼の様子を聞いて、公長の顔が少し曇る。今まで数多く現れた漆黒鬼ではなく、いや、それどこから今まで村周辺に現れたどの鬼とも違っていたからだ。
曰く、雷を帯びた青い鬼。
その鬼がどんな強さかはわからないが、少なくとも情報が無い分だけ条件が悪いのは間違いない。
だが現れた鬼が何であれ放置しておくわけにいかない。
当然のことのように彼は退治依頼を受けた。
家に戻り武器を研ぐ。
それはさながら儀式の如く。
というよりも彼と息子にとっては儀式なのだろう。
鬼を退治しにいく前に必ず行われるはずの。
「戻ってくるのは日が3回か5回上った後だ」
「……うん」
「今度の鬼は知らないやつだ。もしかしたら倒せない可能性もある。その場合はいつも教えている通りに……わかるな?」
「……うん」
「そんな顔をするな。万が一の話だ。こう見えてもお前のおとうは都で色々な鬼と戦ってきたんだぞ?
もし勝てそうになければちゃんと退いてくるさ」
鬼の退治に出る度に非常事態にどうするかを確認しているらしい。
どのような鬼と相対するとしても、鬼と戦うということはそれだけの危険がある、ということを長く戦った男だからこそわかっているのだ。
翌日、公長は村を出発した。
青い鬼が見かけられたのは森の奥にある岩場。どうも地形的に鬼が寄り付きやすいのか、以前から流れてくる鬼たちが住むことがあった洞窟がある。
すでにそんな連中の討伐のために何度も足を運んでおり、そのため道に迷う心配はない。
歩きなれた森。
だがどこかおかしい。
その違和感は進めば進むほど強くなっていく。
「……静か過ぎる」
そう、気配が無さすぎるのだ。
風で木々の葉がこすれる音はするものの、それだけ。
普段ならば、ここは兎や猪などの多数の獲物が息づく豊かな森。少し歩けば動物の一匹や二匹と会ってもおかしくない。
にもかかわらずしばらく歩いても生命が感じられない。
公長がそんな思考が流れ込んで来る。
鬼が住み着いて獲物を喰い尽くしたのかも?とオレは思ったが、考えてみれば鬼がやってきたのがわかってからまだ2日ほど。喩えその前から居たとしてもせいぜいが一月ほど。それでこの森の生き物を食べつくすとなるとよほどの大喰らいになる。
……いや、一匹じゃないなら可能か?
「…………む?」
オレがそんなことを考えている間に、公長がどんどん進んでいき何かを発見した。
兎の死骸だ。
外傷はなく、あまり腐敗もしていないので死んでからまだ時間が経っていないのだろう。
放っておいて先へ進んでいく。
すると少しして猪の死骸を見つけた。
これもやはり外傷はなし。
その後も次々と動物たちの死骸が見つかっていく。
鳥、猪、兎、狸……。
森の奥地に行くにつれ腐敗が激しい、つまり死んでから時間が経っている計算だ。
「……鬼の呪い? いや……違うか。特定の相手ならともかく、いくら人間よりも呪いをかけやすいとはいえ、この森中の動物すべてに呪いをかけるとなればとてもじゃないが規模が大きすぎる」
公長は都で呪いをかける鬼を見たことがあったようで、その知識が流れ込んでくる。
鬼がかける呪いは主に2種類。そのうちのひとつが対象を害するものであり、その中に今目の前の死骸のように外傷も無いのに突然死に至るものがある。無論、この手の呪いは鬼だけではなく人間もかけることが出来るのだが。
ちなみに害するのとは別、もうひとつの種類の呪いなら、今も公長にかかっているようだ。
(?…呪いがかかっているようには見えないけどなぁ…)
首を傾げるオレが見えるわけもない元随身は判断を保留し先を急ぐことにしたようだ。森の奥へどんどんと足を進めていった。
鬼がかけた呪いだとしてもそれを解く方法はわからないし、そもそも鬼がなぜそんなことをしているのかなど考えたところでわかるはずもない。
ただ鬼は呪いなどの力を遣えばその分だけ消耗する。これだけの大きな森の生物すべてに呪いをかけたのならば逆に好都合だ。弱っている間に倒してしまえばいい。
その決意が彼を前進させ―――
―――急に立ち止まった。
彼の足を止めさせたのは単純な原因。
隠すこともないような巨大な闘気。
そこは百戦錬磨の男だけあって、即座に武器を構えて臨戦態勢を取る公長。
それを横目に、今度はオレが妙な感覚を覚えていた。
覚えがあるのだ。
この放たれている闘気、というか気配みたいなものに。
確か鬼首神社でこれを感じていた。
その闘気の持ち主をオレが記憶から確定させたのと同時。
「…!…そこかッ!!」
茂みから飛び出した影が、気づいて振り返った公長に襲いかかった!!




