173.偽獄の悪意
判断は一瞬。
暗転も一瞬。
迂闊。
迂闊にも程がある。
これじゃあ、まだ感情のままに暴走していたときのほうがマシじゃないか。
ずくずくと肉が融けていく妙な感覚の中、ふとひとりごちる。
戦闘って難しい。
今更何をと言われそうだけど、それが素直な感情だった。
例えば競技はルールが細分化されるほど高度になる、という話がある。例えば拳闘であれば手技が高度に発達する。それは道理。
なぜならそこに集中できるからだ。
集中できればこそ、他に回すエネルギーがある。
逆に言えば、今みたいななんでも在りの状況の戦いはそれだけ集中できない戦いともいえる。
拳闘なら両の手だけ警戒しておけばよいものを、手、足、はたまた噛み付き、炎を吐いてくるかも、手が伸びるかも、なんて特殊能力まで万遍なく対処しなければならない。
それが戦力差のある相手ならいい。
漆黒鬼レベルであれば、そもそも反応速度と能力に差が在り過ぎるから、こっちが多少後手に回ろうと問題はない。
裏を返せば実力が接近している相手にとっては、オレは強い相手ではあるものの、払う警戒が薄くなり過ぎて一発逆転を狙う余地が出てくる。
わかりやすく言えば、どんでん返しをしやすい美味しい相手。
高速攻防をし自らの能力を展開、そのまま薄く警戒を払いつつ相手に存在するかどうかもわからない裏の手に対しても注意を払う。
なかなか難行だ。
それが出来るようになるからこそ、戦闘経験やら勝負強さ、なんて言葉があるんだろうなぁ。
【確かに迂闊ではあったやもしれぬが……それを今更言っても始まるまい。
おぬしの戦闘経験は確かに濃いものがあるが、まだ積み重ねた歳月は短い。至らぬところがあるのは仕方がなかろう。問題はそれから目を逸らさず、いかに克服するよう進むかじゃ】
「……冷静に考えりゃ、まだ四月から丸三か月もしてないんだもんなぁ。驕るにはまだまだ足りないものが多すぎる、か」
ひとまず今は…
「探索から、か」
溶けていく肉を切り離し自らの造形を確かにする。
水に溶けた粘土の海の中から、こねくり回して造形を露わにしていくのにも似た感覚。
勿論意識の糸は繋げたままだ。
鬼たちの結合力が強すぎて引きずられてしまったけども、それは単純に質量差の話。同じ馬力を持つ自動車だったとして、現時点では向こうのほうが質量がデカかったんでこっちごと引っ張られた。
つまるところ引っ張られたという事実だけ肯定できるのであれば、その先でオレがどうこうされるようなことがあるわけでもなし、問題はない。
現にこうして鬼に溶け込むことなく自ら在れるのだから。
さて。
現状を整理しよう。
目の前に広がっているのは荒涼とした大地。
いや、遠くに壁のようなものが見えるので地の底、というのが正しいのかな?
ともかく結構な空間が開けている。
不気味なほど血の色をした空、作物どころか草一本生えていない人骨の軋み合う赤い大地。
目に映る景色を表現するとしたら適した言葉はひとつしかない。
地獄、だ。
ただ一般で想像するそれとは違う点もあった。
無論、鬼はいる。
いるどころか結構な数。種類は主に漆黒鬼のようだが、焔炎鬼やら隠重鬼やら、要は鬼首神社で遭遇した鬼たちらしきものが。
どの鬼も闘ったときとは違い、妙な形の入れ墨が全身に入っており、同時に注連縄のようなものが体に巻き付きその動きを拘束していた。
注連縄は大地に突き立てられた楔に繋がっており、これまた移動すら制限されているようだ。
本来の意味での地獄であれば生前に罪を犯した罪人がそこに落とされ、鬼たちが責苦を与えるというのが一般的で、ここはその点だけが違っている。
「なんつーか、凄い光景だな、こりゃ」
確かにオレは茨木童子が復活したと思われる光の巨人に体に吸収されたはずだ。
ならば目の前に広がるこの世界は何なのか、と考える。
理屈はわからないが羅腕童子のように何か鬼の心象風景なのかもしれない。
多少推測することは出来る。
だが今それ以上何もすることが出来ないのは変わっていない。
大地は少し傾斜がかかっていた。いくらか歩いて確認してみるとどうやら中心部に向かってすり鉢状に下って行っているようだ。他にアテがあるわけでもないので、とりあえず下っていきその真ん中を確認してみることにする。
「……これで超デカい蟻地獄とかだったらヤだよなぁ」
【うぅむ……じゃが、鬼の心象風景であればおそらく出てくるのは鬼かもしくは鬼と縁がある人物になると思うぞ?】
「蟻地獄的な鬼……いやぁ、想像するのも大変だわ」
警戒しつつ心を落ち着けるようにしょうもない会話をする。
死者のいない地獄の荒野を進んでいくと、先ほど中心部と目論んだすり鉢の底のほうに何やら建物らしきものとその周囲に生えている木々が見えてきた。
鬼以外に何もない荒野だけに遠目にも結構目立っている。
白く見える木々には鎖が巻きつけられており同じように鬼らしき影が束縛されている。建物自体も白いが大きさはそれほどでもなく、そのへんによくある一戸建てくらいの祠っぽいものに見えるかな。
とりあえず蟻地獄ではなさそうだ。
ようやく見つけた風景の変化を手掛かりに進んでいくと、遠目に見えていたそれが近づく。
祠まで10メートルほどまで距離が詰まると、白い木々に拘束されている鬼の影たちが鮮明に見えてきた。
まったく予測していなかったわけではないけども、それでも、ごくり…と思わず唾を飲み込んだ。
「宴禍…幽玄……具眼……悠揚、童子……ッ」
オレに取り込まれたままの静穏、そして理由はわからないがなぜかいない羅腕童子以外の名持ちの鬼たち。精気を失ったかのように目の輝きのないまるで人形のようなそれが繋がれている影たちの正体。
詰まるところ、この祠こそが茨木童子の鬼としての中心―――
そう考えた瞬間、一人の男が祠から姿を現した。
鬼ばかりのこの世界でオレを除けば唯一人の人間……長身をした整った顔立ちの男だった。世間一般的に言って美青年と表現しても差し支えない。
片目に眼帯をした涼やかなその表情で悠然とこちらへ視線を向けてくる。
無論只者ではない。時代がかった武者装束の重い個所を取り外したような具足を身に纏った彼のその技量は、歩きという所作だけで感じ取れる。
だがそんなことはどうだっていい。
もっと重要なのは、
「なんで、アンタがここに居る……ッ!!?」
それがオレの知っている男だということ。
しかもそれが―――
「……伊達、政次ッッ!!!」
―――最大の仇敵、ということだ。
死んだはずの男の出現。
それは警戒心を瞬時に高めるに足る理由だった。
咄嗟に身構え、“簒奪帝”を発動させ赤黒い気流の甲冑を纏う。
だが予想された攻撃は来ず、
「ほぅ、誰か見知らぬ冴えない奴かと思えば……。ボクと面識があるらしいね」
眼帯の男―――かつて“千殺弓”と渾名された上位者はにたりと嗤う。
まるでオレのことなど記憶にないとでも言うかのように。あまりのその自然さに良く似た別人ではないかと錯覚しそうになるものの、見るだけで虫唾が走るようなその仕草から間違いないと再認識する。
「落ち着きたまえ。生憎と今キミの目の前にいるのはボクであってボクでない。
ボクとどういう関係かは推測しか出来ないが、少なくともボク以後の知り合いなら会話がかみ合うことはないだろうね」
ざ…ざざざ……かざざざ…ッ。
その伊達の足元、影が揺らめき不自然にその輪郭を変える毎に耳障りな音がする。
意味の分からないまま警戒を解かないオレに対し、
「しかし…これは一体全体どういうことかね、嘆かわしいッ。波動から分霊六鬼が揃ったのはわかるが、どうにも完全には程遠い。羅腕童子、それに静穏童子もか。
本体は何をやっているのやら……いや、単純に動けていない可能性も考慮しておかなければならないかな。仕込みがあるとはいえ些か不安感は拭えないのではあるまいか」
ぶつぶつと発される独白。
言葉から推測するに、これは本体ではない?
だったら何なのだ、と言われても困るんだけど。
そして、この男が言った“仕込み”という言葉にも閃くものがあった。
「ほら、キミに問うているんだ、答えたまえ」
「………いや、ンなこと言われても」
「ああ、なんだ。理解の足りない低能でもわかりやすいように言ってやろう。
無駄で無意味で労力しかない手間を惜しまない相手であったことに感謝するがいいさ。
ここにいるボクは鬼首神社の作戦のために保険代わりとしている、謂わばひとつの目的に沿うように分けられた意識思念だ。仕込みをした際、多少の力と共に本体から分かれてここに在る。
だからいずれボクがここにやってきた暁には本体に吸収されて、ここであったことも体験として取り込まれることだろう。つまりボクに献身を示すのは絶好の機会というわけだ。
だから聞こうじゃないか、光栄に思いたまえよ? なんでボク以外がここにいるのだね?」
分かれた意識体。
そんなことも出来たのかという驚きと、そしてそれによって削がれている力があったということに対する安堵。そして、
【意識思念か何か知らぬが、こやつの身勝手さは変わらんの】
相変わらずの人を見下している性格に、入ってきたエッセのツッコミに思わず内心頷く。
まぁ、いつかのエッセがやったように意識を分けて保持しているというのだから、そんな技能もしく品があったのかはわからないが、凄いことには変わりない。
だが、ここで重要なのはいつそれを仕込んだのか、ということだ。
おそらくここは謂わば鬼首神社に封じられた古の大鬼―――茨木童子の本体の中。
で、あればそれに対して伊達の意識を割り込ませるとすれば、封印の中の大鬼そのものの中でなければならない。
行き着く結論はわかりきっている。
体が動いた。
ズザザ、ゾゾ
ザ ザ ザザ―――ッ
足元に突如湧き上がる一撃。
完全にオレを捕まえに来たその一撃をバックステップすることで避ける。
吹き出すように地面から隆起したその黒い影がゆらめく。
その姿は―――
「―――黒百足ッ!!」
見覚えがあった。
折れていく指。
剥がれる爪。
引きずり出される神経。
切り刻まれる肉。
抉られる眼球。
柔らかく潰される腸。
そして臓器を喰らい脳を食む黒い百足。
かつてのイメージが頭の中へフラッシュバックし、思わず吐きそうになるのを何とか堪える。
ほんの数日前の出来事だったせいか、あまりにその光景は鮮明過ぎた。
「おっと失敬」
目の前の副生徒会長は小さく微笑む。
「その構成体を喰ってから情報を引きずり出そうかと思ったんだが…残念だな。
平和的手段では難しいらしい」
「……平和的手段って言葉の意味を辞書で引いたほうがいいんじゃないかな」
少なくとも攻撃しておいて使う言葉ではない。
油断なく出方を窺うオレに対し、その口が呟くように歪める。
――― だってキミ、月音くぅぅぅぅんの気配がするんだもの。
刹那、世界が死んだかのように豹変を始めた。
いや、最後に月音先輩に会ったの結構前なんですけど。
相変わらずの常識の通じなさだ。
「薄汚く生き汚い下等生物の分際な糞餓鬼が身の程を弁えずにボクの女神に近づいてるんならぁぁぁぁッ!!!
会話の最中に攻撃されたり抉られたり千切られたり捻じ込まれたり捥ぎられたり死んだり殺されたりされたりするくらいで済めばなんとも平和的だろぉぉぉぉォォォッ!!!?」
ケタケタケタという幽鬼が如き嗤い。
それに呼応するかのように“千殺弓”の足元から無数の黒い百足が湧き出す。
蝗の群れもかくやというほどの数。
遠目から見れば黒い絨毯の如く男を中心に黒い染みが大地に、そして空中に広がっていく。
おぞましき浸食。
【あやつとまともに会話が出来ると思うのが間違いのようじゃな】
「ごもっとも!!」
黒い群れと化し弾丸のように飛来する黒百足。
すでに体に纏っていた“簒奪帝”から黒き腕―――“騎”を肩口を起点に4本生み出す。長さ2メートルほどに伸びたその腕は、オレの周囲1メートルに入って来る黒百足を全て余すことなく弾き吸収し消滅させていく。
……どうやら予想通り相手の体内に入って浸食するタイプの技みたいだな。
吸収した感じからするとそこまでの貫通力は無さそうだから、わざわざ腕を出して対応しなくても、純粋に“簒奪帝”の防護で事足りそうだ。
そのまま前に向かって走り出す。
すでに本体と戦っていることもあり手の内はわかっている。倒すのは難しくない。
だが相手が立っているうちは別の奥の手が出てこないとも限らない。先手必勝でさっさと倒すに越したことはない。
1メートル……また1メートル、と距離が縮まれば縮まるほど増す黒い弾丸の密度。
だが止まらない。
すでにネタの割れている黒百足の弾丸如きでは止まらない。
だから、
「………ッ!!?」
動きを止められたのはそれ以外の攻撃だった。
横合いからの加撃。
薄く纏っている“簒奪帝”の甲冑でほぼ無効化出来たものの思わず振り向く。
攻撃をしてきたのは隠重鬼。
よく見れば他にも楔に結ばれた注連縄で封じられていたはずの鬼たちが、それを引きちぎって立ち上がり始めていた。虚ろな目をした彼らに共通しているのは体に刻まれた入れ墨のような模様が鈍く光を放っていることだ。
【あの模様……百足のようにも見えるの】
どうやらそういうことらしい。
方法はともかく、わざわざ待ち伏せるようにここに意識体を残していたんだからすでにこの空間そのものがあいつに掌握されていると考えて間違いない。
「……イラつくなぁ…」
パキパキと木々が砕ける音を耳にしながら、そう呟いたオレの目の前で。
他の鬼と同様、拘束を解かれた“名持ち”の鬼たちが伊達との間に立ちはだかる。
戦力的にも気持ち的にも敗けるつもりはない。
だが予想される圧倒的な物量を考えると面白くないのは確かだった。




