ディナーの前に
ルナはその日屋敷の掃除をしていると、イブリンに後ろから突然グッと耳をつままれた。
「いたっ」
イブリンが耳元で囁いた。
「今日はブラウン家のハドソン様が屋敷にいらっしゃるの。あまり時間がないからすぐに着替えて。仕方ないから私の服を貸してあげるわ。ハドソン様は私に会うのを楽しみにされているから、ディナーの相手があなたでガッカリするでしょうけれど、私はもうチェスター様と婚約している身だから。分かったわね。グリフィス家の未来がかかっているのよ。色仕掛けでもなんでもなさい。…いいわね、絶対に今日落とすのよ!」
イブリンは乱暴にルナをイブリンの侍女の部屋へと引っ張っていった。
(ああ、あの素敵なチェスター様をルナから奪い取って、代わりに気持ち悪いハドソンを押し付けられるなんて、私としたことが名案を考えたものだわ!)
イブリンは、自らを不公平の神によって選ばれた特権階級だと思っていた。家柄と階級、そしてカネと美貌。それこそが愛や物や豊かな生活を叶えてくれるものだと信じていた。愛はカネで買えないなどということは、くだらない庶民に信じさせておけばいい。それ以外、一つでも欠けている者はイブリンにとっては「その他大勢」であり、「美」に欠けるハドソンもその例外ではなかった。
その頃、ちょうどハドソンを乗せた馬車が、隣町からグリフィス家を目指し出発していった。
***
チェスター・モーガンは、一か月振りに純白の愛馬に跨ってグリフィス家を訪れていた。前日夜、両親からルナとの婚約解消と、イブリンとの婚約を聞かされ、ルナが心配になって立ち寄ってみたのだった。
チェスターはいかにもスポーツマンらしく、ポロの帰りで黒のライディングキュロットを履き、上は紺色の襟付きベストを着ていた。馬から軽やかに飛び降りて乗馬用ヘルメットを取ると、カラスの濡れ羽色をした美しい黒の短髪が露になった。
(僕は両親からの命令を運命として受け入れるしかないけれど、ルナはこれからどうするんだろう?悲しんでいないだろうか。)
ルナとは7つの頃からの幼馴染で友達か兄妹のような仲だったので、婚約が早期に決まった時も特に驚きはなかったし、ルナとずっと友達のように一生を過ごすんだろうな、と思っていた。長く居すぎるせいかときめきを感じることはなかったけれど、ルナが怪我をしたと聞いたら自分が怪我をするように心が痛む、そんな大切な存在だった。
(おや?あそこにいるのは誰だろう…?)
チェスターがルナの部屋がある使用人用の寄宿舎に着いてみると、脇にある駐車場にタキシードに身を包んだオリヴァーの影があった。
「もしもーし?あんたはどちら様?」
「おお、ちょうど良かった!あなたに教えてほしいのですが。」
駐車場にいたオリヴァーは質問に質問を返す形でチェスターに聞いた。
「この馬車にはどうして馬を繋ぐところがないのでしょうか?」
「自動車を見るのは初めてかい?これは馬じゃなくて蒸気で走るんだぜ。」
「蒸気で…?フーム、私の時代にはこんなものはなかった。」
オリヴァーは蒸気の自動車を珍しそうに、下から横から覗き込んでコンコンと叩いたりしていた。チェスターはオリヴァーを一目見て、とんでもないイケメンがなんでここにいるのかと思ったが、車好きのチェスターは、真っ直ぐな好奇心を持って自動車を興味深そうに観察しているオリヴァーに、なんだかとても親近感を覚えた。
「あんた、面白いな!まぁ最新型だし見たことないのは仕方ない。ドライブでもしてみるかい?」
「いや、ここの令嬢から出歩かないようにと言われておりまして。」
「ルナからか?すぐ戻るから大丈夫だって!ルナはいないな…仕事中か。ちょうどいいな。」
チェスターは手慣れた手つきで自動車に乗り込み、エンジンをかけた。チェスターは以前からルナのところによく遊びに来ていたので、何度かこっそりとこの自動車で外に出かけたりしたこともあった。使用人の寄宿舎はグリフィス家の屋敷から庭を挟んでかなり離れた対角線上にあったため、一度も見つかったことはなかった。
「す、すごい音ですね…」
「よし、しっかり掴まってろよー」
チェスターはハンドルを握ると、オリヴァーと共に屋敷の門を抜けて街へと蒸気自動車を滑らせていった。
***
チェスターとオリヴァーの乗った蒸気自動車は、風を切って進んでいた。やがて市内の中心地に入ると、オリヴァーには全てが新鮮に見えた。蒸気自動車、大きな建物、道を行き交うたくさんの人々…オリヴァーが育った時代からは何倍も人が増えているように感じた。あちこちで「おお!」と驚嘆の声を挙げる。
「馬車とはまた違って面白いだろ?ってなんか全てがあんたには目新しいみたいだな。家柄も良さそうなのに、そんなに田舎で育ったのかい?」
オリヴァーはただ目を輝かせて、流れる景色に見入っているようだった。
「時計台、完成していたんですね…!完成したんですよ、チェスター!」
「爺さんの時代から完成してただろ、あんた、さっきからおかしいぜ?どこから来たんだい?」
「100年前からです。」
「はは、本当に面白い奴だな…。」
時計台の時計は午後3時を指していた。
「オリヴァー、僕の家にも寄っていくかい?」
チェスターのモーガン家は代々市内の中心地の一角に豪邸を構えていた。
「いえ、大丈夫ですチェスター。ルナが怒っているかもしれないですし、そろそろ帰りましょう。」
***
ルナと使用人のエミリーが屋敷から戻ってくると、ルナの部屋からオリヴァーは姿を消していて、そこはもぬけの殻になっていた。ルナは口をあんぐりと開け、屋敷からオリヴァーのために探して持ってきた男性用衣類や小物類をバサバサと床に落とした。
「どこにも行くなってあれだけ言ったのにー!」
「記憶が戻ってお家へ帰られたのでしょうか…?」
「そんな、一言も伝えずに去っていくなんて…。」
ルナはハドソンとのディナーのための化粧と着替えを終えたあと、実はオリヴァーに会えるのを楽しみにしていた。ボロボロの仕事着ではタキシードをきめたオリヴァーに対して引け目を感じていたが、着飾って化粧をしたことで、今なら対等に目を見て話しができると思ったのである。せっかくウキウキしながら戻ってきたのに…なんだか胸がギュッと締め付けられる気持ちがした。
「ルナ様、どうか気を落とされずに。」
「ありがとうエミリー。気なんて落としてないわ。朝食を共にしただけだし…ただ無事なのか心配なだけよ。でも一言も言わずに去っていくなんて、とっても礼儀知らずだわ、全く。」
「礼儀知らずで申し訳ございません、ルナ。とても素敵ですね。ドレスが良く似合っています。」
ルナとエミリーが振り向くと、部屋の入口にはオリヴァーとチェスターが立っていた。オリヴァーと目が合い、しばし硬直する。ルナは頬を赤らめて目を背けた。
「ごめんなルナ、僕がオリヴァーを車で連れ回したんだ。あ、え、エミリーさんも来てたのか。こんにちは。」
「こんにちは、チェスター様。オリヴァー様もご無事で。」
使用人のエミリーがウインクして挨拶をした。
ルナとチェスターは笑顔でハグをすると、お互いに向き合って話しかけた。
「チェスター、心配して損したわ。私との婚約破棄の件でいじけているのかと思ったわよ。」
「僕だってルナを心配して来てみたら、こんな貴公子と楽しそうにしてるじゃないか。心配して損したぜ…。うちは両親の決定は絶対だからな、まぁ仕方ないさ。なぁ、どんなことがあっても、僕とルナの友情は変わらないからな。」
お義姉さまには気を付けるのよ、とルナは言うと、再びハグし、お互いの背中をポンポンと叩いた。オリヴァーには、2人がどんな親友よりも、兄妹よりも強い絆で結ばれているように見えた。
「ところでルナ、その恰好はどうしたんだ?」
チェスターが聞いた。
「今日ハドソン様と屋敷でディナーの予定なのよ。」
「ブラウン家のハドソンか。」
チェスターが顔をしかめる。
「どのような方なのでしょう?」
オリヴァーが訪ねた。
「うーん、他人を悪くいうのは好きじゃないが、正直あまりいい噂は聞いたことがないな。初めてデートをしたその日の夜に手を出したとか、4股、5股をかけていたとか…。」
「グリフィス家のためにも、私がブラウン家に嫁いでうまくやらないといけないのよ。これまで散々お世話になってきているんだから。」
オリヴァーには、少しルナのドレスの露出度が高いことも気になった。チェスターとルナの話を怪訝そうに聞いていたオリヴァーは真顔で口を開く。
「その男は下心があるのではないですか?ハドソン殿がレディに指を触れないよう私が同伴いたしましょう。」
ルナとチェスターが揃ってプッと笑い出す。
「大丈夫よ。ありがとうオリヴァー。」
ルナはタキシードを身にまとったオリヴァーの肩をポンポンと叩いた。
「さて、そろそろ行く時間ね。」
外は夕焼け、屋敷でディナーの時間が迫っていることを示していた。ルナが寄宿舎から外に出ようとすると、イブリンから今夜のために借りた、宝石のあしらわれたフルグレインレザーのハイヒールが片方無いことに気づいた。寄宿舎の扉はいつからか開いたままになっていた。
「きゃ、キツネが……!」
寄宿舎から少し離れたところで、キツネがハイヒールをくわえて走り去ろうとしているのが見える。このあたりは昔から多くのキツネが住んでいて、グリフィス家の庭園内でもちょくちょく見かけることがあった。
「チェスター、君の馬を。」
「あ、ああ…え?」
気付くとオリヴァーはルナの横を通り抜け、走り出していた。ルナとチェスターも慌てて寄宿舎の外に飛び出す。
オリヴァーはチェスターの停めていた白馬にまたがると、急加速しキツネを追いかけ始めた。キツネの足も速かったが、オリヴァーの手綱さばき相手では分が悪く、オリヴァーは瞬く間に庭園の隅へとキツネを追い詰めると、キツネは慌てて口からハイヒールを落とし、逃げ去っていった。ルナ、チェスター、エミリーの三人はその様子を唖然として見つめていた。
「革に目立つ傷は付いていないようです。」
オリヴァーは白馬をルナの脇に停めると、ひらりと舞い降りてハイヒールを差し出した。
「あなた、本当に現実の人間よね…?」
ルナは思わずペタペタとオリヴァーの整った顔に触れた。
「はい、そうですが…、私の顔にやっぱり何か付いていますか?」
「い、いえ…。ごめんなさい。」
ルナは顔を赤らめてオリヴァーから目を背け、手を引っ込めた。




