八月一日(前編)
──ここは、どこだろうか。
周りを見回すが何も見えない、どこまでも闇が続いているばかりだ。
──今の僕はどこにいるのだろうか。
暗闇の中に佇んでいることしかわからない。その事に、何故か酷く悲しい気分になっている。
ここがどこなのか考えてみても答えは出ない。
唐突にベレー帽を被った、どこかで見たことのある人が現れる。
──この人は誰だっけ。覚えていない、ただ見ていると胸が締め付けられる気分になる。
何故だか僕はいきなりその人に叫び始めた。唾が飛び散るくらい怒鳴り散らしている。
──何で僕は怒っているんだろう。わからない。何を叫んでいるのか理解が出来ない。
僕に怒られているその人は、泣いている。綺麗な顔をくしゃくしゃに歪めながら謝っている。
──違う、これはおかしい⋯⋯だって、僕はこの人に⋯⋯
何かを思った瞬間、意識は覚醒していった。
──目覚めは最悪だった。今までの人生でも上から数えた方が早いくらい最低の目覚めだと言っても過言じゃない。
心臓が早鐘を打つかのように激しく自己主張をしている。何も考えられずにただ気持ちが悪いという意識だけが頭の中をぐるぐる回っている。
ベッドの下を見るとタオルケットが落ちていた。その一点を見つめていると少しずつ身体が落ち着いてくる。
どうやら僕はベッドから飛び起きてしまったらしい、そのせいでタオルケットが落ちたのだろう。と理解出来るくらいまでには頭が回るようになった。
完全に目を覚ました僕は、タオルケットを拾いベッドに戻した。
しかし、嫌な夢を見た気がする⋯⋯
思いだそうとしても霧がかかったように思い出せない。
そのせいで、喉の奥に小骨が刺さったような感覚になってしまった。
⋯⋯もどかしいな。
僕はこのモヤモヤを振り払うために携帯を手に取る。
そのまま日和に「おはよう」とRAINをした。
これが今日から僕の日課になりそうだ。
さっきまでのモヤモヤが吹き飛び、顔が思わず綻んでしまう。
僕はにこやかな顔をしたまま洗面所へ向かった。
⋯⋯途中で母さんが机に突っ伏しているのを目撃した瞬間、さっきまでの気分は引っ込み真顔になってしまった。
横を無言で通り抜けようとすると「おは⋯⋯よう⋯⋯」と顔を上げないまま目だけをこっちに向けて挨拶をしてきた。
緩慢な動きで、ぷるぷると震える手を上げようとしている。
──その姿はまるでゾンビだった。
僕はやや引きながら挨拶を返した後に「寝ているかと思った」と言うと「気持ち悪くてね⋯⋯」そう気だるそうな声が返ってくる。どうやら二日酔いをしているみたいだ。
昨日の夜は、初めて僕に彼女が出来た記念という事で豪勢な料理が僕を待っていた。
母さんは夜明かしその料理をつまみながら酒を浴びるように飲んでいたからこうなるのは目に見えていた。
僕はコップに水を汲んで机に置いてあげた。
母さんは感謝の言葉を言った後、緩慢な動きでぷるぷると震えながら水を飲んでからもう一度机にうつ伏せになった。
老犬か! とツッコミを入れそうになってしまいそうだった。
「休みだからって飲み過ぎ」その哀れな姿を見ていられずに注意してしまった。身体壊してからじゃ遅いからな⋯⋯
「⋯⋯面目ない」
力ない表情で母さんは、ははっ⋯⋯と乾いた笑いをした。
そうだ、今日の夜の事を言っておかないと。そう思い立ち、今日の夜は夏祭りに行く事を伝える。
母さんはそれを聞いて、しばらく考え込んだ後に「何時から?」と聞いてきた。
その言葉に、日和と打ち合わせしなかった事を思い出しながら「五時くらいかな?」そう適当に答える。
母さんは「わかった」と言った後に「ううっ⋯⋯」と呻きながら立ち上がった。
急に動いたせいで気持ち悪くなったのだろう、口を押さえていた。
それでも、ふらふらとした足取りでどこかへ歩いていく。どこへ行ったのだろう。
僕は首を傾げてみるが、母さんのやる事を考えてもよくわからないのでそっとしておくことにした。触らぬ神に祟りなしというやつだな。うん。
洗面所に向かい、顔を洗いながら気持ちを切り替える。
その後に、母さんの作ってくれていた朝御飯を食べてから一息をついた。
あんな状態でも、ちゃんと作ってくれている事に若干敬意が芽生えた。
さて、腹ごしらえもしたし、小説を書こう。
僕も日和みたいに胸を張って目指していると言える様になりたい。
そう思いながら部屋に戻った僕はパソコンとにらめっこを始めた。
まずは、プロットを組む所から始めなければいけない。
僕は小説を書く愛用のツールを立ち上げる。
プロットを簡単に説明すると、小説の大まかなあらすじみたいなものだ。
これを組んでから作らないと話に矛盾が出たりして大変な事になってしまう。
今回の話は恋愛物だから⋯⋯うん、恋愛物か。
日和とは付き合った所から始まったんだよな⋯⋯デートはしてるけど、付き合うまでのストーリーはどうやって書けばいいんだ⋯⋯?
最初の段階から躓きそうになっていた。
悩みながら頭をぽりぽりと掻く。
⋯⋯そうだな、フラれて傷心中の主人公が一人で水族館をぶらついている時にヒロインと出会ったって始まりにしようかな。
そして、一目惚れをして声を掛ける。
そのヒロインは同じ学校の生徒で、水族館に居た時とは見た目が違って⋯⋯とかがいいのかな?
学校では男の格好、プライベートでは女の格好とかどうだろうか?
そういや、日和って学校ではどんな格好をしているんだろう。
頭は日和の事で一杯になってしまう。
この話は日和をモチーフにする予定なんだから、色んな事を知らないと書けない。
まだ、僕には日和の知らない事が沢山ある。
もっと日和の事を知っていかないと⋯⋯そう思いながら携帯を見ると、RAINに通知が来ていた。
見てみると、日和から「おはよう、ハル君♪」と音符マークつきで返信が来ている。
「おはよう、今から習い事?」そう送ると、やや時間を置いてから「そうだよ?」と返ってきた。
そして僕は「僕もこの前の事で美術に興味を持ったから何を習っているのか教えて欲しいな」こう送った。
⋯⋯この内容は嘘である。
今はどんな事でも知っておきたい。どんな些細な事がネタに繋がるかわからないのが話作りだと思っている。だから、聞ける時に聞いておきたい。
「聞いてどうするの? 絵でも描いてみる?」
その返事に答えを窮してしまう。
「気になっただけだから、あまり気にしないで」
思わず逃げてしまった。あんまり、突っ込んで聞くのもな⋯⋯
「わかった、また機会があれば教えるね」日和から返事が返ってくる。
⋯⋯ネタを掴むチャンスを逃してしまった気がする。気が付けば頭を掻いてしまっていた。
そのすぐ後に「それと今日は夏祭りいけそう」日和からこの文が送られてきた。
それで思い出した。そういえば、行けるとは決まってなかったんだっけ⋯⋯
勝手に行けるものだと勘違いしていた。気持ちが先走り過ぎているのだろうか?
もし駄目だったなら、僕一人で寂しく時間を潰さなくてはいけないところだった。
母さんに夏祭りへ行くと言った手前、家に居るのは情けないし、格好悪い。
一緒に行ける事に安堵しつつ僕は返事を考えた。
そして、僕達は集合場所と時間を決めて連絡を終える。
最後に「夏祭りでいい思い出を作ろう」とだけ送っておいた。
日和から「うん、そうだね!」と返って来たのを確認してから、もう一度パソコンに向かった。
さて、プロットの続きを書いていくとしよう。僕は一回ノビをしてから気合いを入れ直す。
カチカチ、とキーボードを叩いて書いていく。
僕は徐々にパソコンへと意識を没頭していった⋯⋯
──その三時間後。
「駄目だ!」僕は天を仰ぎながら叫んでしまっていた。
全然進まない事に苛立ちを覚えてしまう。
前はもっと簡単に組めていたはずなのにな⋯⋯天を仰いだまま、そんな事を考えながら頭を掻く。
次の作品が通らなかったら、今まで積み上げてきた物が崩れ去るようなそんな予感があった。
僕は、頭を覆いそうな影を振り払うように、引き出しに手をかける。
そこにある賞金を見ていると、落ち着いてくる気がした。
次こそは銀賞以上を取らなければ⋯⋯そう自分に言い聞かせた。
胸を張れる自分になるために、僕は頑張るんだ。再度画面を睨み付けた。
──ようやくまともに組み始めたと思ったら、気が付けば三時になっている。昼ごはんも忘れて作業に夢中になっていたみたいだ。
集中していたからか、一瞬で時間が過ぎ去ってしまったように感じる。
タイムマシーンで一瞬先の未来にでも来てしまったのではないだろうか?そんな馬鹿な事を考えてしまっていた。
今さっきまで作っていたプロットの出来具合を見ると、ほんの触り程度しか出来ていない。
本当にタイムマシーンに乗って来たんじゃないかと現実逃避したくてたまらない気持ちになった。
溜め息を吐くと喉が渇いて奥がへばりつきそうになっている、ひどく気持ち悪い。
唾も出ないくらい口の中がカラカラだ。
⋯⋯飲み物を取りに行こう。
夏祭りの支度をする前に喉を潤しに台所へ向かった。
そういえば、母さんが昼ご飯を呼びに来なかったなと思う。
あの後、母さんはどこへ消えたのだろう。
そんな事を考えながら台所へ足を踏み入れた時、それが咄嗟に目に飛び込んできた。
「──着物?」それを目にした途端、口から無意識に言葉が零れる。
濃紺色の和服、それが台所立つ場所にかけてある。
そして、その横で母さんが机に座り何やら格好をつけたポーズを取っているのが目についた。
それは、司令官がしていそうな顔の前で手を組んだ格好だった。
嫌な予感がひしひしとする。何が起ころうとしているのか。
「これは甚平だよ、君」手で隠れて見えづらいがドヤッ! とした表情で母さんはそう告げる。
その顔と言葉にやるせない気持ちになる、これが⋯⋯僕の母親⋯⋯何故だか無性に悲しくなってきた。
その横を通り過ぎて飲み物を取りに行きたい気持ちに駆られるが、絶好調の母さんの言葉は止まる事を知らない。
「⋯⋯君はこれを着て夏祭りに行くんだ。いいね? まあ、君に決定権はないがね!」
ハッハッハッ! と悪役っぽい笑い声を出す。
僕は今どんな顔をしているのだろうか。誰か鏡で見せて欲しい気分だ。
一つ深呼吸をしてから、僕は言葉を吐く。
「あの、すみません話が進まないので普通に話をしてもらってよろしいでしょうか?」
下手から、それとなく言ってみる。喉がカラカラなので変な声が出てしまった。
母さんは「仕方ないなー」と棒読みで言いながらポーズを解く。
もし僕もこのノリに乗っていたら、この場所はカオスな空間になっていただろう。
考えるだけで恐ろしい、また黒歴史が増える所だった。
僕は母さんの横を通りオレンジジュースに手をつける。
この前にコーラの一気飲みをしてつらかったから最近はオレンジジュースにしている。
「まぁ、そういう事だからあんた、これ着て行きな」
ジュースを飲んでいる僕に、母さんは説明もなくバッサリと言った。思わずジュースを噴き出しそうになる。
「いきなりテンション下がりすぎだろ!」今回はツッコミを抑える事が出来なかった。
「説明を! 説明を求む!」
いきなり過ぎて話についていけない。一旦落ち着く必要があるだろう。僕は深呼吸をして落ち着く事にした。
母さんはその言葉を聞いて、渋い顔をしたまま身体は椅子にもたれて、だらーんとなっている。
──いかにも説明が面倒ですって表情をしていた。
「じゃあこっちから、三つ聞いていい?」
待っていてもらちが明かないので、こっちから質問する事にした。
「おー」と気の抜けた返事が返ってくる。
身体はさっきと同じで椅子にもたれたままだ。
小言を言いたくなるが、ぐっと我慢して言葉を飲み込んだ。
「まず一つ。なんで甚平?」
僕は普通の服で行くつもりだった。和服は持っていない上に気合い入れすぎかな?と思っている。
もし、持っていたとしても着ていかないだろう。
「いや、夏祭りと言えば和服でしょう。女の子が浴衣着てくるなら尚更だよ、二人とも和服の方が見栄えいいから喜ぶよ」
そういう物なのか、日和も喜んでくれるなら着ていく価値はあるのかもしれないな。
気持ちがぐらぐらと天秤のように揺れる。
──いや、このまま母さんに従うのも癪だな⋯⋯とりあえず、気になる事を聞いてから決めてもいいだろう。
気を取り直して質問を続ける。
「じゃあ二つ目ね、それをどこから持ってきたの?」
それが一番気になった事だ、新品には見えないし、母さんは着るわけないし。
ただ一つ心辺りがあった、その人の物かどうか聞きたい。
「⋯⋯あの人のだよ」母さんは少し寂しそうな顔でそう言った。
予想は合っていた。
──濃紺色のそれは、この世にいない父親の物だった。
母さんはぽつぽつと語り始める。
「⋯⋯あの人が生きてた頃にね三人で夏祭りに行く為に甚平を買ったのよ、結局行かないままになっちゃったけどね。だから、大きくなったらあんたにあげる為に置いてあったのよ」
そういう事があったのか⋯⋯
「サイズが合わなさそうなら捨てようと思ったけど、どんどんあの人に似ていくあんたを見て、残しておいて正解だったと思った。あんたを見てるとたまに懐かしい気持ちになるよのね」
そう言いながらしんみりと笑う。
母さんの気持ちを聞けるなんて珍しいな。普段何を考えてるかわからないから、ちゃんと母親らしい事を考えてた事に驚く。
「まぁ、今まで夏祭りに行かなかったのはビックリしてたけどね! 友達がいるのか心配だったわ!」
このまま一生出す機会ないと思ったよ! と言いながらゲラゲラ笑っているのを見て、さっきまでのしんみりした空気は一瞬で霧散してしまった。
⋯⋯畜生、さっきまでの感動を返せ。
母さんの馬鹿みたいな笑いを見ていて忘れそうになっていた。
まだ、聞かなきゃいけない事があったんだ。
僕は、甚平を着ていくつもりになっている。
──ただ、その前に最後に聞きたい事があることを忘れてはいけない。
僕は、最後の質問を問い掛ける。
「──母さん、最後に言いたい事があるんだけど」
母さんはその言葉に神妙な面持ちで頷く。
何を言われるのだろうかと身構えているみたいに見える。
「甚平って⋯⋯どうやって着ればいいの?」
僕は苦笑いしながら、そう言った。
僕の切実な質問に母さんは盛大に噴き出したのであった。
──その目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
僕は母さんに教えてもらった通りに甚平を着る。
着てみてわかったけど、通気性がよくて肌触りもいい。普段着にしたいくらいだ。
着た姿を母さんに見せてみると「うんうん、似合ってる!」と褒めてくれた後にじっと足を見る。
「──あの人の方が足は長かったかな」
ぼそっと呟いたのが聞こえてきた。
そういう事は胸に閉まっておいて欲しい。
そして、僕は玄関へ向かう。
何故だか母さんも付いてくる、まだなにかあるのだろうか?気になってしまう。
そして、僕が普段から履いている靴で行こうとすると母さんはそれを止めてきた。
「甚平に靴は似合わないよ」
「いや、靴しか持ってないし⋯⋯」
まさか、和服で出歩く日が来るとは思わなかったのでそんな気の効いた物は準備していない。
買いに行こうかと迷って時間を見るがそんな余裕は無さそうだった。
母さんは人差し指を立てて、それを左右に振りながら「ちっちっちっ⋯⋯」と舌打ちをした。
「こんなこともあろうかと用意しておいたのさ!」
母さんはノリノリで靴箱から新品のスポーツサンダルを取り出した。
もしかしたら、こういう日が来たときの為に毎年準備してくれていたのかもしれない。
──そう考えた瞬間、胸が熱くなる。
僕は感謝の気持ちが大きすぎて言葉が喉につっかえて口から出なくなってしまっていた。
「さあ、履いてみなさい」母さんが僕の手にそのサンダルを押し付けてくる。
僕は無言で頷き、それを受け取って履いてみる。サイズは計ったかのようにピッタリだった。
母さんを見ると、笑いながらサムズアップをしていた。
──敵わないな、この人には。
「じゃあ、気を付けて行くんだよ! しっかりやってきな!」
そう言いながら背中をバン! と叩かれた。
僕は背中を突き飛ばされたように玄関から飛び出る。
背中がヒリヒリするが、それが母さんなりの応援の仕方だと思うと悪い気持ちにならなかった。
「──ありがとう!」
僕は玄関の中いるであろう母さんに背中を向けたまま感謝の言葉を述べた。
面と向かっては言いづらかったので言い逃げになってしまった。
それでも、母さんなら僕の気持ちを汲んでくれるだろうという確信があった。
そして、両親からの貰い物を身に付けた僕は待ち合わせ場所へと自転車を漕ぎ出したのだった。




