第70話「彼女の騎士は必ず守り抜く」
「ハッハッハッハッ」
「はいはい、そんなに急かさないの」
私を見上げて尻尾をぶんぶん振り回しているヤッキーに苦笑しながら、私はリードを手に取った。
「ママ、ヤッキーのお散歩行ってくるねー」
「はーい。もう遅いから車に気を付けるのよー」
ママに一言断ってから、ヤッキーと夜のお散歩に出発する。
玄関を開けると夏の夜のむわっとした熱気が襲い掛かって来て、冷房に慣れた体が少し汗ばむのがわかった。
日中より温度が下がった外に出られて嬉しいのか、ぐいぐいと駆け出していきたそうなヤッキーを抑えながら、私は小走りでその後を追いかける。
高校に入学してからというもの、あっという間に時が過ぎ去っていく。
ハカセがいて、新谷君と沙希が加わって、3人と過ごす日々は本当に楽しい。
毎日くだらない馬鹿話をして、他愛ないことで笑って、そんな当たり前の日々はこれまで経験したことがないもので。学校を支配する必要もなく、ハカセを守ることに頭を悩ませることもなく、ただごく普通の一生徒として当たり前の日常を過ごせる。それがどれほど心安らげるものなのか、私はようやく知ることができた。
私はやっと、ハカセ以外の対等な『友達』を得られたのだ。
ハカセが2人を紹介したとき、内心ではハカセ以外の友達なんていらないと思っていたけど、それは間違いだった。ハカセが新谷君と沙希を連れてきてくれたから、今はこんなにも学校が楽しい。
やっぱりハカセはすごい。私一人じゃわからなかったことを教えてくれる。
そんな4人で過ごす毎日はあまりにも楽しくて、あっという間に1学期が終わってしまった。今はもう夏休みだ。
毎年夏休みにはイギリスのおばあさまのところに行って、魔女の力を制御する訓練を受けている。
「今年はどうしようかな……」
おばあさまに会えるのは嬉しい。
だけど今年は8月の上旬に4人で夏祭りに行こうと新谷君が計画してくれていた。浴衣姿をハカセに見せつけてやれよ、とニヤリと笑った彼は、ハカセと私をくっつける手助けをするという約束を律儀に守ってくれている。
おばあさまは別に毎年来なくてもいいとは言ってくれている。私ももう大きくなったし、今はライブチャットでいつでも会えるから、と。
おばあさまは最近ハイテクおばあちゃんに覚醒して、ライブチャットやらSNSやらでネット上の友達を増やしているので、もう私と直に会えなくても孤独ではないはずだ。私ともよく夜にお話ししているのだし。
さあ、どうしようかな。イギリスに行くなら夏祭りとの兼ね合いを考えれば8月の中旬から後半になる。だけど他にも海水浴やキャンプのお誘いがあるかもしれないし。ハカセに水着を見せるチャンスとか……うふふ。
そんなことを考えながらいつもの散歩コースを辿り、公園に差し掛かったときのことだった。
ベンチに座っていた男が不意に立ち上がり、私たちの進行ルートに出て道を塞いだ。
なんだろう、と眉を寄せる。何か用事があるのだろうか。
「と、止まれ!」
上ずった声で不審な男は叫び、シャツの下からタオルに包まれた何かを取り出した。
男がそのタオルをじれったそうに投げ捨てると、常夜灯の光を反射してぎらりと銀色の刀身が凶悪な光を放つ。
ナイフを手にした男は、それを見せびらかせるように大きく頭上に掲げて見せた。
「き……きゃああああああああああああ!!」
反射的に悲鳴をあげるのが、私にできた全てだった。
逃げなきゃと思いながらも、体も頭もまったく動かない。
視線はナイフに固定され、背筋を冷たい汗が流れていた。
情けない……! 刃物が怖いくらい何よ、と自分を叱咤するが、思考とは裏腹に体は恐怖に凍り付いて動かし方がまったくわからなかった。
「ぐるるるるる……」
私を守るように前に飛び出したヤッキーが唸り声を上げる。
リードを振り外そうとじれったそうに身をよじっているが、私の拳は凍り付いたようにリードを握りしめ、離そうとしない。
「ワォーーーーン!!!」
遠吠えを上げるヤッキーをよそに、暴漢はニタニタと笑いながらナイフをぎらつかせていた。まるで私しか目に入っていないかのようだ。
……その目の色には見覚えがある。
「えへ、えへへへへ……ありすちゃん、ようやく2人きりになれたね。さあ僕のおうちにおいでよ、おもてなしの準備もできてるんだ。きっと気に入ってくれるよ、もう帰りたくなくなるほどね」
小さい頃から、よく変質者に目を付けられた。
世の中には『声の力』が特別よく効きやすい人種というのがいる。彼ら、彼女らは私が一人になると寄って来て、私のことを生き別れた娘だの、前世からの運命の相手だの、気持ち悪い妄想を口にする。
そして決まって私に狂信的な好意を押し付け、それが受け入れられないと危害を加えようとしてくるのだ。
今の目の前の肥満体の男がそうであるように。
そんなとき私は決まって『二度と目の前に現れるな』と命令をするのだが……。
今日はまずかった。
恐怖で凍り付いて、声を出せない。
そんな私を見て、暴漢は得意そうに粘着質な笑いを浮かべた。
「えへ、えへへへへへ。やっぱりそうだ、ありすちゃんは刃物が怖いんでしょ? 僕はありすちゃんをずっと見てたから知ってるんだ。高校に入学してからずーっと見てたんだ。ほら、どう? 怖いよね? だったら僕の言うことを聞くんだ」
……しくじった。ストーカーだ。
そういえば、クラスにこんな男子がいた気がする。正直まったく気にも留めていなかったが、自分の弱みをずっと探られていたのか。
中学の頃と違って学校を支配していなかったのが裏目に出た。ハカセを守るために学校を掌握したことが、自分を守ることにもつながっていたのだろう。自分を守ろうという意識の欠如が、この事態を呼び寄せた。
私は歯噛みした。自分はなんでいつもこんなにバカなんだろう。
いつだって考えが足りなくて、意気地がなくて、臆病で。今だって目の前の刃物に怯えて何もできずにいる。せめてもっと早く、刃物を克服できていれば。
こんな男に、ハカセにあげるはずの大事なものを奪われるなんて……!
ごめんね、ハカセ……。
私が心の中で涙したそのとき。
「この野郎、ありすから離れろ!!」
この場に現われるはずもない、だけど一番現われてほしい人の声が夜を切り裂いた。
ジャージに身を包んだハカセが飛び込んできて、暴漢のナイフを握る手を蹴り上げたのだ。ハカセの脚に跳ね上げられた手から、ナイフが取り落とされる。
正直何が起こっているのか咄嗟に理解できなかった。
どうしてハカセがここに? 出不精で、この時間はいつもパソコンの前でプログラムを作ってるはずなのに。
しかもジャージ姿だなんて、あの運動嫌いのハカセが。
助けてくれたのは嬉しい。まるで白馬に乗った騎士様だ。
だけど今はそれ以上に、ハカセの身が心配だった。
なんといってもハカセは弱い。ケンカなんてできない人だ。
目の前の暴漢は狂気に支配されている。私を殺すことはしないだろうけど、ハカセには何をするかわからない。
予想通り、暴漢は殺してやると喚きながらハカセに殴りかかった。
「ハカセ、逃げてっ!!」
私の悲鳴は届かず、ハカセの頬に暴漢の拳が叩き込まれる。
「死ねェッ! 死ね死ね死ねッ! ゴミムシ! お前も僕と同じだ! ありすには到底釣り合わない陰キャのくせに、なんでお前だけッ!! お前がッ、お前が死んだらァ! ありすちゃんは僕のものになるんだああああああッッ!!!」
ふざけるな。
恐怖で凍り付いていた私の心に、怒りの火が灯るのがわかった。
お前なんかがハカセと同じでたまるか。
ハカセはいつも私を守ってくれる。私のことを気遣ってくれる。
こんなめんどくさくてわがままな女の子に付き合ってくれる。
とても素敵な男の子なんだ。そんな男の子を、お前ごときが傷付けるなんて。
未だナイフの存在にすくんで体は動かないが、燃え上がる心は反撃のチャンスを虎視眈々と窺っていた。
そして逆襲のチャンスが訪れる。
リードを握る私の手が緩んだのを察したヤッキーが全力で飛び出し、再び手にしたナイフでハカセを刺そうとする男の脚に噛みついたのだ。
その隙を突いて暴漢にタックルしたハカセが、馬乗りになってナイフをもぎ取ろうとする。
ここだ! 私は必死で『声の力』を解き放った。
「『動くなッ!!』」
びくりと暴漢の体が硬直する。
その瞬間、私は全力で駆け出していた。
よくも。よくも私の大事なハカセを傷付けてくれたわね……!!
沸騰しそうなほどに怒りで茹だった私のキックが、男の急所を直撃した。
豚のように汚い悲鳴を上げてのたうつ暴漢に指を突き付け、命じる。
「『失せろ。お前は絶対にもう二度と、私とハカセの前に顔を見せるな』」
その途端に暴漢が私を見る目が、まるで悪魔でも見たかのような恐怖に満ちたものに変わる。いつもの流れだ。
『声の力』に惹き寄せられる人間ほど、私を畏怖する。
もうあんなやつへの興味はこれっぽっちもなくなっていた。
そんなことよりハカセだ。
彼の顔は暴漢に殴られて痛々しいほどに腫れあがっていた。
なんてひどい……。
全部、私のせいだった。
私が『声の力』なんて余計なものを持って生まれたから、あんな男に狙われることになった。
安穏とした日々に油断して危機感もなく振る舞ったせいで、ストーカーに弱みを握られていたことにも気付かなかった。
刃物への恐怖心をいつまでも克服できないから、襲われてもガタガタと震えることしかできなかった。
その結果、傷付いたのはハカセだ。いわば私がハカセを傷付けたのと同じだった。
ぼろぼろと、ハカセの腫れた頬に私の涙がこぼれ落ちる。
ごめんなさい。ごめんなさい、私のせいで。
だけど、ハカセはそう言ってゆっくりと首を横に振った。
優しく言い聞かせるような声色で囁く。
「泣かなくていい。ありすは何も悪くない」
そんなことないよ。私が悪いんだよ。
私がダメだから、ハカセにこんな迷惑をかけちゃうんだよ。
でも、私はその思いを言葉にすることができなかった。
私が『魔女』だと知ったら……ハカセに嫌われるかもしれない。
今に至っても私が『声の力』のことをハカセに告白できていないのは、それが理由だった。
もちろんそんなわけないと思ってる。ハカセは『声の力』のことを知っても、私を嫌ったりしない。彼はそんな狭量な男の子じゃない。私たちが築いてきた関係は、それくらいで壊れたりはしない。
だけど……万が一にでも嫌われる可能性があるのだとしたら。
たとえばハカセが私を守ってくれるのは、私がそう『声の力』で命令したのではないかと疑われてしまったら……?
人間関係を崩壊させるのは、いつだって些細な疑念からだ。
そう思うと、どうしてもハカセに真実を告げる勇気が出なかった。
どうして私はこんなに憶病なんだろう。強気なんて見た目だけ。
本当は怖がりで、弱虫で、卑怯で。
その負担を全部ハカセに押し付けてる、ダメな女の子だ。
そのとき、ぎゅっとハカセが私を抱きしめた。
彼の体から伝わる温もりが、私を包み込む。
上背のあるハカセの体格は、もうすっかり大人で。ひょろ長くてやせっぽちだと思っていた体は、気が付かないうちにがっしりとしていて……。
「ありすを守るのは僕の意思だ」
耳元で囁かれる、確かな意思が宿った言葉。
まるで私を守るのは『声の力』に強制されたものなんかじゃないと宣言するかのような、力強い響き。
いつも。いつだって。ハカセは私の体も心も守ってくれる。
怖がりで、弱虫で、卑怯な私でも、全部ひっくるめて大事に思ってくれる。
それが確信できて、嬉しくて、有り難くて……。
私はハカセを抱きしめ返していた。
後から後から涙が流れてきて、彼の肩を濡らす。
また服を汚しちゃうね、ごめん。
でも……これは怖いからじゃないから、安心して。
嬉しいから。ほっとしたから。
私はあなたが好きです。
その後落ち着いた私は、ハカセからトレーニングを始めたということを聞かされてびっくりした。
抱きしめられたときに予想以上にがっしりと頼りがいがある感触だと思っていたけど、まさかハカセが自主的に筋トレを始めるなんて……。
正直に言うと、このとき私はおかしいなと思っていた。
私の知っているハカセは絶対に筋トレを自主的に始めるようなことはしない。
とにかく運動が嫌いなのだ。運動音痴というのもあるけど、それ以上に運動することに対して本能的な忌避感を覚えている気がする。
そんなハカセが自分から筋トレしようなんて考えるわけがない。
だからもしかして、と心のどこかで思ったのだ。
……もしかしてハカセは、『声の力』を自分に使っているんじゃ?
方法はわからない。だけど新谷君のこと、沙希のこと。
それから最近不良に染まっていて私にもツンケンした態度だったけど、いつの間にかお兄ちゃん大好きっ子に戻っていたみづきちゃんの変貌。
まるで別人になったような変貌がハカセの周りで3回も起きている。
普通に考えれば到底ありえないことだ。
だけどそれを可能にする力が存在するのを、他ならぬ私はよく知っている。
もしそうなら。
ハカセが『声の力』をどうやってか身に着けていたとしたら……。
それはとても喜ばしいことだ。
もう私は『声の力』という、人の身には過ぎた力にひとりで怯えなくていい。
ハカセという私にとってこの世で一番頼れる存在が、力を共有してくれる。
それに何より、ハカセが私の『声の力』にとっくに気付いているのなら、ハカセに嫌われるかもしれないという心配は杞憂だ。
私の『声の力』を受け入れてくれて、そのうえで私を大事にしてくれる。
本当にそうなら、それはどんなに素晴らしいことだろう。
早速『声の力』について話をしたいけど……。
降って沸いた可能性に浮足立ちそうになる心をなんとか抑える。
いえ、ダメよありす。まだハカセが『声の力』に気付いてなくて、単に奇跡的に筋トレしようと思い立ったという可能性もあるもの。
ここは冷静に様子を見ないと……。
そう、ハカセを間近で観察しないと。
「じゃあ、私もジョギング一緒にやろうかな」
想いが先走った私は、そんなことを口にしていた。
自分で結構大胆に攻めたことに気付くが、そのまま勢いに任せてぺらぺらと舌を回す。
ヤッキーの夜のお散歩を護衛してもらうという口実で、これから毎晩ハカセのジョギングに付き合うなんて約束をしちゃって。
毎日お夜食作って持ってくるなんてことも言っちゃって。
気付けば私は毎晩ハカセと夜のお散歩ができることになっていた。
ハカセに家の前まで送ってもらった私は、彼にじゃあまた明日ーとひらひらと手を振って玄関をくぐる。
そしてぐっと手を握ると、両手を挙げて嬉しさのあまり飛び跳ねまくった。
「やったー! やったやった、グッジョブ私! よくやったわ!!」
っていうかゴハン作って、2人で公園で食べるなんて……。
これもう毎晩プチデートしてると言っていいんじゃない!?
うふふ。これおいしいねって褒められちゃったらどうしよ。
実はママじゃなくて私が作ったのよーなんて。
えっ、ありすが作ったの? すごい。お嫁さんになって。とか言われたりして。
あーもう、夏休みに毎晩ハカセとデートできるなんて幸せすぎる……!
私はにへーと緩んでくる頬を押さえ、身をよじった。
おばあさまには悪いけど、もうイギリスに行ってる場合じゃなくなった。
ハカセと毎晩デートできる高校1年生の夏は今しかないのだ。
訓練はライブチャットでするから許してね。
あ、そうだ。こうしちゃいられない。
早速明日の夜食から気合入れてお弁当作らなきゃ……!
「ママ! 包丁使えなくても作れるお料理教えて! 今すぐに!!」
結局夜食に凝った料理なんていらないからおむすび持っていきなさいと言われた模様。
なおヤッキーが遠吠えしたのは、遠くにいるハカセがありすを探しているのを聴き、彼に自分たちの居場所を知らせようとしたためです。ツンデレ騎士ですね。
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面白かったら評価とブクマしていただけるとうれしいです。




