第60話「10年後の未来へ」
「ありす……!」
夜道を走りながら、僕の頭の中はありすのことでいっぱいだった。
ありすの声が聴きたい。ありすの顔が見たい。ありすの体温を感じたい。
話したいことがあると言って彼女を呼び出しておきながらも、何を言えばいいのかはこの期に及んで具体的にはわかっていない。
師匠は僕がありすをちゃんと愛しているのだと言ってくれた。それなら僕はありすに愛している、と伝えていいのだろうか。
まだ実感が伴わない。これが愛だという自信がない。
それでも、伝えたいことは確かにある。
もう二度とありすに会えないかもしれない危機を経て、ようやく実感することができた感情。
それはありすを失いたくないという強い執着。
言葉にすれば今更な話だった。
僕は彼女と出会った日から今このときまで、ずっとありすに執着している。
寝ても覚めても片時も醒める気配のないこの執着を愛と呼ぶのなら、僕はありすをこの世のすべてよりも愛している。いつだって彼女に夢中だ。僕の行動原理のすべてと言ってもいい。
もしありすに出会わなければ、僕は今でも霧に覆われた世界の外に興味を持つことなく、ただ空虚に過ごしていただろう。
僕の手を引いて、心の外に広がる世界の美しさを、家族以外に興味を抱ける人たちの存在を、繋いだその手の温もりを、今の僕を構成するすべてのきっかけをくれたのはありすだった。
そのかけがえのない彼女の手を、誰かに奪われたくない。失いたくない。
いつまでも僕の傍にいてほしいんだ。僕の半身だと思ってるんだ。
ありす!
公園から家までのランニングコースを逆にたどり、いつもの場所にたどり着く。
小学生の頃からの待ち合わせ場所、ブロック塀にもたれかかって。
時刻は20時45分。
もう真冬だというのに、ありすはやっぱり待ち合わせ時間よりも少し前に来て、僕を待ってくれていた。
スマホを眺めていた彼女は、僕の足音に気付いて顔を上げる。
じっと僕を見つめる彼女の表情から、感情をうまく読み取れない。
それでも僕は言わなければならなかった。
「ありす」
「うん」
「伝えたいことがあるんだ」
「うん」
「僕は、ありすを……失いたくない」
ありすはじっと僕を見つめている。
その青みがかった瞳を見つめ返しながら、自分が思うままを素直に告げる。
「ありすが大切なんだ。ずっとそばにいてほしい」
「それは、どういう存在として? 友達? 兄妹? ……それとも、保護者?」
「…………えっ」
ありすの問いに、僕の言葉が詰まる。
「博士が好き。この世の誰よりも、私はあなたを愛してる。……あなたは、私が愛しているのと同じように、私を愛してくれる?」
「…………」
わからない。
確かに僕からありすへ向ける執着は、保護者に向けるものと同じなのかもしれない。そして確かに友達でもあり、兄妹のように育った存在でもある。
だが何よりわからないのは、ありすが僕をどう思っているのかだった。
他人への共感性が欠けている僕には、ありすの心を正確に理解できない。
やっぱり僕は……欠陥品なのか。
他人と愛し合うことができない心を持って生まれてきてしまったのか。
「大丈夫だよ」
顔を俯かせた僕に、ありすの言葉が投げかけられる。
「あなたの心の窓は、人よりもちょっと頑丈な鍵がかかって生まれてしまったけど……もうその鍵はここにあるから」
ああ、そうか……。
そういうことだったのか。
僕はスマホを取り出し、ありすに向けた。
今このときのために、僕はこのアプリを作ったのだ。
「催眠!」
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「ぱぱーーー!! おかえりーーー!!」
我が家のドアを開けるなり、この世で2番目に愛しい存在がどーんと僕の脚に飛びついてきた。
それを柔らかく抱き留めてやりながら、軽く頭を撫でる。
「おいおい、危ないよ。転んだらどうする」
「だってパパに早くお帰りって言いたかったんだもん」
「そっかぁ。じゃあやめなさいって言いづらいなあ」
そう言いながら抱き上げて、肩の上に乗せる。
2歳になる我が子、響はんふーと嬉しそうに笑いながら僕の顔に柔らかな頬をくっつけてきた。
「わーい、たかーい♪」
「もう、パパったら……怪我しないようにちゃんと叱ってあげなきゃだめよ」
パタパタとスリッパを鳴らしながら、家の奥からゆったりとした服装の女性が出てきた。
言うまでもない、僕にとって世界で一番目に愛しい人。僕のお嫁さんのありすだ。
お腹は大きく膨れており、その中で新しい命がすくすくと育っている。現在6か月目になる、僕とありすの2人目の子供。
「起きてきて大丈夫? 出迎えなくても、寝てていいんだよ」
「病人じゃないんだから、いつまでも寝てられないわよ。それに私がアンタを出迎えてあげたかったの」
「嬉しいことを言ってくれるなあ……」
僕は響を足元に降ろすと、ありすに近付いて体を抱き寄せ、チュッと唇に口づけた。
じんわりとしたありすの体の温もりが伝わってくる。
子供の頃から変わらない体臭に混じって微かに感じる、ミルクっぽい匂い。
幸せの匂いだ。
そっと体を離すと、ありすは「料理の続きするわね」とニコッと微笑んだ。
トントン、と包丁でまな板を叩く音がキッチンから聞こえてくる。
鼻歌を歌いながら料理をするありすの後ろ姿を眺めながら、僕は食器を並べて彼女を手伝う。
嬉しそうにちょろちょろとまとわりつく響を蹴ってしまわないよう時折足元に視線を落としていると、ヤッキーが響の幼児服の裾を咥えて向こうに連れて行ってくれた。もうおじいちゃんなのに気の利くやつだ。
妊娠中期に入ったありすだが、いたって健康そのもので割とあれこれと動きたがる。
つわりもほぼ感じておらず、ヒステリーを起こすことも滅多にない。2歳の子供といえばイヤイヤ期に入って親のすることにあれこれと反抗して暴れてそりゃもう大変だが、それに参っている様子もさっぱりなかった。
何故なら僕が催眠をかけて、つわりや子供の反抗からのダメージを大きく軽減しているからだ。
1人目を妊娠していたときはかなり辛そうで、吐き気を感じたりいつもぐったりとしたりと見るに堪えないほど憔悴していた。
そこで僕が催眠アプリを使ってありすに催眠をかけ、妊娠や育児で精神にダメージを受けにくくなるようにしたのである。
つわりに催眠が効くのか僕自身も半信半疑だったのだが、ミスターMからある王室の王妃が催眠療法でつわりが改善されたというケースがあると教えられたので試したところ、しっかりと効いてくれた。
さすが師匠だ。
……あれから10年が経ったが、催眠アプリは今も僕のスマホに常駐されている。
もう使う機会も滅多になくなってほぼ存在も忘れかけているが、つわり改善や子供の夜泣き対策などにはひょっこりと役立ってくれる。
むしろありすの方がその存在を覚えているようで、彼女の方から催眠をかけてほしいとねだられている。僕としてはかつての精神分裂事件の苦い思い出があるので、あまり頻繁には頼りたくないのだが。
とはいえ役立つのは確かだし、何より僕とありすを結び付けてくれた存在だ。
ありすの左手の薬指に結婚指輪と共に今も嵌められている、いつかのクリスマスイブに贈った銀色のおもちゃの指輪と同じように。
「はい、今日はハンバーグよー」
「はんばんぐー!」
ありすがお皿をテーブルに並べると、幼児用の椅子に座った響がわーいと両手を挙げて喜びの声をあげた。
野菜をたっぷり混ぜて作った煮込みハンバーグは、野菜嫌いの響でも喜んで食べてくれるので助かる。
「はい、あーん」
「あーん!」
ありすが差し出したスプーンを咥えた響が、もぐもぐとおいしそうにハンバーグを頬張っている。
本当に可愛いなあ。
子供がご飯を食べている姿を見てこんなにも胸が温かいと感じる日が来るなどかつては想像もしなかった。
「パパもニコニコしてないで、冷める前に食べちゃって」
「うん」
ありすに促され、自分のハンバーグを口に運ぶ。
美味しい。
ヨリーさんよりも、うちのお母さんが作る料理の味に近い。
こうして家庭の味というのは受け継がれていくのか。
「ねえ、今日はどうだった? 沙希は元気してた?」
今日の外出について尋ねられ、僕はうんと頷いた。
「赤ちゃんがびゃーびゃー泣いててちょっと参ってたけどね。でもにゃる君は嬉しそうだったよ。もうすっかりパパの顔になってた」
「子供は元気に泣いてるくらいがいいのよね。本当なら直接会って先輩ママとしてのアドバイスでもしてあげたいところなんだけど」
「そのお腹で遠出させるわけにいかないよ」
催眠のおかげでありすはいつも元気いっぱいなのだが、催眠がなければ一日中ぐったりとしているはずだということを忘れないでほしい。かなりアクティブに動こうとするので、僕の方がヒヤヒヤしてしまう。
僕は自宅で仕事しているので機会をうかがってはありすを手伝おうとするのだが、ありすは一人で大丈夫だから仕事に集中しなさいと叱ってくるのだ。
大学院までミスターMこと美作教授の研究室で過ごした僕は、卒業後自分ひとりで研究する道を歩むことにした。
EGOさんはぜひ自分の会社で働いてほしいと熱心にスカウトしてきたのだが、僕にはひとりで研究したい内容があったのだ。
幸い『ワンだふるわーるど』をはじめ、桜ヶ丘電子工房に提供した複数のアプリによる利益が僕の会社にプールされているので、研究費はそこから使っている。
ありすは僕の会社の取締役をお父さんから引き継いで、僕のお金の管理をしてくれていた。僕は経済のことはさっぱりなのでとてもありがたい。正直ありすの才覚があれば一流企業で相当出世できたと思うのだが、「ハカセは好きなことをするのが一番いいの。そして私はそのお手伝いをするのが一番嬉しいのよ」と言ってくれたのでそれに甘えてしまっている。
にゃる君とささささんは最近ようやく結婚して、今年子供が産まれた。
高校時代から付き合っている割にはすごく時間がかかった。
僕とありすも結婚したのは3年前だが、大学に通っている間ずっと同棲していたので、実質新婚生活気分で大学時代を過ごしていたようなものだ。体感的には結婚8年目くらいの気分である。
そしてその間ずーっとラブラブだ。正直片時もありすと離れたくない。
だから今日みたいに親友の様子を見に行くような機会でもなければ、ずっと家で仕事をしていたいのだった。
僕の今後の目標は……家族を守ることだ。
もぐもぐとハンバーグを食べている我が子と、優しい目でその姿を眺めているありすを見て決意を新たにする。
決して奪わせない。失わない。
彼女たちが持つ『声の力』、そしてそれを利用した催眠アプリ。その力を求める者は後を絶たない。
一度は手掛かりを完全に潰したとはいえ、あれからもう10年。
いずれは『声の力』を求める者が僕たちの前に現われるだろう。
その追跡を振り切り、彼女たちを守れるのは僕しかいない。
そのためにいくつもの理論を生み出し、発明を繰り返してきた。それらの理論の概要を頭の中で振り返りながら、僕は愛する家族の食事風景を見守る。彼女たちを守るためなら、どんな苦労も辛くはない。
この胸にあふれる温かなもの……それがありすに出会った日から今に至るまで、僕を動かす原動力であり続けているから。
「どうしたの? じっと見つめてきて」
僕の視線を感じて、ありすが不思議そうに首を傾げる。
もう、この言葉を口にすることにためらうこともなくなった。
「愛してるよ、ありす」
「私も愛してる」
僕たちは両手を重ねて、想いを伝え合った。
この幸せをいつまでも続かせることを誓いながら。
THE END……?
まだ最終回じゃないですよ。
次話からはありす編、いよいよ答え合わせの時間です。
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