第59話「CASE:5 “Hello,World!”」
「あなたたち全員に催眠をかけました。今更あがいても、もう手遅れです」
「……は?」
彼女はキョトンとした顔で僕を見ている。
何を言われているのか理解できていないようだが、時間がもうない。
手短に話そう。
「ああ、あなたたちというのは貴女とどっかにいる狙撃班だけじゃないよ? 貴女の同僚全員、貴女の上司も全員かな」
「な……できるわけがない、そんなこと!!」
「できたんだなあ、それが」
嘘ではない。
もっとはっきり言えば、日本国民全員、世界中のほとんどすべての人間が僕に催眠をかけられている。
とはいえ、別に大した暗示を植え付けているわけではない。
日常生活には何の支障も出ないし、気付いている者など誰もいないだろう。
「『ワンだふるわーるど』ってアプリ知ってる? 犬好きに向けてリリースしたアプリなんだけど、あれが世界中で大人気でね。SNSで犬を自慢する人が後を絶たないんだってさ。貴女の身近にも、ユーザーっていないかな」
「……」
彼女はハッとしたように、スマホを握った手で口元を押さえた。
心当たりがあるようだ。
「あのアプリが接続されている翻訳サーバー……『バベルI世』に、催眠アプリを仕込んだ。『ワンだふるわーるど』を介してSNSに接続した人のスマホには催眠アプリがインストールされ、暗示を植え付ける。内容はこうだ。『あなたはこのスマホに催眠アプリがインストールされていることを認識できない』」
ただそれだけの暗示だ。
こうして第一感染者のスマホには催眠アプリが認識されないまま常駐する。
「そして催眠アプリに感染したユーザーとSNSで接触したユーザーのスマホにも、催眠アプリがインストールされる。もちろん暗示の内容は同じ、インストールされたことに気付かなくなるというものだ。それが1カ月前……あなたが僕の師匠の元に訪れた直後に仕組んだんだよね」
それから1カ月が経ち、無自覚のまま感染は感染を呼んだ。
今やスマホでSNSに触れた人間は確実に感染している状況だ。
しかも『ワンだふるわーるど』は『バベルI世』によって世界中の言語に対応している。日本だけでなく、スマホを持っている人間はすべて僕の催眠下にあるというわけだ。
「だから僕からスマホを取り上げるまでもなく、もうあなたは催眠アプリを持っていたというわけだね。まあ、世界中すべての人間が持っているわけだけど」
「そ、それがどうしたの!? 誰もが持っていようと、その存在を認識できないのならないものと……おな……じ……」
そう口にしながら、彼女の顔色がみるみる青くなっていく。
どうやら気付いたようだ。僕のスマホをじっと見つめている。
「そうだよ。そのスマホにインストールされた催眠アプリを認識することもできない。貴方だけでなく、その同僚も。これまでスマホでSNSに接触したことがある人間は、もう誰一人として催眠アプリを使うことはできなくなった」
「あ……ああ……!?」
彼女は呆然とした顔で、ワナワナと手を震わせている。
「どうしても催眠アプリを使いたければ、スマホでSNSに触れたことがない人間を探すことだね。もっとも、スマホ画面を見た瞬間に催眠アプリが起動して暗示をかけるように設定しているけど」
そう。現在催眠アプリは『バベルI世』と接続されており、僕が『バベルI世』に入力した暗示を更新することで、スマホを見た世界中の人間すべてに影響を与えることができる。僕が暗示を更新すると、催眠アプリは次にユーザーがスマホ画面を見たときに起動して、新たな暗示を植え付けるのだ。
そもそも接触してくるエージェントだけに催眠をかけてもどうしようもない、ということは師匠から危機を知らされたときに指摘されていた。彼女はあくまで組織の一員に過ぎない。
彼女の同僚や、その上にいる人間全員に催眠をかけなくては次のエージェントがやってくるだけで終わってしまう。
そんな顔も知らない相手全員に催眠をかけるにはどうするか。いっそ世界中の人間にまとめて催眠をかけてしまえばいいのだ。
さすがの僕もゼロからコードを起こすには並大抵じゃない時間がかかっただろう。だが、材料はすべて手元に揃っていた。
中学1年生のとき、師匠からの課題として用意した『SNSを介してスマホからスマホに感染して“Hello,World!”と表示する』コード。
多くの人間がサーバーに接触する機会を作るアプリ『ワンだふるわーるど』。
あらゆる言語で暗示を植え付けられる多言語サーバー『バベルI世』。
この3つと組み合わせることで、催眠アプリによって世界中の人間を掌握することが可能となった。
これが催眠アプリの最終進化バージョン『アリス・イン・ワンダーランド』だ。
……僕がこれまでの4年間でやってきたことは、無駄ではなかった。
すべての成果物が今この瞬間に繋がっていた。
ありすに気持ちを伝えろと、僕の成果物たちが背中を押しているかのように。
「か……解除しなさいッッ!! 私を催眠の対象から外すのよ、早くしろッ!!」
彼女は震える手で銃口をこちらに向けている。
僕を殺せるわけがないのに。
「撃ってみたら? 絶対に撃てないと思うけど」
「私を甘く見るなッ! 私はやる女だぞ、日本の未来のためならガキの命くらい……な、なんで……ッ!?」
彼女は拳銃を握ったまま微動だにしない自分の腕を、愕然とした顔で見つめた。
「撃てないでしょ? 足元に威嚇射撃するくらいならできるかもしれないけど、僕を直接攻撃することはできないはずだ。ついさっき暗示を更新したからね。『葉加瀬博士に危害を加える行為すべてを禁止する』って。この1時間でスマホを見ちゃっただろ?」
「……なっ!」
見てないわけがない。だってスマホを見せるために、わざわざ到着する直前に電話をしたんだから。
まあ、そんなことしなくても現代人が公園で1時間もヒマな時間を与えられたらスマホを見るに決まってるけどね。
職務中は絶対にスマホを見てサボらないって鉄の意思を持っている奇特な人間である場合に備えて、念には念を入れさせてもらった。
1時間を用意したのは、師匠たちからアドバイスをもらうためだけじゃない。
サーバーに入力している暗示を更新し、スマホを見せる時間を作るためでもある。
まんまと術中にはまってくれたようだ。もっとも、回避のしようもなかっただろうが。現代人は深刻なスマホ依存症だ。スマホを制する者は世界を制すると言って過言ではない。
早い話が、僕は世界を征服した。
誰にも知られないうちに、世界征服はひっそりと完了していたのだ。
もし望むなら僕は今すぐ世界の支配者として君臨することもできるだろう。
そんなことにはちっとも興味がないけれど。
僕が夢中になっているのは、世界でたった1人ありすだけだ。
それを邪魔するのなら、誰であろうと排除させてもらう。
先ほど彼女は「姿を見せた時点で私たちの勝ちだ」なんて言ってたが……。
「僕に言わせれば、存在を知られた時点でキミたちの負けだよ」
「き、貴様ぁっ……!!!」
彼女は悔しそうに表情を歪めているが、最早どんな顔だろうと興味はない。
それでは仕上げといこうか。
「ついでに言えば、暗示はもうひとつあるんだ。その内容は『指定された時刻になると、催眠アプリに関する手がかりすべてを認識できなくなる』だ」
「は……?」
ぽかんと口を開ける彼女に、僕は教えてやる。
「その時刻は日本の東京時刻で20時30分。あと10秒だよ」
「ま……待ちなさいッ! わかった! わかったわ、ちゃんと約束は守る! 貴方に危害を加えることは一切しないし、報酬もちゃんと支払うから!」
「5」
「待って! 待遇だってちゃんと……!」
「4」
「貴方を日本の副王にしてもいいから!」
「3」
「は、話を……」
「2」
「待っ」
「1」
僕はパチンと指を鳴らした。20時30分だ。
彼女は唐突に目の前から消失した僕を見て、オロオロと周囲を見渡した。
「ど……どこに消えたの!? 姿を現わしなさい!!」
「人間が消えるわけないでしょ」
僕は呟くが、彼女はその言葉を認識できない。
彼女はもはや僕の姿を見ることも、言葉を聞くこともできなくなった。容姿も声色も、すべて催眠アプリにつながる手がかりとなるからだ。
彼女は愕然とした様子で頭を押さえた。
「あ……わ、わからない……。あの……あの人間はどんな顔で、年齢は、性別は……? な、名前も思い出せない……!!」
もう彼女は僕に関する情報を思い出すことは二度とない。捜査資料を見ても、そこに何が書かれているのか認識できなくなっているはずだ。
僕はつかつかと彼女に近付くと、その手からスマホをもぎ取った。
「あっ……!!」
混乱する彼女はあっけなくスマホを手放す。取り返そうとしてもその手は見当違いの方向に向かって空を切るばかり。
「ま、待って! 貴方に銃を向けたことも、脅迫したことも反省するから! このままじゃ私はどうなるか……た、助けて! お願い! 戻ってきて……!!」
「あなたが世界の支配者になろうなんて分不相応だったね」
慌てふためく彼女の泣き言を背に、僕は悠々と歩いて公園を後にした。
まったく見苦しい。
催眠にかかった程度でみっともなくうろたえるなんて、世界の支配者になろうとした人間のふるまいじゃないだろうに。
僕が彼女をどうこうするまでもない。
催眠アプリを目の前にして取り逃した失態に加えて、興奮してあんな危険思想を口走ったんだ。狙撃班とやらがインカム越しに聞いていなかったわけがない。
あとは彼女が所属する組織が処理してくれるだろう。
ちなみに催眠アプリはこの後夜9時になると、すべてのスマホから一切の痕跡を残さずアンインストールされるように設定した。
僕のスマホには残しているが、それ以外は例外なく消去対象となる。
全世界の人間に催眠アプリの手がかりを認識できなくなるように暗示をかけたものの、催眠アプリの効果が永続しないのはこれまでの経験から学習済みだ。
いずれ僕のことを思い出して捕まえにくる可能性があるし、手元の催眠アプリを解析してしまうかもしれない。
それに世界には極端に催眠の効きが悪い人間も存在しているはずだ。他ならぬ僕がそうなのだから。
僕は催眠アプリに加えて自己暗示を行なうことで自分に催眠をかけたが、世界には僕以上の耐性を持つ人間がいるかもしれない。
もし耐性がある悪人が催眠アプリを使えば他人を支配できると気付けば、大変なことになってしまうだろう。
だから催眠アプリは今のうちに人間の手から取り上げてしまうべきなのだ。
催眠アプリがスマホから消えても、公安は元から催眠アプリを認識できなくなっているのだから、とっくに存在しなくなったアプリをどうにかして解析しようと無駄な時間を使ってくれるだろう。
……元々取り上げるつもりではいたけど、あのイカレた女と話したことで催眠アプリは決して他人の手に委ねてはいけないということが心底理解できた。皮肉なことだが、あの女は催眠アプリが他人の手に渡った場合の最悪のケースを、身をもって教えてくれたようなものだ。ありすを侮辱したことは本当に腹立たしいが、その一点にだけは感謝してもいいかもしれない。
ともあれ、これで後始末含めてすべての障害はクリアできた。
もう僕を阻むものは何もない。
「ありす、今行くから……!」
Q.わざわざ公安に顔を見せなくても、催眠アプリのことを全部忘れろって全世界の人間に催眠をかければよかったのでは?
A.万が一公安のエージェントが催眠に耐性がある人間だと計画がすべてひっくり返ってしまうので、自分の目で効果を確かめる必要がありました。
それに加えて、全世界の人間をいつでも思い通りにできるということを知らしめて、自分の機嫌を損ねたらどうなるかわかるね……?とプレッシャーをかける意図と、彼らの手元に見えない催眠アプリがあると思わせて無駄なコストを使わせる意図もあります。
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