第48話「メモリーダイバー」
(うわ……暑っ!)
あの日の記憶の追体験を始めた僕が最初に感じたのは、現在との温度差だった。現時点では11月だが、記憶の中の世界は8月の暑い盛りだ。所詮記憶の中の感覚に過ぎないとはいえ、温度差に面食らいそうになる。
というか、これほど正確に温度まで記憶しているとは僕の記憶力はどうなっているんだろうか。それとも、そんな細部までもが強く記憶に残るほど大事な出来事だったのか。
僕はストレッチと筋トレを黙々とこなしているが、その辛さが現在とは段違いだ。既にこの時点で2週間ほど筋トレはしているとはいえ、3か月後の現在と比べるとどれだけ非力だったのかがよくわかる。
(そんなことよりもジョギングだ、ジョギング。早く筋トレを終わらせてくれ)
20分の追体験の記憶に歯を食いしばって耐え、決定的な瞬間が来るのを待ちわびる。
どれだけきつくても所詮は時間にすれば20分、ようやく筋トレから解放された僕は速やかにジョギングに向かう。
この時点ではまだくらげちゃんにパシらされるということもないようだ。
外に出てすぐに気付いたが、明らかにフォームが悪い。それに腹式呼吸を意識しているということもないようだ。手足を振り回しながら、バタバタと不格好に走っている。
とりあえず走ってはみたといわんばかりだが、これでは運動の効果はあまり期待できそうにないな。
(やっぱりありすに指導してもらったのかな?)
そう思いながら夜の住宅街を走っていると、どこからか高い声が聴こえた気がした。いや、間違いない。たとえ一瞬であろうが、途中で途切れた声であろうが、僕がその声の持つ響きを聞き間違えるわけがない。
ありすが悲鳴を上げている。
記憶の中の僕もそう感じたのだろう、それまでの適当な走り方とは打って変わって、全速力で声の方向へ走り出した。
「ありす! どこだ!?」
大声を出して叫ぶが、返事はない。どこだ、という響きだけが夜の街に虚しく木霊する。
いや、ワォーン! という遠吠えが聴こえた……。わかったぞ、公園だ!
「ありす!!」
夜の公園に足を踏み入れた僕の目に飛び込んできたのは、蒼白になって震えるありすと、街灯の光を受けてギラギラに輝くナイフを見せびらかす肥満体の男だった。ありすの足元では、態勢を低くしたヤッキーが見たこともないほど凶悪な表情でグルルルルと牙を剥き出して唸り声をあげているが、男は気にした様子もない。
「えへ、えへへへへ……ありすちゃん、ようやく2人きりになれたね。さあ僕のおうちにおいでよ、おもてなしの準備もできてるんだ。きっと気に入ってくれるよ、もう帰りたくなくなるほどね」
肥満体の男はニタニタと笑いながらナイフをギラつかせている。白目がちの瞳には明らかに正気の色はなく、ただ言いたいことを喚き散らかしているような印象があった。
対するありすは真っ青になって震えており、言葉も出ないほど怯えている。その視線はナイフに釘付けになっていた。
「えへ、えへへへへへ。やっぱりそうだ、ありすちゃんは刃物が怖いんでしょ? 僕はありすちゃんをずっと見てたから知ってるんだ。高校に入学してからずーっと見てたんだ。ほら、どう? 怖いよね? だったら僕の言うことを聞くんだ」
……この野郎。
ほんの一瞬で理性が脳から揮発した。
よりにもよって、刃物を見せつけてありすを脅したのか。少しでも鋭利なものを見ると怯えてしまう女の子の弱みに付け込んで、無理やり自分の意思を強要したのか。
許せない。絶対に見逃してはならない。
「この野郎、ありすから離れろ!!」
記憶の中の僕は、そんなことを叫びながら肥満体の凶漢に飛びかかった。
我ながら刃物を持った男に丸腰で立ち向かうなんて、なんて無謀な。
だがこの追体験している僕が同じ状況にいれば、必ず同じことをする。僕という人間は、ありすを傷付けるものから守るためなら容赦はできない。
肥満体の男がナイフを握る手に向けて、僕はハイキックを繰り出した。
合理的な判断だ。僕の脚は肥満体の男の腕より長いから、相手のリーチの外から一方的にナイフを蹴り落とせる可能性がある。
喧嘩なんてほぼしたことがない僕の攻撃など通じるのかという懸念はあったが、どうやら向こうも喧嘩は素人だったのだろう。突然乱入した僕に不意を突かれた男の手にキックが当たり、ナイフがくるくると宙を舞う。
右手を押さえた男は僕を視界に抑えると、ギラリと凶悪な面相で睨みつけてきた。
「葉加瀬ェェェェッ! 邪魔をするなぁぁぁッ!! お前がッ! お前なんかがありすちゃんに相応しいわけがないんだッ! いつもいつもいつもいつも、ありすちゃんの近くにいやがって!! ぶち殺してやるッッッ!!」
なんだこいつ、僕を知っているのか? もしかしたら記憶に残っていないだけでクラスメイトだったのかもしれない。
もっともクラスメイトという以前に、こいつはストーカーであり暴行未遂のクソ野郎だ。名前を覚える価値もないし、覚えたくもない。
「ハカセ、逃げてっ!!」
ありすの悲鳴が闇を切り裂くとほぼ同時に、肥満体の男がその鈍重そうな巨体からは想像もできないほどの速さで僕の胸倉を掴んでいた。
……速い。もしかしたらこいつも火事場モードに入っているのか。
そう思った矢先に、肥満体の男の拳が僕の頬に叩き込まれていた。
「ぐっ……!!」
「死ねェッ! 死ね死ね死ねッ! ゴミムシ! お前も僕と同じだ! ありすには到底釣り合わない陰キャのくせに、なんでお前だけッ!! お前がッ、お前が死んだらァ! ありすちゃんは僕のものになるんだああああああッッ!!!」
ガスッガスッと何度も音を立てて、執拗に肥満体の男の拳が僕の頬に叩き込まれる。こいつは本当に僕を殺すつもりだ、と思った。少なくとも僕を殺せば、僕のポジションになれるとこいつは本気で信じている。
ふざけんな。
僕は火事場モードを発動して、奴の額に頭突きを叩き込む。
思わぬ反撃に肥満体の男が悲鳴を上げて、おおおおっとのけ反った。
その腹に膝蹴りを叩き込み、反動で僕はごろごろとその場に転がる。
「ありすはモノじゃない。自分の意思を持つ人間だぞ。何を勝手なことをギイギイと喚き散らしてるんだ……!」
「おおおおおお、お前だって! お前だってありすちゃんを自分のモノにしようとしてるくせに! そうなんだろ! お前は僕と同じなんだ! 誰だってありすちゃんを自分のモノにしたいに決まってる!」
そう叫びながら肥満体の男はじりじりと腰で地面を這い、後ずさっていく。その手がコツンと、先ほど蹴り飛ばされたナイフに触れた。
ニタァと肥満体の男が醜悪な笑みを浮かべる。ヒヒヒと涎混じりの喜悦の声を上げ、男はナイフを手に立ちあがった。
「だってありすちゃんは神様だから! 僕だけの女王様なんだからッッ……!! さあ、僕の神様、見ていてくださいっ! 今こそあなたを誑かす男をこの手で殺め、その血と肉を捧げますからァ!!」
くそっ、こいつはそういう手合いか。ありすの狂信者だ。
小さい頃から、ありすはたまに変質者に付きまとわれる。そういう奴はありすをやたらと信奉し、神や女王のように祀り上げようとするのだ。さすがにここまでトチ狂った奴は初めてだが。
子供の頃はわからなかったが、今ならわかる。
こいつはありすの声が『効きすぎる』体質なのだろう。
本当に……ふざけるなよ。
「ありすは神でも女王でもない。ただの女の子だ。お前なんかが好きにしていい相手じゃないんだよ!」
そう叫びながら立ち上がろうとするが、こちらのダメージがひどくて全然腰が立たない。僕が悪戦苦闘するうちに肥満体の男は僕の前に立ち、高々とナイフを掲げた。
「死ねええええええーーーーッッ!!!」
その裂帛の叫びと共に僕にナイフが突き立てられようとしたそのとき、白い影が疾風のように地面を蹴って飛び込んできた。
「グルルルルルルルルルルァッ!」
ヤッキーだ!
肥満体の男の脚に牙を突き立て、首を激しく振って傷を広げている!
「ぎゃあああああああああああ!?」
肥満体の男は眼中にもなかった犬の攻撃を受けて動揺し、苦痛の声を上げた。
一瞬自分に何が起こったのかわかっていなかったようだが、しかしすぐにヤッキーが脚に噛みついているのを悟ると、彼に向けてナイフを突き刺そうと再び腕を振り上げる。
「クソ犬がっ! 犬ごときが僕とありすちゃんの絆を引き裂けると思うなァ!」
「最初からお前とありすの間に絆なんてあるかッ!」
ヤッキーがくれたこのチャンスを無下にはできない。
僕は必死に立ち上がると、肥満体の男にタックルを繰り出した。
やせ型とはいえ2週間の間鍛えた効果は出たようだ。男は僕に突き飛ばされ、僕ごとゴロゴロと地面に転倒する。
「ありすは僕が守る! 守り抜いてやるッ!」
「ならお前から殺してやるよぉぉッ!!」
僕は肥満体の男の手からナイフをもぎ取ろうと馬乗りになり、ヤツは僕をナイフで刺し殺そうと激しく抵抗する。
その瞬間、ナイフが僕の体の陰になってありすの視界から外れた。
「『動くなッ!!』」
夜闇を裂いた高い叫びと共に、肥満体の男が硬直する。
その瞬間に、素早く走り寄ったありすのキックが肥満体の男の急所を直撃した!
「か゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!?」
聞くに堪えない汚い叫びと共に、肥満体の男は股間を押さえて悶え苦しむ。
その隙に僕は奴からナイフを奪い取り、公園の草むらに向かって投げ捨てた。
そしてありすは、悶絶する男に指を突き付ける。
「『失せろ。お前は絶対にもう二度と、私とハカセの前に顔を見せるな』」
効果は劇的だった。
その瞬間、肥満体の男はありすが目の前で恐ろしい化け物に変身したかのように顔を引きつらせ、ひぎぃと恐怖の叫びを上げながら逃げ出した。
こけつまろびつ、ほうほうの体で逃げていく後ろ姿には、最早敵意など微塵も感じられない。とにかく今この場から逃げ出したいという意思しか見られなかった。
……あいつはこれで終わりだ。
ありすはいつも、自分を必要以上に信奉しようとするものをこうやって追い払ってきた。その効果の強さも、今なら理屈がわかる。
奴らは声が『効きすぎる』が故に、それまで惹かれたのと同じだけありすを畏怖するのだ。その効き目は同じく、しかしベクトルは真逆。少なくともありすにこう命令されて、二度と顔を見せた者はいない。
ありすは肩で息をしながら、地面に転がった僕の前にしゃがみこむ。その瞳から雫がこぼれ落ち、ぽたぽたと腫れあがった僕の頬を濡らしていた。
「ごめんね……ごめんね、ハカセ。また私のせいでこんなことになっちゃった……」
「泣かなくていい。ありすは何も悪くない」
「でも……でも! 私がナイフに怯えなかったら、すぐ撃退できたのに! 私が弱虫だから、ハカセは私の代わりに傷付いて……」
違うだろう。
ありすは被害者じゃないか。憎むべきはありすにつきまとう奴らだ。神だの女王だの、勝手な役割を押し付けて。その意思を無視して、好き放題に祀り上げる。
何故ありす本人を見ようとしない。ただ自分の持つ力の大きさに怯える、当たり前の女の子だぞ。
そう言いたくても、頬が痛くてしゃべれない。そもそも僕は口が上手な方でもない。
だからできることなんてたかが知れているのだ。
「ありすを守るのは僕の意思だ」
僕は言葉少なにそう言って、ありすを抱きしめた。
小刻みに震えるありすの体から怯えが消えるまで、僕はその手を離さない。
こういうときに口が回らない自分が恨めしい。ありすの怯えと罪悪感を僕の言葉で消せるなら、幾万の言葉だって投げかけるのに。
だから、その体の震えをせめて僕の体で受け止める。
ありすも僕を抱きしめ返してきた。肩口がぽたぽたと熱い雫で濡れる。
「きゅーん」
近付いてきたヤッキーが、僕の腫れた右頬をぺろぺろと舐めた。
傷が痛んだが、我慢してそのまま舐められるがままにされる。
(そうか……ここでヤッキーに認められたんだ)
同じ相手を守る仲間として。
ありすの体から震えが消えるのにはそれほど時間がかからなかった。
濡らしたハンカチで右頬を冷やしながら、心配そうに僕を見つめている。
「大丈夫? これ、結構ひどい傷ね……明日病院行った方がいいわ」
「大げさだよ」
「行きなさい、絶対に! 朝一で行くのよ、いいわね!」
「わかった」
ありすは強い口調で命令してくる。
催眠状態にあるためか、僕は素直に頷いた。
そしてハンカチをありすに返して、立ち上がる。
「時間とられちゃったけど、続きをしなきゃ……」
「ちょ、ちょっと待ちなさい! アンタその怪我でどこ行くのよ!」
「どこって、ジョギングの続きだよ」
「……ジョギング? アンタが?」
ありすはきょとんとした顔で訊いてくる。
こくりと頷き返した。
「うん。トレーニング始めたんだ、2週間前から。夏休み明けにありすをびっくりさせてやろうと思って」
「いや、もうこの時点でびっくりしたわよ……。もしかして夏休み始まった直後からずっと走ってるの?」
「筋トレとストレッチもしてる」
……素直すぎる。ぺらぺらとありす本人に話してどうする。
ありすは何やら考えていたが、不意ににこっと笑いかけてきた。
「じゃあ、私もジョギング一緒にやろうかな」
「ありすも?」
「うん、元々この時間にヤッキーを夜のお散歩に連れて行ってたの。折角だからハカセとジョギングするのもいいかなーって」
「……でも、危なくない? さっき襲われたばかりじゃないか」
ありすもつくづく肝が太い。
夜の散歩なんてストーカーに狙ってくれと言ってるようなものでは?
しかしありすはそうは思わないらしい。
「大丈夫よ、あいつはもう二度と私たちの前に現れない。多分新学期が来る前に転校してると思うわ」
「知り合いなの?」
「クラスメイトよ。いつも教室の隅から私たちを見てたわ。じっとりとした視線で、すごく気持ち悪かった」
「ふーん」
僕の心底どうでもいいって感じの生返事に、ありすは苦笑を浮かべた。
「それにもし何かあっても、ヤッキーがいざとなったら助けてくれるもの」
「わんっ!」
……なるほど。つまり、僕もヤッキーと並んでありすのボディガードをできるというわけか。
それなら引き受けない理由がない。
「わかった、やるよ」
「やった! じゃあ、明日からお夜食持ってくるからね! いつものブロック塀のところで待ち合わせ、いいわね?」
「うん。明日からよろしく」
……急速に記憶がぼやけていく。どうやら追体験はここまでだ。
そして、僕はようやく大事なことを思い出した。
そうだ。このとき僕は、ありすには生返事を装いながらも肥満体の男が言ったことが耳から離れなかったのだ。
『お前だってありすちゃんを自分のモノにしようとしてるくせに! そうなんだろ! お前は僕と同じなんだ!』
……本当はにゃる君に催眠をかけたときから、ずっと心の奥底では気が付いてはいたのだ。他ならぬ自分が口にした内容から、目を逸らし続けていた。
『ありすは人間だ。お前の彼女になるかどうかは、ありすが決めることだ。それを、何を勝手にありすの意思を決めているんだ?』
口ではありすの意思を尊重すると言いながら、催眠アプリで無理やりありすに土下座させようと執着することの矛盾。
自分の意思で僕の中の霧を晴らしてくれる太陽のようなありすに憧れながら、ありすの意思を奪って自分の思い通りにしたいという欲求を抱き続けていた。
ありすを自分のモノにしたいのは、確かに僕もそうだったのだ。
あの肥満体の男は、僕の歪んだ欲望を映し出した鏡像なのかもしれない。あの男を通じて、僕は自分が抱いている欲望の醜さに気付いてしまった。
だから僕は、この日以来ありすに無理やり土下座させるという考えをできるだけ頭から消すようになった。そして目的を見失った僕は、ありすにどう接するべきなのかわからなくなってしまったのだ。
ありすを悲しませるどんなものからも彼女を守る、その執着だけを残して。
(そんな大切なことも忘れてしまっていたんだな……僕は……)
ストーカー君はその後引きこもりになり、
遠く離れた学校に転校するまでありすと外で出会う恐怖におびえるようになりました。
ありすを崇拝する者ほど『絶交』されると反動で怯えるようになります。
ただ、ストーカー君ほどヤバい人はこれまで『絶交』された学校関係者にはいなかったので、
彼らは現在『絶交』のダメージを回復して日常生活を送れています。
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面白かったら評価とブクマしていただけるとうれしいです。




