第35話「CASE4:運動不足のもやしっ子(自分)」
『貴方は夜8時から9時の間、必ず運動をするようになります。体を鍛えてありすを驚かせるために、運動する必要があるからです。内容はストレッチ10分、筋トレ20分、ジョギング……』
「……どういうことだ?」
僕は音声プレーヤーから流れてくる音声を聞きながら、呆然と佇んでいた。
意識がある。
音声プレーヤーから再生される暗示を、覚醒状態で聞いている。
僕は催眠状態になっていない。
催眠アプリを自分に向けて使ったとき、確かに一瞬めまいを感じたと思う。
しかしそれだけだ。その直後、すぐに意識が戻ってきた。
時計を眺めるが、時間の針はまるで進んでいない。
「催眠アプリが、僕に効かない……!?」
一度音声プレーヤーを停止して、もう一度試してみる。
「催眠!」
催眠アプリを自分に向けて起動する。
『おやすみなさい』
ありすの柔らかい声と共に、高周波や電子ドラッグといった情報の渦が僕の脳に叩き付けられ、意識が遠ざかる……。
が、踏みとどまった。
僕の耳は高周波をとらえ、目は電子ドラッグを見ている。
情報の洪水によって脳をパンクさせ催眠状態に導くはずが、それらの情報を脳が処理し、受け止めていた。
「僕は催眠状態になれないのか……?」
何故だ。どうして? いつもと何が違う。
僕は混乱しながらも、この事態を説明できる理由を考え始めた。
催眠アプリが故障した? いや、催眠アプリは単に膨大な情報を叩き付けて脳をパンクさせるだけの装置だ。故障する理由がない。
催眠できると知っているから体が身構えてしまう? いや、催眠アプリの存在ににゃる君は気付いている。そのにゃる君に2回効いた理由にならない。
……違うな、多分外的な理由ではない。
「問題があるとすれば、僕の方だ」
僕の知能が高いから情報を処理しきっている? いや、僕なんて大して頭がいいわけではない。それは自惚れだ。
では……僕の精神構造がおかしいから?
「ありそうではあるが……」
僕は首を傾げた。
僕だって、自分がおかしいことくらい理解しているのだ。
子供の頃から、他人とは位相がズレた世界に生きてきた。僕の目には世界が数値に見えている。色や形は複雑な構成を為した芸術品であり、花や雪はそれこそ天然に成立した美の結晶に見えるが、誰もその価値観を共有してはくれなかった。
自然の芸術品、完全にパターン化されたゲーム、列車が進む音。一定の形やリズムがもたらす美という、僕にとって執着するに足る輝くものを、人間はとるにたらないものと認識している。
反対に彼らがもてはやす絵画や、面白いと絶賛するマンガなどは、何が面白いのかさっぱりわからなかった。人の手でつくられたものの意図を理解できない。小学校まで、文字ですらそれが意味があるものと知らなかった。人工物の意図を少しなりとも理解しようと小学校時代はマンガを読み漁ったが、多分他人が受け止める10分の1ですらそこに含まれる意味と情緒を理解できていないのだろう。
僕の世界に人間は両手で数えられるほどしかいない。それは親と、妹と、2人の友達と、2人の師匠。
そして何より、閉ざされた僕の世界に最初に踏み入って、他人という概念を教えてくれた女の子。
ありす。
「そう、ありすだ……」
僕の頭の中で、パズルのピースが組みあがっていくような感覚があった。
《子供の頃から他人を自然と従えていた》
《ありすの声に従ったクラスメイトが僕を押さえつけ、土下座を強制した》
《ありすの長所の中で一番魅力的なのは声だ》
《セイレーン、ハルピュアといった神話の怪物は声で人を魅了する魔女だったという仮説があって》
《催眠アプリで最初に流れる『おやすみなさい』の囁き声》
《似たような素材をいくら集めても、催眠アプリは再現できなかった》
カチカチと音を立てて組みあがるジグソーパズルが、全体像を見せた。
「ありすの声、なのか? それが催眠アプリに必要な最大の要素なのか?」
それならミスターMがどれだけ素材を集めても、催眠アプリが再現できなかった理由が説明できる。ありすが協力していないからだ。
ありすの『おやすみなさい』と囁く声こそが、催眠アプリの本体。これまでの被験者たちは、ありすの『眠れ』という命令に従っていたのか?
……だが、それが正しいとして、何故僕には効かない?
僕は子供の頃からありすに何度も命令されてきたが、そこに何らかの強制力を感じたことはない。
いや……何か引っかかる。なんだ? 違和感の元はどこにある?
思い出せ……。
脳の中の記憶をひっくり返し、引きだしのことごとくを開けて、僕は手掛かりにたどり着く。
そうだ。くらげちゃんのケースだ。
催眠された彼女は、その最後に「ありがとう、お兄ちゃん」と言った。
そう。あのときは気付かなかったが、くらげちゃんは催眠状態にありながら、催眠をかけているのが僕だと認識していた。催眠をかけられても半覚醒状態で踏みとどまっていたということになる。
これはにゃる君やささささんには見られなかった特徴だ。にゃる君とささささんも催眠をかけたのは僕だと気付いていたが、それは催眠後に記憶を補正した結果であって、催眠状態にあったときに僕をはっきり認識していたわけではない。いじめグループの女子や悪党たちもそうだ、暗示を植え付けている間は僕を認識できていなかった。
ということはくらげちゃんは催眠の効きが薄いということになる。
言い換えれば、くらげちゃんは他の人よりも催眠への抵抗力が高いということになる。
思い返してみれば、確かにくらげちゃんは僕の暗示を何度か拒絶していた。悪党にそれまでの行動とは真逆の信条を抱かせるほどの強度の暗示を、くらげちゃんは跳ね返していたのだ。
僕と、僕ほどではないが催眠に耐性があるくらげちゃん。
その共通点はなんだ。
血筋? 知能? 家庭?
「……免疫?」
これではないか、という気がした。
ありすの声の中に何らかの催眠をもたらす要素があるとしたら、子供の頃からずっと一緒にいた僕と、姉妹のように仲がよかったくらげちゃんには、知らない間にありすボイスへの耐性が付いていたのではないだろうか。
「……ようやく見つけたぞ。催眠アプリ完成への糸口を……!」
僕はその後、居ても立っても居られない気持ちを抑えながら時間が過ぎるのを待った。
時計をじっと見つめながら夜8時になるのを待ったが、やはり催眠の効果は発動しない。それを確認して、僕はミスターMに連絡を取った。
「お願いがあるんです。そちらでこれまでに使った催眠アプリの素材、僕に譲っていただけませんか? お金はいくらでもお支払いします」
「……何か改良への糸口が見つかったのかな?」
「ええ、もしかしたらですけど」
ミスターMはふむ、と何やら考えるような素振りを見せた。
「……いいだろう。どうせ効果がなかったハズレ素材だ。後でひとまとめにして送っておくよ」
「ありがとうございます!」
ミスターMは謝礼を受け取らなかった。
その代わりに、今度出版される自著を買って読んでほしいのだという。著者名は例によって頭に入らなかったが、タイトルは覚えたので絶対買うことを約束した。
さあ、ここからが本番だ。
僕はミスターMから受け取ったハズレ素材集を開く。
必要なのは『14歳の女子中学生』の音声ファイルだ。
100人の女の子が『おやすみなさい』と囁く音声ファイルを解析して、声紋を抽出する。さらにその声紋の中から音波の帯域をチェックして、同じ帯域を持つデータは除外する。
これを繰り返して、ありすの音声ファイルにしか存在しない要素を割り出していくのだ。
※※※
非常に根気のいる作業だったが、数日かけて遂行した。ありすの声を繰り返して聞くのは結構楽しく、さほど苦にはならなかった。
「あった……!」
そして僕は、ありすの音声ファイルにだけ存在する音波を発見した。
ハズレだった100人の女子中学生は、誰もこの音波を持たない。
ありすの声帯だけが、この周波数の音波を発しているのだ。
僕はこの音波を増幅して、これまで使っていた高周波の代わりに催眠アプリに組み込んだ。電子ドラッグなどはもう必要ないように思えたが、比較実験のために残しておく。
催眠アプリ試作第3号『エンジェルウィスパー』の完成だ。
時刻はもうすぐ夜8時になろうとしていた。
これを今から僕に浴びせかけ、催眠にかかるかどうかを確かめる。
ありすの声に抵抗力がある僕にはまるで効果がない可能性もあるが……。
しかし僕は思い込みが強い。その自己暗示の強さたるや、意識して火事場モードに入れるほどだ。
ありす音波で足りない分はそちらで補えばいいだろう。
さあ……やるぞ。
夜7時55分、僕は催眠アプリを自分に向けて発動した。
「催眠!」
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