第32話「いつか→いつも」
「よしよし、しっかり勉強しろよー」
部屋一面に敷き詰められた『教え子』たちが一生懸命言葉を学習している様子を、僕は腕組みしながら眺めていた。
先日EGOさんに『ワンだふるわーるど』のローカライズをしてほしいと頼まれたのだが、現在その対応中である。
といっても僕が実際に手作業でローカライズするわけではない。そんな単調な作業をしたら退屈のあまり死んでしまうし、何年かかるかわかったものではない。
「翻訳AIには勝手に勉強して賢くなってもらえばいいんだよ」
『ワンだふるわーるど』に搭載されている日本語と英語のデータベースも、自然な意訳ができるアルゴリズムも、人間の手作業で構築しようとすればどちらも莫大な人手と時間が必要になる。
僕がそれを個人の片手間で終わらせることができた秘訣が、AIによる自動学習だ。
日本語の辞書をベースにさまざまな例文集を用意してAIに読み取らせ、犬語と日本語の対訳が可能なデータベースとアルゴリズムを構築するようにしてやった。さらにネットから自動的に例文を収集してくれるようにもしたので、さまざまな古語やスラングを含めて僕が知らない言い回しも学習しているようだ。
まあ、そのせいでヤッキーがなんか騎士か侍みたいな口調になってしまったが。
要はAIに自動的にネットを漁らせてマルチリンガルになってもらおうという作戦なのである。
さて、犬語を日本語に翻訳できるのなら、日本語を英語に翻訳することも可能だ。同じ人間の言葉なのだから、犬語の翻訳よりもよほど簡単だった。同じようにネット上から例文を自動収集させて、日本語から英語への自然な翻訳を学習させてやればいいだけだ。
現在『ワンだふるわーるど』に搭載されている言語データベースは、この工程による産物である。最初にちょろっと自動学習AIさえ組んでやれば、あとは放置しているだけでどんどん立派な通訳として成長してくれたというわけだ。
こうして日本語から英語への翻訳は達成できた。それなら、後は同じことの繰り返しだ。
英語以外にも翻訳可能な言語をどんどん増やしていけばいい。
ネットと例文集さえあれば、文字が存在する世界中の言語に対応できる。
「そのためにお父さんに借金してラボをこしらえたんだ」
僕の家は無駄にでかい。脱サラして事業で成功したお父さんは、調子に乗ってそれまで住んでいた借家と隣の土地を買って一軒家に建て替えたのだが、4人で住むにはちょっと大きすぎた。
使ってない空き部屋があるので、この際そこを改装して僕のラボにしようと考えたのだ。ラボといっても研究員は僕だけ、残りはすべてAIだが。
高性能な基板をいくつも購入して、そこに翻訳AIを入れ、マシンパワーの暴力で世界中の言語を高速学習させているのである。各基板の翻訳AIが分担して学習した内容は、それらを統括する親AIにフィードバックされていく仕組みだ。
僕はこの翻訳システムを『バベルI世』と命名した。
親AIをタワー型PCに入れているからという、例によってくだらないジョークである。神話のように完成間近になったら落雷でも落ちて台無しにならないかと、ちょっと心配しているが。
最終的な運用としては『バベルI世』と言語データベースをもっと大型のサーバーに組み込み、世界中のスマホから送信された犬語を翻訳させる予定である。電波が入るところでしか翻訳が使えないという弱点はあるが、そもそも今時スマホを電波が入らないところで使おうという方がどうかしているのだ。
お父さんからは改装費と基板代、光熱費と大分借金してしまったが、来年には必ず返すので勘弁してほしい。
そうお父さんに言ったところ、頼もし気な笑顔で返された。
「気にするな。息子が事業を立ち上げるんだ、応援しなきゃ親父じゃないさ。お前の会社の今の代表は俺だしな、わははは! それにこの費用はお前の会社の経費で落ちるから、税金対策にもなるぞ。遠慮せずガンガン使え!」
税金のことは正直さっぱりわかってないのだが、お父さんに任せとけば安心だ。どんどん丸投げしてしまおう。
「えっ、なにこれ……仮想通貨のマイニングでもしてるの?」
「ほへー。クーラーすずしーい。南極みたい」
ラボを覗きに来たありすとくらげちゃんが、並べられた基板を前に目を丸くしている。
放熱がすごいことになるので、壁に断熱材を入れ、業務用クーラーで常時キンキンに冷やしているところだ。万が一火事にでもなったら困る。
将来的にはビルの一室にサーバールームを設置することも考えているが、今のところはわが社はご家庭の一室で気軽に営業中である。職場まで徒歩0分という通勤時間が最大のメリットだ。ついでに産業スパイも入ってこれないぞ、別に見るものもないだろうが。
ご家庭では実現不可能な涼しさを味わったくらげちゃんは、上目遣いでおねだりしてきた。
「すっごく涼しくて気に入っちゃった。ねえ、夏はここで勉強してもいいかなぁ?」
「いいけど、基板がカリカリ鳴るからうるさいんじゃないかなあ……。あと体が冷えすぎて風邪ひくよきっと」
「ちぇー」
スパイは入ってこないけど、涼しさに飢えた女子中学生は入ってきそうだな……。
「だめよ、みづきちゃん。ここはハカセのお仕事場なんだから。頻繁に出入りしたら冷気が逃げてダメになっちゃいそうだし」
「はーい」
ありすのフォローに、くらげちゃんは渋々と頷いた。
さてありすが何故ここにいるのかというと、くらげちゃんの家庭教師である。
※※※
「絶対にお兄ちゃんと同じ高校に行きたい!」
ある日くらげちゃんはそんなことを言いだした。
くらげちゃんももう中3、高校受験を控えた身だ。
だがいくら素が聡明なくらげちゃんといえど、しばらく非行に走って学校をサボっていたので成績が割とガタガタだった。
しかももう夏休み直前で、受験までそんなに時間がない。
これは催眠で超集中能力を植え付けてあげる必要があるかもしれない。
そう思って家庭教師をしてあげようかと持ち掛けたのだが、くらげちゃんは何やら曖昧な笑みを浮かべたのだった。
「えっ、いいよ。お兄ちゃん教えるのすっごく下手だし」
「そっかー……」
「でも気を遣ってくれてうれしいな。ねーねー、じゃあ参考書買いに行くのだけ付き合ってよ」
そう言って僕の腕に抱き着いておねだりするくらげちゃんをむげにはできず、僕はくらげちゃんと買い物に行くことにした。
くらげちゃんを腕にぶらさげたままで。
「……さすがに暑くない、くらげちゃん?」
「ふふん、へーきへーき。お兄ちゃんとお買い物~♪」
もう7月の暑い盛り、セミもミンミン鳴き始めるこの時期に、くらげちゃんは僕と腕を組んで街を歩くのにご満悦である。
僕は正直クッソ暑いのだが、くらげちゃんに好き放題甘えさせてあげることを誓ったので言うとおりにしている。
くらげちゃんも汗だらだらで、触れたところから雫が滴っているのだが……。くらげちゃんの考えることが、たまにわからなくなる。
「あっ、ありすちゃんだ」
「「えっ」」
そんなカップルのようにびったりとくっついた状態を、ヤッキーを連れて散歩していたありすに見られた。
「……みづきちゃん、何してるの?」
ありすはプルプルとわずかに震えながら訊いてくる。
「お兄ちゃんとお買い物! 参考書買いに行くの!」
「ふ、ふーん。仲直りしたんだぁ」
「うん! もうすっかり仲良しなんだよ~」
くらげちゃんはそう屈託なく笑いながら、僕の腕にぎゅーっと抱き着いてきた。おやおやくらげちゃん、本当に楽しそうだね。
ありすはどうしてそんな無表情なのかなぁ。
おっと、ヤッキーが身を縮こまらせて飼い主を見上げているぞ。どれどれなんて言ってるのかな。翻訳アプリ起動。
「きゅーん……」
『犬ですがご主人様の機嫌が最悪です。たすけて』
そっかー、ヤッキーもこわいかー。
僕も怖いよ。
「みづきちゃんも私たちと同じ高校に行きたいの?」
「うん! お兄ちゃんと同じ高校がいいな!」
「そうなんだー」
ありすはそう言って、にっこりと微笑んだ。
おかしい。何故僕はこんなに冷たい汗をかいているのだ。
ありすの笑顔から伝わってくるこの緊迫感は一体。
そして妹と街を歩いていただけなのに、何故不倫の現場を本妻に見られたダメ夫みたいな空気になってしまっているんだ……!?
「じゃあ、私が勉強教えてあげようか?」
「えっ! いいの!?」
「もちろんよ。私とみづきちゃんの仲じゃない」
ニコニコ笑顔なのに目が笑っていないありすがそう提案すると、くらげちゃんはぱあっと顔を輝かせた。
「やったー! ねえねえ、これからいっぱいうちに来てね!」
くらげちゃんが無邪気な笑顔でそう言うと、場の空気が一気に緩んだ。
異様な息苦しさから解放され、僕とヤッキーはほっと息をつく。
ありすは渾身の力で殴りつけた壁が実は豆腐だったみたいな、拍子抜けしたような感じで目をぱちくりさせた。
「えっ、いいんだ……?」
「もちろんだよー! だってありすちゃんだもん。私たち姉妹みたいなものだし、遠慮せずにいつでも来てね! じゃないと私も勉強進まなくて困っちゃうもん」
「みづきちゃんがそう言うなら、夏休みの日中や土日にお邪魔しちゃおうかな」
「えへへー、待ってるからね!」
先ほどの一触即発の空気はどこへやら、ありすとくらげちゃんは笑い合いながらキャッキャしている。女の子の考えることはさっぱりわからん。いや、まあ人間全般の考えること自体僕にはよくわからないのだが。
しかしそうか、これからはありすがよくうちに来るのか。
……うん、それは悪くないな。
「じゃあこれからありすちゃんも参考書選びにいこー!」
「きゃっ!?」
不意にくらげちゃんがありすの腕を取って歩き出した。
僕とありすはくらげちゃんに引っ張られ、その少し後ろをついていく。ついでにヤッキーも引きずられていく。
「ふんふふーん♪」
僕たちに挟まれてご機嫌なくらげちゃんを中心に歩きながら、僕とありすは顔を見合わせた。そういえばこんな至近距離でありすの顔を見るのも久しぶりだ。
にゃる君たちとつるむようになってから、ありすは僕の机に乗らなくなっていた。
ありすの顔がちょっと赤い。夏の熱気のせいだろうか。
「ねーねー、こうして3人で歩いてると昔に戻ったみたいだね!」
「そうね。なんだか懐かしいわね」
2人がそう言うのに、僕は小首を傾げた。
戻ったというには語弊があるんじゃないかな。だって、
「これが今からの日常だろ?」
ありす「ところでこの部屋、何やってるところなの?」
ハカセ「犬語を世界中で翻訳できる装置を作ってるんだよ」
ありす「そうなんだ、すごーい!! これで世界中の犬好きと繋がれるわね!」
ハカセ(ありすが喜んでくれて嬉しいなあ)
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