89 試験
攻略組選抜試験の舞台になる演習用迷宮は、迷宮都市中央に位置する彼らの拠点の地下にあった。
街の中心部から地下に広がる最高難度迷宮――ヴァイスローザ大迷宮。
その一層を改造して作られた演習用迷宮は、私が知る迷宮とはまったく違う代物だった。
一目でわかるほどに異様で異常な空間。
明らかにおかしい魔素の流れに、私はため息をつく。
合格率が1パーセント以下というのもうなずける。
入り口から覗き見えるだけでも気が遠くなる量の悪辣な罠。
罠の精度をずらし、油断を誘っているからさらに性質が悪い。
おそらく、私が認識できたものよりずっと多くの罠が仕掛けられている。
入り口の前で自分の順番を待つ。
試験の参加者はみんな、経験も実績も豊富な手練れ揃い。
自信に満ちた顔で入っていった屈強な熟練冒険者さんが、見るも無惨な姿で出てきたのを見て私は帰りたくなった。
絶対やばいってあの中……。
人間が入れるような空間じゃないから、あんなの。
一人なら、入る前から心が折れていたかもしれない。
それでも、私には立ち向かわなければならない理由があった。
周囲の冒険者さんたちから一斉に響くざわめきと歓声。
「おい、あいつ突破したって」
「あの若さでか?」
「いったい何者……」
声が向けられているのが誰なのか、目を閉じたままでもわかった。
嫌味なくらい優秀で、でも本当は誰よりも努力家で。
それでも、私だって負けてられないんだ。
「次、279番」
「はい」
声にうなずいて、入り口へと進む。
落ち着け。
心を研ぎ澄ませろ。
怖いとか失敗するかもとか、そんな感情はいらない。
すべきことだけ考える。意識を集中する。
あいつにだけは絶対に負けたくないから。
難関に向かう怖さよりも、置いて行かれたくない気持ちの方がずっと強いから。
私は前へ踏み出す。
選抜試験が始まる。
◇ ◇ ◇
演習用迷宮の上部に作られた一室。
特殊な魔法式が刻まれた隠し窓から、試験官を務める冒険者たちが参加者を見下ろしている。
「85番失格」
「127番失格」
「268番可能性あり」
彼らが測っているのは冒険者としての力量とスキル。
自分たちの仲間として加える価値があるかどうか。
張り巡らされた悪辣な罠に対する一挙手一投足が審査されている。
「今回の参加者も質が高いな」
中に入ってきたのは隻腕の男だった。
試験官を務める冒険者たちが男に一礼する。
「おはようございます、ダーリントン卿」
彼――ダーリントン卿は攻略組の後方支援室で長を務めている。
冒険者としては珍しく、高名な大貴族である彼は攻略組の中心人物の一人だ。
パトロンとして金銭的に組織を支えながら、必要な物資を調達しチームとしての戦力を増強していく。
それは三年前に負った大怪我で最前線で戦うことができなくなった彼にとって生きる目的とさえ言える事柄だった。
戦えなくなった絶望の先で見つけた大きな夢。
才に欠ける自身の肉体では成し遂げられなかった最高難度迷宮の完全踏破。
それを彼は、財力と自身の影響力を使って再び目指そうとしている。
「いつにも増して優秀な者が多い。残念だよ。これが六十層攻略への人員募集だったらよかったのだが」
「今回仕掛けた罠は七十五層の難度を想定しています。一線級の冒険者でも初見でクリアするのは至難の業ですから」
「突破できる者は一人いれば幸運な部類、か」
傑出したスキルと未知の状況への対応力が求められる超高難度の選抜試験。
突破できるのは各地から集まってきた精鋭の中でも一握り。
自身が途中で脱落するとは夢にも思っていなかったのだろう。
放心する某国魔導師長の背中を見送ってダーリントン卿は深く息を吐く。
酷な課題であることは自覚している。
しかし、必要なのは即戦力だ。
力の足りない者を最前線に送れば、結果としてその者自身が取り返しのつかない傷を負うことになるのだから。
今はそこにない自身の右腕を見つめ、ダーリントン卿は言った。
「能力が届かない者は絶対に不合格にしろ。良いな」
「はい」
うなずく試験官たち。
そんな彼らの課す高い壁を一人の参加者が突破する。
「見事でしたね」
「おそらく、今日の合格者は彼だけだろうな」
ダーリントン卿は手元の資料に視線を落としうなずく。
ルーク・ヴァルトシュタイン。
王国史に名を残す稀代の天才という噂は伊達ではないということだろう。
裏を返せば、冒険者としての経験を持たない者となると、そのレベルの実力者でなければ突破できない難易度だということでもある。
迷宮の入り口で一人の参加者が転んだのはそのときだった。
ノエル・スプリングフィールド。
ルーク・ヴァルトシュタインに見いだされ、近頃王国を騒がせているという新星。
しかし、先を行く彼に比べると彼女には決定的に欠けているものがあった。
それは経験――
多方面に渡り豊富な実績を持つルーク・ヴァルトシュタインに対し、ノエル・スプリングフィールドは王宮魔術師になってまだ数ヶ月。
経験の量は引き出しの数――すなわち状況への対応力に直結する。
才能も力もあるのだろう。
しかし、最高難度迷宮に挑むにはあまりにも場数が少なすぎる。
ダーリントン卿の予想は当たっていた。
小柄な彼女は受け身を取り損なって顔面から床に衝突。
「いたた……」と目に涙を浮かべている。
彼女はここまでだろう。
そう思いつつ見つめていたダーリントン卿は、ひとつの事実に気づいてはっとする。
「あの床、魔術トラップが仕込まれたものだったよな」
近くにいた試験官が答える。
「はい。床裏に刻まれた魔法陣が瞬時に対象を睡眠状態にするはずですが」
困惑しているのは彼も同じだった。
魔法罠が起動しなかったということだろうか。
同様の事象はその後も続いた。
彼女に対してなぜか魔法陣が機能しないのだ。
不具合かと思ったが魔法罠自体は正常に作動している。
一挙手一投足を注視していた彼らは、次第に気づき始める。
そこにいる彼女の異常さに。
「まさか、起動するより早く魔法陣を無効化してる……?」
「ありえない。人間業じゃないぞ、そんなの」
「しかし、たしかに無効化術式の魔素反応が」
原理上可能なことではある。
だが、問題はそれがあまりにも早く行われたということ。
固有時間を加速させての常軌を逸した反応力と術式起動速度。
仕掛けられた無数の罠にかかりながら、そのすべてを無効化し先に進んでいく。
異常な光景に誰もが言葉を失う中、一人の試験官が気づく。
「……動きがよくなってないか?」
仕掛けられた超高難度の罠に対して、急速に洗練されていくその動き。
的確に局面の急所を見抜き、目にも留まらぬ速度で対応していく。
「最初とは完全に別人に見える」
「おいおい、慣れてきたってレベルじゃねえぞ」
膨大な数の悪辣な罠が、何もできず一方的に解除されていく。
呆然とする試験官たち。
静まりかえる部屋の中。
やがて、震え声がひとつ響いた。
「なんなんですか、あれ……」
そこにいたのは、彼らの常識では計り知れない異常な適応能力を持つ何かだった。






