69 燕尾服の男
恐ろしいことに、第一幕が終わるまでノエルは一度も目を覚まさなかった。
気持ちよさそうに口を開けて熟睡している。
本当に、何をしに来たのだろうか。
(……まあ、僕からすると悪い時間ではなかったけど)
むしろ満足度はすごく高かった。
たとえトラブルが起きて演奏が中断するようなことになっても、会場で最も良い時間を過ごした観客として幸せな気持ちで劇場を後にできるように思う。
第二幕が始まるまでの小休憩。
固くなった身体をほぐすように伸びをしたルークは、後方からの視線に気づいてはっとした。
そこにあったのは楽しげに手を振るガウェインの姿。
隣ではレティシアが頭を抱えている。
「…………」
見られていたらしい。
(なんで、ここに……!)
ルークは顔が熱くなるのを感じつつ、二人の元へ向かう。
◇ ◇ ◇
「………………ん?」
目を覚ますと、そこはきらびやかなホールの中だった。
ここどこだ? と怪訝な目で見つめてから、ルークに誘われて歌劇場へ公演を観に来ていることを思いだす。
どうやら今は休憩中らしい。
ルークも席を外している様子。
うんと伸びをして、外のお手洗いへ向かう。
固くなった身体をほぐしながら歩いていた私は、曲がり角で劇場のスタッフさんとぶつかった。
「失礼いたしました」
慌てた様子で跳びだしてきた燕尾服の男性。
急いでいるらしく、頭を下げてから早足で私に背を向ける。
何かあったのかな、と首をかしげる私。
不意に鼻孔をくすぐったのはベルガモットに似た香りだった。
二角獣の角の粉末、魔女草、マンドラゴラの根、魔晶石とベルガモットの実を調合して作る薬――変身薬。
大人のお姉さんみたいな体型になりたくてこの薬の研究をしまくっていた頃のことを思いだしてから、はっとする。
これは、闇取引に繋がる何かの予感。
遠ざかる背中。
かなり急いでいる。
人込みのずっと先まで進んでいたそれをあわてて追った。
できればルークや取締局の人に報告したいところだけど、まずは見失わないこと最優先。
あの人が何者なのか、突き止めないと。
燕尾服の後ろ姿は人気のない劇場の奥へ早足で進んでいく。
《隠蔽魔法》
姿を周囲から見えなくする魔法のベールを張って、後を追った。
関係者以外立ち入り禁止の看板が立てられたその先。
曲がり角の先を覗き込んだ私が見たのは、スタッフさんの姿が壁の中に消えるところだった。
近づいて、状況を確認する。
壁に偽装された隠し通路。
迷宮遺物を使って作られたそれは、質も精度もおそろしく高い。
何の手がかりもない状態で発見するのはまず不可能だろう。
壁の中の通路は地下へと続いている。
なんで歌劇場にこんな空間が、と首をかしげてから思いだした。
そう言えば、ここの支配人さんにはあまりよくない疑惑があったんだっけ。
新人王宮魔術師として、資料の整理をしていたときに調査記録を見たことがある。
テアトロ・アーデンフェルド十二代目総支配人ミシェル・ベルクローヴァ。
北の帝国にある歌劇場で演出家として名を上げ、総支配人として王国に来た彼は、裏社会の要人との黒い交際の可能性が調査されていた。
警戒しつつ、燕尾服の男性を追って隠し通路の中へ。
気づかれないよう十分に距離を取りつつ、地下施設を進んでいく。
大きくしっかりとした施設だった。
壁は防音と耐久の付与魔法がかけられた特別製。
奥の資材置き場のような場所で、燕尾服の男性は誰かと話していた。
「――――」
距離があるせいで何を言っているのかうまく聞き取れない。
声を拾うのをあきらめて、周囲に目を向ける。
これ、いったい何が積まれてるんだろう?
覆っている布の隙間から、積み上げられていた何かを確認して、私は言葉を失った。
漂う禁止魔法薬の香り。
大量に積まれた違法魔道具。
『なぜ歌劇場なのかはわかりません。ただ、取引を主導する組織のアジトが近くにあるのではないかと局長は睨んでいるみたいです』
近くどころかここじゃん、犯罪組織のアジト。
まさかの状況にくらくらする。
と、とにかくみんなにこのことを伝えないと!
引き返そうとしたそのときだった。
「入り込んだ鼠というのはどこだ?」
「あそこです」
「…………」
バレてた。
頭を抱える私と、違法武器を手に続々と集まってきて出口を封鎖する犯罪組織の人たち。
こ、これは俗に言う絶体絶命というやつでは……。
ちくしょう!
こうなったらやるしかない!
覚悟を決めて、魔法式を展開する。
犯罪組織アジトでの戦いが始まった。






