61 難題
研修開始時刻の一分前に入ってきたフリードリッヒ・ロス教授は、大柄で風格ある壮年の男性だった。
三人の助手が手際よく資料を配っていく。
例題の解答として描かれた魔法式。
そのあまりの難解さに私は戦慄した。
なにこの恐ろしく高度で複雑な内容。
「なんだ、これ……」
「おい、今年やべえぞ。去年よりはるかにえぐい」
「バカな……一年かけて準備したのに……」
周囲から聞こえるささやき声。
先輩たちも同じことを感じたらしい。
「大丈夫だ。俺たちはダメでも、うちのノエルがなんとかしてくれる」
「そうだ! 頼んだぜ、救世主!」
小声で声をかけてくる先輩たちに、胃が痛くなりつつ、授業を聞く。
しかし、びっくりするくらい何も頭に入ってこない。
期待されてるのに。
応えたいのに、まるで手も足も出なくて。
大好きなはずの魔法式が今は、知らない国の言葉みたい。
全然わかんない!
もうダメだ!
ごめんなさい先輩、私これ無理です!
心が折れそうになったそのとき、頭をよぎったのは学生時代の記憶だった。
魔術学院の三年生だった頃、私は初めて壁にぶつかった。
元々苦手な科目だった『付与魔法学』の試験。
授業についていけなくて。
何をどうしていいか全然わからなくて、途方に暮れて。
最後の手段として、私は大嫌いなあいつに声をかけたんだ。
『ごめん、あんたにだけは絶対に聞きたくないと思ってたけどどうしてもわからないところがあって』
あいつは先生よりもわかりやすく解き方を教えてくれた。
中でも、強く印象に残っているのが、わからないときの対処法。
『一度に解こうとするな。問題を切り分けて考えろ。地道にひとつずつわかることを整理していけ。そうすれば、どんな難問でも必ず正解に近づける』
落ち着け。
深呼吸して心を落ち着かせる。
問題を切り分けて、丁寧に。
わかることからゆっくり、ひとつずつ。
少しずつ何を問われているのかわかってくる。
知らない異国の言葉が、知っているそれに変わり始める。
よく見るとこれ、私の得意分野。
《固有時間加速》でいつも使ってる魔法式だ。
この魔法式なら、目を閉じていても描けるくらい何度も描いてきた。
積み上げた量と理解度なら、誰にも負けないはず。
糸口が見つかると、それからはすぐだった。
「――できました」
手を上げた私を、教授は怪訝そうな目で見つめた。
助手さんの一人が近づいてきて言う。
「少し見せてもらえますか?」
私のノートを持って、教授のところへ。
教卓の前で何やら話し合いが始まる。
数分後、戻ってきた助手さんは言った。
「魔法式として題意を満たしているとのことです」
「やった!」
小さく拳を握る私。
「よくやった! さすが救世主!」
「ノエルさん、かっこいい!」
小声で言ってくれる先輩たちに頬をゆるめる。
隣で、同じ隊の先輩が言った。
「ふふふ、そうでしょう。すごいんすよ、うちの後輩」
いや、あなたは何もしてないですからね。
お調子者の先輩に白い目を向けつつ、次の問題へ向かう。
「次も頼んだぜ、エース!」
そんなうれしいことを言ってくれるので、
「任せてください! みんなで正解して、教授をびっくりさせてやりましょう!」
すっかりエース気分で答える私。
研修はいつの間にか、教授対王宮魔術師のチーム戦みたいになっていた。






