237 宵闇の奥を進むために
『ノエルなら何も言わなくても書いてる。負けたままでいいのか』
言葉が頭の中で反響している。
イリス・リードは痛むくらいに強く拳を握りしめている。
――悔しい。
悔しい悔しい悔しい。
空気がうまく吸えない。
刃物で刺されてもこれほどの痛みは出ない。
身体よりももっと奥にある、心が直接切りつけられた感覚がある。
痛みから逃れるために、頭の中で呪詛の言葉を吐く。
(クズ。最低。死ね。バカ上司)
言葉で殴ると少しだけ楽になる。
溜まった不快なものが外に出て行くのを感じる。
(何もわかってない。最悪。私は優秀なのに。誰よりもできる天才なのに)
トイレの個室で壁を殴った。
運動は苦手だ。
喧嘩なんてしたことがないから、不格好な殴り方になって。
予想以上に軽い音が響いて、なんだか惨めな気持ちになった。
何もかもうまくいかない。
何もできない。
(辞めようかな、もう)
重たい息が漏れる。
(私は優秀だし働くところならいくらでもある。わざわざこんなところにいてやる必要ない。悪いのは上司だし。他のところならもっと私を評価してくれるのに)
良い思い出のない学生時代だったけど、接する大人はみんな優しかった。
イリスの努力を認め、その才能をいつも高く評価してくれた。
(ここでは、誰も私のことを正しく見てくれない)
他国から来たよそ者として、低く見ずにはいられないところがあるのだと思う。
無意識の偏見。
あるいは、イリスの才能に脅威を感じているからこそ、厳しく接して潰そうとしているのかもしれない。
想像すると、怒りがわき上がる。
ここには敵しかいない。
周囲の人たちは寄ってたかって私を貶めようとしている。
(もうこんなところにはいられない)
魔導国に帰ろう。
辞めるための書類を用意しよう、と思って――
かつて感じていた不満を思いだした。
『この人たちが私を甘やかすのは、私が若い女性魔術師だからかもしれない』
実力ももちろん理由のひとつだったと思う。
自分に対して厳しくできるほどの能力を持つ魔術師は、周りにほとんどいなかったから。
でも、現実には年齢と容姿を見ている大人もいた。
気持ち悪いと思っていた。
このままじゃいけないと感じていた。
そんなときに出会ったのだ。
栗色の髪の小さな魔術師に。
国別対抗戦の最終予選だった。
イリスは観客席から身を乗り出していた。
周囲にいるのは、開催国である魔導国代表の魔術師を応援する人がほとんどだった。
理不尽な罵声を浴びせる人もいた。
だからこそ、イリスはその人の魔法に見とれたのだ。
この人みたいに実力だけでみんなを黙らせられる人になりたいって思った。
なれる、と思っていた。
多くの人はできないかもしれない。
でも、自分は違う。
確信があった。
自分ならできる、と思っていた。
あの頃は。
『ノエルならできてる』
誰よりも自分が気づいている。
先輩にできることが私にはできない。
いつも目で追っていた。
観察していた。
少しでも吸収できるものはないかって。
最初は大したことないと思った。
でも、それは私の見立てが甘かったから。
仲間を大事に、とか言ってるぬるさが気持ち悪くて、悪いところばかり見るようにしていたから。
負けてからは次第にいろいろなことが見えてきた。
届かないと感じるようになった。
経験不足もあるだろう。
だけど、それ以上に埋められない差を感じていた。
努力すれば努力するほど見えてくる現実。
どんなにがんばってもあんな風になれる気がしない。
無敵だったのは知らなかったから。
同世代で自分より上の相手を見たことが無かったから。
聞きたくない言葉が頭の中で響く。
『あの子は早熟だっただけ』
才能はあったのだと思う。
でも、一番星になれるほどのものは持ってなかった。
上には上がいるこの世界で、誰もが自分の力を磨いている。
うまく力を伸ばせなくて、消えていく人がどれだけいるのだろう。
光ることができなかった見えない星は、宇宙の闇の中にたくさん転がっていて。
そんな敗残者の死骸の上に、綺麗な星が眩しく輝いている。
『貴方もできる』って甘い言葉で誘うのだ。
私も輝けるかもしれない、と淡い夢を見る。
だから今も見えない世界の片隅で、届かない距離に絶望して真っ暗な空に押し潰される人がいる。
(夢なんてあってもつらいだけ。目標なんて苦しいだけ。全然良いものじゃない)
夢を見た方が良いなんて言うのは、成功者と本気で挑戦したことがないやつだけだ。
無責任に甘いことだけ言って。
本当はどれだけ残酷なことを言っているのかまるでわかっていない。
大嫌いだ。
みんな、みんな、大嫌い。
個室の壁に額を当てて、強く目を閉じる。
沈黙が過ぎる。
世界の中に自分しかいないんじゃないか。
そんな静けさがあたりを浸している。
(いつも人のせいにしてるな、私)
誰かのせいにして逃げていた。
何から?
(多分、自分の弱さから)
人のせいにしないと自分を保てない。
人より優れた自分じゃないと耐えられない。
そういう弱さが多分、私にはある。
教室でみんなに無視されていたあの頃。
人より優れてるという感覚だけが心の支えだった。
本当の自分は何もなくて。
仲間はずれにされるような性格の悪い人間で。
だから優れてないと生きていけない。
優れてないと認めてもらえない。
必死になって心の中で言い訳をしていた。
自分以下がいないと安心できなかった。
(ほんと終わってる)
目の奥が熱くなる。
いったいどうすればいいのだろう。
どうやって生きていけばいいのだろう。
視界が歪んだそのとき、頭をよぎったのは先輩の言葉だった。
『がんばるのは素敵なことだけど、いつか限界が来るよ。無理は長続きしないものだから。それよりがんばってるなんて気持ちを忘れちゃうくらい、思い切り愛してあげる方が魔法も応えてくれるんじゃないかって思うんだ』
(言う通りでしたね。限界、来ました)
苦笑してから思う。
(でも、私にはできない。簡単なようで一番難しい。本物の天才の言葉なんですよ、それ)
自分には先輩ほどの愛がない。
好きで好きでたまらないという気持ちがない。
だから、無理なんだろうか。
ここで終わりなんだろうか。
『――――天才との戦い方を教えてやる』
いや、違う。
愛で負けていても対等に渡り合っている人がいる。
正解は人の数だけある。
ひとつの面で絶望的に届かなくても、別の何かで補うことはできる。
先輩の道は進めない。
だから、私の道を進むんだ。
甘い逃げ道に逃げたくなる自分を押しとどめる。
痛みも絶望も、ちゃんと受け止める。
できない自分で良い。
歪んでいても良い。
私のやり方で一歩だけ前に進もう。
今より少しだけできる自分になれるように。
『ここだけの話、私はイリスちゃんのことを結構気に入ってるの。だからこそ、人の弱さに寄り添える優しい人になってほしいなって思ってる』
あの頃はまったくわからなかった言葉。
今は少しだけわかると思う。
つらくて苦しい時間には、人として優しくなれる何かが含まれているのかもしれない。
(大丈夫。私は前に進んでる)
言い聞かせるように唱えた。
先輩のように綺麗に輝くことはできないかもしれない。
でも一歩ずつ。
少しずつ続けていくんだ、と思った。






