221 願いと選択
「雲行きが随分悪そうですね」
三番隊隊長執務室。
ルーク・ヴァルトシュタインの言葉に、ガウェイン・スタークは穏やかな声で答えた。
「そうでもねえよ。いつも通りだ。俺の心は波ひとつない湖面のように落ち着いている」
「落ち着いていられる状況ではないと思いますが」
「大したことじゃねえよ。最悪、俺が辞めれば済む話だ。全財産賭けた馬が逆方向に走り出したあの絶望に比べれば、大したことじゃない」
静かに首を振るガウェインに、ルークは表情を変えずに言う。
「ただ辞めるだけでは済みませんよ。保守派の貴族たちは、貴方が同じ平民出身であるノエルを不当に重用してると強く主張している。彼らの狙いは貴方だ。再就職先にも横やりが入る可能性が高い」
「そうかもな。それでも、真っ当に生きていれば見てくれている人はいる」
ガウェインは落ち着いた声で続けた。
「どこで働こうが俺は俺だ。肩書きで人間の価値は変わらない。俺はもう十分良い思いをさせてもらったしな。この辺が引き際ってことだろ」
言葉に迷いはなかった。
既に腹をくくっているのだ、とルークは思う。
考え得る最悪の事態――王宮を去ることを覚悟して、その上で自分を貫こうとしている。
「ノエルを王の盾に移籍させる裏取引の打診、断ったそうですね」
ルークの言葉に、ガウェインは自嘲するみたいに口角を上げた。
「お前に隠し事はできねえな」
「アーネストさんにも打診を強く断るように伝えたとか。アーネストさんはノエルに関する裏取引に応じなかった。にもかかわらず、裏取引に応じたという噂が出回ってるあたり貴族社会の陰湿さに頭が痛くなりますが」
「世間っていうのはそういうもんさ。連中には好きなことを言う権利がある。俺にはそれを気にしない権利がある。それだけのことだろ」
「そんな風にはなれないんですよ。あの人たちも、僕も」
ルークは深く息を吐いた。
「ミカエル殿下は今回の動きを周到に準備していたように見えます。阻止するために動いたレティシアさんと僕も、先回りされて完全に上を行かれました」
「ほんと優しいよな、お前もレティシアも」
「貴方のためじゃありません。自分のためにやっているだけです」
ルークは言う。
「記憶障害がなければ、もう少しできることもあったと思います。それでも、結果は変わらなかったでしょう。殿下は僕らの動きを最初からすべてわかっていたかのようでした」
「未来が見えていると称されるだけのことはあるってことか」
「それ以上の何かがあるように感じました」
「それ以上の何か?」
「殿下は本当に未来が見えているのかもしれない」
ガウェインは少しの間押し黙った。
何かを考えているような沈黙があった。
静かに口を開いた。
「過去に信じられていた未来視の魔法は、すべて偶然と思い込みによる錯覚だったことが証明された。お前も知ってるだろ」
「歴史から学べる最も重要なことは、今まで起きなかったことがこれからも起きないとは限らないということです。加えて、魔法以外のものも含めれば可能性はさらに広がる」
「何らかの遺物が使われている可能性がある、と。そう言いたいのか?」
「あくまで仮説の段階ですが」
ルークは唇を引き結ぶ。
「もしそうだとすれば、そこを崩さない限り勝機は無い」
ガウェインは冷たい目でルークを見つめた。
「言い方に気をつけろ。まるで、殿下を相手に一戦交えようとしているみたいに聞こえる」
「そう伝えたつもりですよ」
サファイアブルーの瞳が向けられる。
そこには、一点の迷いもないように見えた。
ガウェインは頭をかく。
「最悪の場合、すべてを失うぞ」
「覚悟の上です」
「そこまでしてノエルを殿下に渡したくないのか」
ルークは視線を彷徨わせた。
「それについては、少し複雑な事情があると言いますか」
「複雑な事情?」
ガウェインは怪訝な顔で言う。
「教国で何かあったのか?」
「何もないですよ。何も」
平静を装って答えた。
「とにかく、そういうことなので」
逃げるようにその場を後にする。
執務室の扉を閉めてから、もたれかかって深く息を吐いた。
感情を隠すのは得意で。
小さい頃から誰よりもうまくできたはずだったのに。
彼女のことになると途端に器用な振る舞いができなくなってしまう。
嫌になるくらい不器用な自分がそこにいる。
教国で過ごした最後の夜のことを、ルーク・ヴァルトシュタインは鮮明に記憶している。
腰掛けた噴水の手触り。
伸びる尖塔と区切られた夜空。
指の先を湿らす飛沫の一滴まで鮮明に記憶している。
募る思いを言葉にした。
彼女は本音で答えてくれた。
フラれるかもしれないとは思っていた。
僕の目に映る彼女は、あまりにも綺麗で眩しいから。
何より、彼女はいつも大好きな魔法を追いかけているから。
(本当に大切なたったひとつは、僕の手が届かないところにあるのかもしれない)
脳裏に浮かぶひとつの可能性。
そうだとしたら、自分がしたいことは何なのだろう。
彼女の純粋な思いを濁らせてでも隣にいることだろうか。
(正直に言えば、それも悪くないと思う)
よくないことだと思うけど。
そういう歪な思いも自分の中にないと言ったら嘘になる。
魔法が大好きな彼女が僕を見てくれるなら。
彼女の人生に今より深く入り込むことができるなら。
それでいいじゃないか、と思う自分もいる。
小器用で計算高い策略を、僕はいくらでも形にすることができる。
彼女が僕の隣にいるしかない状況を作る方法はいくらでもある。
(だけど、心が本当に求めているのはこれじゃない)
胸の中にはいくつもの思いがある。
彼女を濁らせてでも自分のものにしたいと思う自分がいる。
彼女を応援したいと思う自分がいる。
自分の願いが叶わなくなるとしても、進みたい道を進んで欲しいと思う自分もいる。
心の中で渦巻く、相反する気持ち。
自分のことが、自分でもちゃんとわかっているとは言いがたくて。
捉えきれない心の全部が納得できる答えなんて、どこにもないのかもしれない。
最善の選択をしたとしても、心の一部が泣いているものなのかもしれない。
だとしても、僕は一番良いと感じる答えを選びたいと思った。
彼女の純粋で真っ直ぐなところが好きだから。
少しでも、近づきたいと思うから。
歪な僕には無理かもしれないけど、それでも――
ちくりと胸を刺す痛み。
それでも、これが一番良い選択だってずっと彼女を見ていたから知っていた。
(ノエルがなりたい自分に一番近づける選択をする)
たとえ、失った痛みに泣き叫ぶことになったとしても。
君の願いを叶えたいと思う。
大好きな君を幸せにしたいって願ってる。






