218 エピローグ3
気づけば、私は眠っていたらしい。
暗闇の中で目を覚ます。
私は窮屈な空間に身体を折るようにして眠っていた。
少し動けば誰かの腕や頭に手が当たる。
起こすのもわるいので、宵闇に目が慣れるまでじっとしている。
それから周囲の状況をゆっくりと把握していく。
両隣で寝ているのはニーナとメルちゃん。
その隣でエヴァンジェリンさんとエリーさんとライザさんが眠っている。
どうりで狭いわけだ、と納得した。
三人分の布団で六人が寝ているのだ。
(身体が痛い……)
慣れない体勢で寝ていたからだろう。
凝り固まった身体をほぐしつつ、起こさないように慎重に布団から出る。
(トイレ行こ)
音を立てないように扉を開けて、部屋の外へ。
冷えた空気が夜を浸している。
紋様が刻まれた白い柱。
咲き誇る季節の花々と聖女クラレスの像。
深夜の大聖堂は幻想的で、なんだか現実感がないように私には感じられた。
お手洗いを済ませた私は、少し遠回りをして部屋に戻ることにした。
折角だし、深夜の大聖堂をもう少し見ておきたかったのだ。
聖女候補居住区の外縁部を歩く。
執務室がある区画との間にある噴水が見えてくる。
ルークのことを思いだす。
あいつを噴水の縁に腰掛けてずっと待っていたこと。
そういえば、舞踏会の後で踊ったときも噴水が近くにあったっけ。
あいつとの思い出は、噴水に結びついているのかもしれない。
予感があった。
そこにあいつがいるような気がした。
ルークが泊まっている来賓室との間にあるし、いてもおかしくないなって。
だけど、そこにあいつはいなかった。
(当然か)
期待する方が間違っている。
なんとなく、噴水に近づいてその縁に座った。
中庭の区切られた空の先で、銀色の月が私を見ていた。
少し涼んでから、部屋に戻ろう。
足音が聞こえたのはそのときだった。
その足音を私は知っていた。
あいつらしい丁寧で落ち着いた足音。
そこには少しためらいの気配も感じられる。
「眠れなかった?」
私は言った。
「そんなところ」
あいつが言う。
ルーク・ヴァルトシュタインがそこにいる。
ルークは、少し間を開けて私の隣に座った。
二人で何も言わずじっとしていた。
噴水の飛沫が、撫でるように手を湿らせた。
「あの日、行けなくてごめん」
不意にルークが言った。
「許さない」
「え?」
「あそこって待ち合わせの定番スポットでしょ。みんな相手が迎えに来る中、一人で待ち続けた私の気持ちがわかる?」
「それは本当に申し訳ないとしか」
「軽そうな男の人に声かけられてさ。めんどくさいなって思ってたら『お嬢ちゃん、一人? 大丈夫? 自警団の人呼ぼうか?』って言われて。ナンパじゃなくて本気で心配されてんの」
「また子供っぽい服着てたの?」
「本気のおしゃれ着だったよ! あの夜の屈辱を私は忘れない。そして、間接的にその原因を作ったあんたのことも私は忘れない」
眉根をよせて私は言う。
「誠意は言葉ではなく食べ物です。私はルークにごはんを奢ることを要求します」
「謹んで奢らせていただきましょう」
「うむ。よかろう」
私は深くうなずいてから言う。
「体調の方は大丈夫? 記憶の欠落があるかもってニーナは言ってたけど」
「それは……」
ルークは一瞬、口ごもってから言った。
「全然ないよ。大丈夫」
「本当のことを言いなさい」
「本当だって」
「嘘がうまいあんたが隙を見せる程度には異常があるんでしょ。大丈夫。他の人には秘密にするし、周囲の評価が下がらないようにサポートする。私はあんたの味方だよ」
じっとルークを見つめて言った。
ルークは少しの間押し黙ってから深く息を吐いた。
「少なくない記憶や知識に欠落がある。あったはずの出来事が思いだせなかったり、知っていたはずなのに何も出てこなかったり。学生時代のクラスメイトと過ごした時間の記憶とか、王宮魔術師として追っていた事件の詳細とか。魔法に関する知識にも大きな空白がある」
「魔法に関する知識はどのくらい思いだせない?」
「……全体の八割くらい」
一瞬何も言えなくて、言葉を飲み込んだ。
元気づけないといけないのに。
その事実に、私が誰よりも動揺している。
(いけない。一番ショックなのはルークなのに)
私は自分の心を静めて言葉を選ぶ。
「大丈夫だよ。知識がなくても身体が覚えてる。描いた魔法式の量は裏切らない。大したことじゃないよ。ルークは頭が良いからすぐに元通りのところまで戻れるって」
「それはそうなんだけどね」
「え?」
「知識の八割はなくなったけど、普通の魔法使いには負ける気がしないし、すぐにそれまでの水準までは戻せると思う」
「…………」
なんだ、こいつ。
(人が心配してやってるのに、これだから天才様は……)
私は多分不穏な目をしていたのだろう。
「なにその目?」
「こいつ自信ありすぎてほんとムカつくなって目」
ルークは私の言葉にくすりと笑う。
その顔を見ながら心の中で私は安堵している。
この感じなら、王宮魔術師団に復帰することもできるだろう。
聖宝級の職務は大変だし、最初は苦労することもあるだろうけど、こいつなら絶対やり遂げられる。
才能と家柄に恵まれた天才のように見えて、私が知る誰よりも努力してきたルークだから。
(私がいなくても大丈夫)
王宮魔術師を辞めたことをルークには言っていない。
それは、王国に戻るまで伝えないことにしようと決めていた。
余計な心配をさせてしまうのがわかっているから。
こいつ責任感強いし、自分のせいだって思っちゃいそうな感じもするし。
(私がしたいからやっただけで責任とかほんと感じなくていいんだけどな)
とはいえ、私も逆の立場ならめちゃくちゃ責任を感じるだろうし、どうこう言える性格ではないのだけど。
(再就職先、考えないとな)
思いだされるのは魔道具師ギルドをクビになってからの転職活動。
近隣地域の魔法が使える仕事の応募を片っ端から受けて、そのすべてに落ち続けた苦い記憶。
(ぐ……トラウマが……)
その原因はギルド長の嫌がらせだったのだけど、『いらない』と言われ続けた記憶は私の心に強い痛みとして記憶されている。
(ルークを救えただけでこれ以上ない結果だもんね。都合の良いところだけ取ることはできない。代償や嫌な部分もちゃんと引き受けないと)
就職活動がんばらなきゃ、と思う私にルークは言った。
「問題があるとすれば、日常生活の方かな。家のこととか社交界のこととかいろいろ記憶が抜け落ちてるのを感じる。交友関係とかも忘れてることの方が多いかもしれない」
「そうだよね。私生活のことも大変だ。本で読んだことあるけどみんないろいろ苦労してるし」
「医療分野の本読んでるの?」
「医療分野では無いけどね。でも、記憶喪失については詳しいと思う」
私は言う。
「ロマンス小説で相手役の男性は大体記憶喪失になるんだよ。で、主人公のことが思いだせなかったり、そのことですれ違っちゃったりするの」
「創作と現実は違うと思うけど」
「いいえ、違いません。生きている中での願いから生まれる創作は、時に現実よりも尊いものなのです」
真面目な顔で言ってから、続けた。
「まあ、ルークが私のことを忘れててもそれは仕方の無いことだし、私は気にしないから」
「忘れてないよ」
「え?」
「君のことはひとつも忘れてない」
ルークは言った。
「教室での他愛ないやりとりも、執務室で話した好きなおやつの話も全部覚えてる」
サファイアブルーの瞳が私を見ている。
「僕にとって一番大切な記憶だから」
月明かりの下でルークの顔は、なんだかいつもと違うように感じられた。
顔が熱くなる。
視線を彷徨わせる。
ルークが私の袖を掴んでいる。
その手はかすかにふるえている。
「ずっと伝えたかったんだ」
目を伏せる。
長いまつげが月の光を反射する。
「僕は君が好きだよ」
心臓が高鳴る。
人生初告白。
それはすごくすごくうれしくて、ありがたいことで。
もしかしたらそうなのかもって考えたことはあったけど、それでも真っ直ぐに伝えられると、全然違う胸にくるものがある。
逃げ込みたくなる。
ここでルークと付き合えば、私は少しだけ不安から逃れることができる。
仕事を探さないといけないという現実も、ルークと一緒にいればずっと楽になるはずだ。
疲れた顔をしてると優しくお世話してくれて、寂しくなったらたくさんかまってくれる。
実家は太いし、最悪もらってくれて永久就職みたいな道もあるかもしれない。
『そう! 結婚こそが女の幸せ! 行くのよノエル! 人生安泰安心ハッピーエンドへ!』
そんな脳内お母さんの声も聞こえる。
逃げちゃえという私がいる。
『残念ですが今回貴方の採用は見送らせていただこうと思います』
あの日の痛みが胸を刺す。
(弱いな、私は)
でも、だからこそ逃げちゃいけないと思った。
ルークが本気で伝えてくれてるのだから、こんな気持ちでうなずいてはいけない。
私だって、本気の言葉で答えないと。
本当の気持ちを伝えないと。
「ありがとう。すごくうれしい。私もルークが好きだよ。友達か恋愛かとかそういうのはよくわからないけど、男の人で一番好きだと思う」
ルークの瞳が揺れる。
私は言う。
ひとつひとつ丁寧に言葉を選ぶ。
「でも、私には大切なものがあるんだ。魔法がもっとうまくなりたいの。王宮魔術師団に入ってから、時々自分でもびっくりするような魔法が使えるときがあって。それがすごくうれしくて。もしかしたら絶対無理だと思ってたもっと上の世界にだって手が届くかもしれないって思ってる」
続けようとして私はためらう。
その言葉は、簡単に口にしてはいけないことのように感じられる。
お前には無理、なんて声も頭の中で聞こえる。
だけど、それでも踏み出すべきときが来ているのだと思った。
私なんかが、ってずっと縮こまってたらいけない。
自分の可能性を、私だけは信じてあげないと。
「ルークは前に王国で一番の魔法使いになりたいって言ってたよね。あのときはどうしてそんな風に言えるんだろうって不思議だった。すごいなって思ってた。だけど、今は少しだけその気持ちがわかるよ。不安も怖さも、それでも行くんだって覚悟もわかる」
私は言う。
「私、世界一の魔法使いになりたいんだ」
それは多分、意外な言葉だったのだろう。
サファイアブルーの瞳が揺れる。
「だから、私はもっと純粋に魔法に打ち込まないといけないの。付き合うとか今はできないんだ。ごめん」
愚かなことをしているんだと思う。
ルークは私にとっては本当にもったいないくらい素敵な人で。
こんな選択、お母さんが聞いたら信じられないって頭を抱えるに違いなくて。
だけど、本当の気持ちなのだから仕方ない。
こんな気持ちでルークと付き合うなんて、それこそ失礼だと思うし。
恋人らしいことがしたいと言うルークをほったらかして、寂しい思いをさせてしまうかもしれない。
多分、何回繰り返しても私は同じ決断をするだろう。
それでも、胸の中にチクリとした痛みがあった。
ルークが離れていくかもしれない。
もう友達ではいられないかもしれない。
それはすごく寂しいし悲しいことだ。
こんなところまで追いかけてくるくらい、絶対に失いたくなかった大切な友達。
でも、ある種の決断には犠牲がつきまとうものだから。
すべてを手に入れることはできないから。
私は本当に大切なたったひとつを選ぶんだ。
ルークは感情をおさえた声で言った。
「世界一、か。大変な道になるよ。わかってる?」
「わかってる。それでも、やりたいんだ。そうじゃないと絶対に後悔するから」
「君らしいね」
ルークは深く息を吐いて言った。
「あーあ、なんでこんなやつ好きになっちゃったんだろ。小さいし、脚短いし、魔法ばかり見てる。家事はできないし、空気読めないところあるし、私生活はぐーたらでめちゃくちゃだらしないのに」
「言い過ぎでしょ! ぐーたらでだらしなくなんてないし! 何を失礼な――」
「最後に部屋の掃除をしたのはいつ?」
「………………思いだせない」
ルークは両手を広げる。
「僕は背が高いし、脚も長いし、家事もできる。空気も読もうと思えば読めるし、汚くしないようにしてるから部屋はいつも綺麗」
「ぐぬぬ……」
「でも、そんな君が好きなんだよね。どうしようもないんだ。こればかりは」
苦笑いをして続けた。
「これからも君を見てていいかな」
その言葉に私は戸惑う。
「いいの?」
「どうして?」
「私はうれしいけど、ルークがつらくなるんじゃないかなって。それに、他の人を好きになった方が幸せになれそうな感じもするし」
「そうだろうね。多分それが正しい判断だと思う。でも、それができるなら人生投げ打つ勢いで無茶して出世して、君を相棒にしようとかしてないし」
「無茶して出世……? もしかしてあれも私のために!?」
「気づいてなかったんだ」
ルークは口元をおさえて笑う。
「僕はずっと君だけを見て今日まで生きてきたんだよ。そして、許されるならこれからもそうしたいって思ってる」
じっと私を見て続けた。
「不本意ながら、僕より魔法が好きなノエルが僕は好きなんだ」






