208 喪失
「二度目の私を甘く見ない方が良いよ」
私の言葉に、仮面の男は淡々とした声色で言った。
「なるほど。君の言う通りだ。君を倒すのは想定しているよりも簡単なことではないかもしれない。だが、君もひとつ見当違いをしている」
「見当違い?」
「あのときの三人以上に強い仲間が我々にはいる」
歩みでたのは黒い外套を着た仮面の男だった。
仮面には『ⅩⅢ』と刻まれている。
(なにこの異常な魔力……)
息を呑む。
心臓が跳ね回り、全身が沸騰するみたいに熱を持つ。
ここにいるのは、私が今まで対峙した誰よりも強い化け物だ。
(落ち着け……冷静になれ……)
ふるえそうになる身体を押さえつける。
絶望的な状況だって何度も乗り越えてきた。
最初の一発さえかわせれば、二発目は少しだけ楽にかわせるようになる。
持久戦に持ち込むことさえできれば勝機だって――
自分に言い聞かせながら、しかしどこかで気づいている。
今の私は、この人には勝てない。
御前試合での剣聖さん、国別対抗戦でエヴァンジェリンさんと向き合った時を超える、絶望的な力の差がここにはある。
「人形の強さは素体の質によって大きく左右される。この人形は最高品質の素体から作成した。君は彼の攻撃に反応することができない。勝負は一撃で決するだろう。物語のような奇跡は起きない。ここにあるのは作り物の世界では無く血が通った本物の現実だからだ」
『Ⅳ』の男は言う。
「善悪は関係ない。より強い者が勝つ。君は負ける。無残に、一筋の救いも光も無く。だからこそ、残酷な真実を最後に君に教えてあげよう。君が抱いていた希望は既に潰えている」
仮面を外せ、と男が言う。
『ⅩⅢ』の黒仮面が自らの仮面を外す。
銀色の髪が魔導灯の光を反射した。
整った顔立ちは、人間的なあたたかみが消えたことで人外の何かみたいな幻想的な雰囲気をたたえていた。
青い瞳には光が無い。
心と魂の一切がすり切れ、損なわれ、完全に失われている。
変わり果てていた。
まるで別人で。
別人だと思いたくて。
だけど、それがその人だって私は気づいてしまっている。
わかりたくないのにわかってしまう。
だってそこにはあるのは――ずっと隣で見てきたあいつの顔以外の何物でも無かったから。
いったいどれだけ残酷な投薬と精神操作をすればこんなことになるのだろう。
怒りで頭が真っ白になる。
自分を制御できない。
《固有時間加速》で時間を加速させ、『Ⅳ』の男に向けて最大火力の魔法式を起動させる。
後先のことなんて何も考えていない。
ただ怒りに身を任せ、目の前の男をこの世から消そうとしている。
だけど、魔法式は起動すること無く霧散した。
身体に力が入らない。
私は倒れ込んでいる。
何をされたのかさえわからなかった。
動けない。
全身が痺れている。
(見えなかった……)
多分電撃魔法なのだろう。
しかし、その魔法は知っているあいつのそれよりもさらに速い。
固有時間を加速させているのに、反応することさえできなかった。
意識が遠のいていく。
ただ、顎が壊れるくらいに強く歯を食いしばっていた。
悔しくて。
悔しくて悔しくて悔しくて。
だけど、何をすることもできない。
「彼の心は完全に破壊されている」
『Ⅳ』の男は言う。
「彼と話すことはもうできない。ここにあるのはただの人形だ。彼という人間はもうどこにもいない」
冷たい声が響く。
「これはそういう無慈悲で救いようのない現実の話だ」
闇の中でずっと私はひとつの思いに縛られている。
行き場の無い怒りだけが渦巻いている。
ふざけんな。
ふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんな――
なんでルークがあんな目に遭わないといけないのか。
良いやつなのに。
あんな風に終わりを迎えていいわけなんてないのに。
それでも、動かしようのない残酷な現実がそこにはある。
薄々私は気づき始めている。
悪いことをしなければ、真っ当に生きていれば不幸なことにはならないというのは錯覚で。
良い人がどうしようもなく理不尽な死を迎えたり、悪い人がたくさんの人を傷つけながら、さらに犠牲者を増やしていくこともあるのがこの世界の残酷な現実で。
でも、わかっていても全然納得なんてできない。
おかしくて。
間違っていて。
あってはならなくて。
私は声にならないうなり声を上げている。
涙が顔をぐっしょり濡らしている。
朝軽くしたお化粧は、流れて多分それはもうひどいことになっていて。
だけど、そんなことどうでもいいと心から思った。
神様、なんでもします。
ルークともう一度話せるなら。
あいつの心が失われずに済むなら。
私の全部をあげたっていいです。
指も足も髪も腕も心も記憶も知識も魔法も、全部全部あげたっていいから――
私は狂ったみたいに泣いている。
泣くこと以外に何も出来ないでいる。
周りのことなんて全部どうでもいい。
心が壊れそうな強い悲しみが私を捉えている。
「うう……ううううう……ううううううう……」
声にならない声で泣いている。
何もできないまま、ずっとそうしている。
そのまま、どれくらいの間が経ったのだろう。
まったくわからないし見当もつかない。
気がつくと、私は泣いている。
涙の水たまりの中に頬を沈めている。
すべての力が失われている。
だけど、そこには心地良い感覚もある。
たくさん泣いたことで、負の感情が洗い流されたのだろうか。
二度寝した後みたいに私はすっきりしていて。
なんだ、大丈夫じゃんって思ってから、なんであんなに悲しんでたんだろって他人事みたいに思って。
あいつのことを思いだした。
怒りと悲しみで頭の中が真っ白になって、またバカみたいに嗚咽を上げて泣いた。
魔法が一番大切だって思っていた。
魔法さえあれば他に何もいらないって。
だけど、私はなんて愚かだったのだろう。
なんて幸せだったのだろう。
知らなかった。
失うことがこんなに痛いなんて。
二度と話せないと思うと心が軋んで。
なんでもあげるから、大好きな魔法だってあげていいから、お願いだから返してくださいって必死で神様に祈っている。
それは多分、今の私が失ったばかりだからで。
バカだからいつも失うまで気づけなくて。
ルークだけじゃない。
お母さんだって、ニーナだって、レティシアさんだって、私にとっては大切でかけがえのない何にも変えられない存在で。
だけど、多分しばらく時が経てばこの悲しみだって薄れていく。
覚えていようと意識していてもやっぱりどこか現実味が無いものになって。
ちょっと喧嘩したくらいでお母さんなんていなくなってもいいのに、とか最低で最悪なことを願ったりする。
本当に起きたら、どんなにつらくて苦しいか、わかっているつもりで何もわかってないのだ。
実際に起きるまでわからない。
ずっといるって思ってしまう。
私はなんて愚かなのだろう。
もっとルークに優しくしてあげればよかったと思う。
話を聞いてあげればよかったと思う。
気にかけてあげればよかったと思う。
あいつはいつも私のことを気にかけてくれていたのに。
私はあいつよりも自分の方が大切で。
自分よりも魔法のことの方が大切で。
何も見えないまま、バカみたいに幸せで恵まれている時間を生きていた。
本当はどこかで気づいていたよ。
あんたが私のことを好きだってこと。
そこに特別で熱を持った何かがあるってこと。
だけど、私はそれが多分少し怖かったんだ。
変わってしまうんじゃないかって。
何もかも変わってしまうんじゃないかって恐れてしまって。
今のままの方がいいって現状維持を願った。
友達でいてほしいと願った。
あいつも大事だけど、大好きな魔法の方をもっと大切にしたかった。
わがままで自分のことしか見えていない子供な私。
物語の恋に憧れたりもするけれど、自分のこととなるとどうにもピンとこなくて。
必要なくない? とか思ってしまって。
だけど、私はたしかにあいつを必要としていたのだ。
私の中にある少なくない一部は、あいつがいないと失われてしまうものだった。
あいつが好きで、傍にいて欲しくて、もっとたくさんおしゃべりして、競い合って、同じ時間を過ごしたかった。
(なんで……なんで……!)
悔しさで両手を握りしめている。手のひらに爪が食い込む。血が流れる。
だけど、そんな痛みなんて私には無いのと同じようなものだった。
もっと強い痛みが胸を締め付けている。
つらい苦しい痛い、痛いよ。
ルークがどうして……
どうしてどうしてどうして……
私は狂ったように泣いている。
何もできないままうずくまっている。
檻の扉が開く音がして目を開けた。
にじんだ視界の中で、仮面の男が檻の中に入ってくる。
私は檻の中にいたのだ、と気づく。
身体を起こす気にはなれなかった。
動かないまま、涙の水たまりに頬を沈めて、焦点の合わない瞳で鉄格子の下の方を見つめている。
「ニーナ・ロレンスは捕まった。お前の希望は既に潰えている」
仮面の男は言う。
私は弾かれたように身体を起こす。
ニーナを助けるために、目の前のこの男を倒さないといけない。
『ⅩⅦ』の文字が刻まれていた仮面に頭突きをお見舞いしようと身体を振る。
しかし、響いたのは鎖が軋むような音だった。
後ろ手にかけられた手錠が背後の壁に鎖で繋がれている。
私は鎖を引きちぎろうともがく。
硬い手錠が手首に食い込む。
張り裂けそうな痛みがあるが、それどころではない。
私はこいつを倒さないといけないのに――
「まるで野犬だな」
肩をすくめて『ⅩⅦ』の男は言う。
男は私の口にハンカチを押し当てる。
咄嗟に口を閉じるが間に合わない。
揮発した何かが口の中に入る。
膝から力が抜ける。
立っていられず崩れ落ちる。
身体が自分のものじゃないみたいに動かなくなる。
「肉体を麻痺させる薬だ。お前はもう、抵抗することさえできない」
『ⅩⅦ』の男は言う。
「我々は、お前の心を破壊することを決定した。有用で希少な価値がそこにはあったが、我々を拒むのであれば仕方が無い」
男は青紫色の薬液が入った注射器を取り出す。
「安心しろ。君の苦しみはここで終わる。薬液は心を不可逆的に破壊し、君は何を考えることも認識することもできなくなる。怖いだろうが恐れる必要はどこにもない。悩みも悲しみもすべて無に返る。地獄そのものであるこの現実から君は解放されるのだ。心の死によって、救済は完了する」
私は歯を食いしばって身体を動かそうとする。
しかし、動いてくれない。
うめき声だけが響く。
男が私の頭部を固定する。
心を破壊する注射針が近づいてくる。
こんなところで終わるわけにはいかないのに。
まだまだやりたいことがたくさんあった。
言えてないことがたくさんあった。
できることがたくさんあった。
懸命に身体を動かして逃れようとする。
しかし、身体は重たい泥のように動かない。
痛みが後頭部の下部を刺す。
「神の救いがあらんことを」
終わりの時が来る。
私の人生は引きちぎられたみたいに終幕する。
不思議なことに痛みはなかった。
何も感じない。
心が破壊されるというのはそういうものなのだろうか。
男の身体から力が抜けたのはそのときだった。
視界の端で、男の身体が私の方にもたれかかるのが見える。
足音が近づいてくる。
私に向けてしゃがみこむ。
視界の端に『ⅩⅨ』と刻まれた黒い仮面が映る。
頭をつかみ、固定して、後頭部の下の方からすっと何かを抜く。
地面に置かれたそれは注射器だ。
青紫色の薬液は押し出されること無くそこに残っている。
「うん。大丈夫そうね」
聞き覚えのある声だった。
凜として透き通った女性の声。
彼女は『ⅩⅨ』と刻まれた黒い仮面をすっと外す。
金糸のような長髪が舞う。
人間では無い何かみたいに幻想的な空気感を纏った顔立ち。
「街に連れ出してくれたお礼に来たわよ、ノエル」
三魔皇と呼ばれる西方大陸最強である人外の一人。
大森林の森妖精を統べる女王にして帝国領最強の存在――エヴァンジェリン・ルーンフォレストがそこにいた。






