零れる光
美砂はいつも前向きで頭が良く器用だと思われる。求められる自分でありたくて、そのための努力もしていたつもりだ。でも今振り返れば、所詮人の顔色を伺って体裁を繕って生きてきただけ。自分が媚びて汚ならしい存在に思えた。
友達として、真紀は大好きだ。彼女に支えられて様々な難局を乗り超えてきた。一方で、周平の想い人がこの融通の利かない真っ直ぐな彼女だという事実が美砂を苦しめる。真紀と比べて私はなんて不純な生き物なのか。この酬われない恋を終わりにしない限り、きっと私は変わることが出来ない。それなのに何故また周平を追ってしまうのだろう。
美砂の胸の澱はいつしか心の底に堆く降り積もっていった。淀んだ表情はメイクで隠し、痩せたね、と言われれば「ダイエットしてるから」と答えて、うらやましがる同僚に苦笑した。
ある秋の休日、美砂は思い立って実家から車を借りひとりでドライブに出掛けた。大学時代は良く頼りにされて車を出し、山や海に出掛けたものだ。しかし久しぶりに握った車のハンドルにも感慨はなかった。爽やかな青空も紅葉の色も美砂の心には響かない。
いっそ、ここで車を突っ込んでしまおうか。唐突にそんな考えが脳裏をよぎった。誰にも何にも知らせずに、全てを終わりにしてしまうんだ。そうしたら誰も傷つけなくてすむ。美砂はカーブで大きくハンドルを切り、アクセルを踏み込んだ。
「!」
けたたましい音をたててタイヤから煙が上がる。美砂はガードレールの脇から林に車を突っ込んだ。木の幹にぶつかり、ばん、と左右のエアバッグが開いた。一瞬目の前が真っ白になる。ヘッドライトが割れバンパーもひしゃげたが、美砂はほぼ無傷だった。
「・・・ははっ」
思わず笑ってしまった。思い切りブレーキを踏んでいた。全て終わりどころか怪我一つしていない。命を絶つ勇気なんて持ち合わせていないくせに。惨めな気持ちで美砂は携帯で保険会社に電話し、車を引き取ってもらう手筈をつけた。自分が帰るのに誰を呼び出そう。今日両親は二人で法事に出掛けているし、弟は免許を持っていない。知人を呼び出そうにも説明のしにくい山道だ。携帯をいじっていると良介の番号があった。そういえば彼の実家はここからそう遠くないはずだった。土地に明るく、この場所が分かるかもしれない。なにより彼は優しいので、美砂に多くを尋ねたり責めたりしないような気がした。事情を話すと彼は二つ返事で「すぐ行く」と答え、美砂の説明だけで場所が把握出来たらしく驚くほど早く事故現場に辿り着いた。
「ごめんね、面倒かけて」
「怪我は?」
良介は乗ってきた車のドアを開けるなりそう尋ねて、美砂の頭から爪先まで素早く目を走らせた。エアバッグのせいで頬に痣が出来ていて、彼は眉をしかめた。
「お陰様で、車だけ。顔はたいしたことないから」
ちょうどレッカー車が来て林から車を引き上げているところだった。割れたヘッドライトや歪んだ車体を見て良介は息をのんだ。
「もう廃車だって。スピード出してたからなー」
へらっと笑って軽い調子で美砂が呟くと、良介はすごい形相で彼女を睨んだ。
「何言ってんだよ!」
唇を真一文字に結んで、何かに耐えているような目をしている。拳が硬く握られていた。
「・・・乗れ」
自分の車を差して言った。素直に従って助手席に座る。背もたれに体を倒すとため息が漏れた。道端で長い時間立ったままロードサービスを待ったり電話をかけたりしていたので、思いの外消耗していた。良介は温かい缶のミルクティを美砂に握らせるとエンジンをかける。ありがと、と小さく呟いて、缶を開けた。いつも飲んでいる銘柄だ。一口飲むと濃厚な甘さがじんわりと高ぶった気持ちを癒してゆく。安堵感に長い息を吐いて目を瞑った。
「大丈夫か」
前を向いたまま尋ねる声は穏やかだ。いつもの良介だ、と思った。
「だから怪我はないって。そんなに柔じゃない・・・」
薄ら笑いを浮かべる美砂に、良介はばん、とハンドルを叩いた。
「・・・笑うな」
低い声に美砂ははっとして身を硬くした。
「いつも、いつも、いつも!ずっとそんな顔だ・・・見てらんねえよ!」
吐き捨てるように言うと良介は美砂に向き直った。見透かすような強い視線が身体を射貫いた。
「・・・周平だろ」
胸が激しい音をたてて軋んだ。なぜ。
「しかもわかってるよな、奴が誰を好きか」
その言葉に長い間留めていた堰が切れた。ぐっと感情が噴き上がり、美砂の目からばたばたと大粒の涙が零れおちた。音もなく後から後から頬を伝ってゆく。良介はポケットからごそごそと大きめなタオルハンカチを引っ張り出すと美砂に手渡した。
「なんで知らないふりしてくれないの!」
ハンカチに顔を埋めた。
「してたさ。だけど」
唇を悔しそうに噛んだ。
「・・・誰かが止めなきゃ、ずっと、美砂はこのままだ」
良介の声に力がこもる。顔を上げると彼も泣きそうな目をしていた。良介の右目の脇には小さな笹の葉型の傷跡があり、目を細めるとそれが歪んで皺に隠れて見えなくなる。美砂は大きな声を上げて泣き崩れた。そっと美砂の頭のてっぺんに無骨で大きな手が置かれる。良介は子供にするようにゆっくり大きく頭を撫でてくれた。
「話を聞くって言ったところで、どうせ俺なんかに話してくれないから、黙ってた。だけど見てりゃ分かる、ずっと苦しんでるのは」
あたたかい手が憑き物をはらうように美砂の髪を滑ってゆく。
「気の利いたことも言えねえし、」
良介の言葉が慈雨のように降り注ぐ。
「俺にできるのは・・・見てるだけだ」
顔をあげると良介は静かに美砂を見つめていた。教会のステンドグラスから零れる光みたいに、深く包み込む厳かな眼差しが降りてくる。知らなかった、なんて綺麗な目をしてるんだろう。彼の前で美砂は懺悔する子どものようだった。嘘は、つけない。
「泣くな」
だったら、泣かせる言葉を吐かないで。美砂は頭の中で呟いたが言葉にならなかった。




