彼女は、物じゃない。
パーティーの途中、イグニレウス達が持っている携帯に、一つメールを受信された。
イグニレウス達は周囲の人間に見られないように携帯を開け、メールを開いた。
メールにはシンプルに一言、こう書かれていた。
『アイネスが人間に攫われた』
そのメールに書かれていた内容に彼らは思わず驚愕の声を上げそうになった。
慌てて口を抑えて声を飲み込み、サバトラはすぐに横にいたテオドールに軽く事情を説明し、何処か人のない客室を借りられないかと頼んだ。
聞かされた事情に驚きつつも、テオドールはイグニレウス達と、サバトラの横で事情を聞いて目が吹っ飛びそうな程愕然としサバトラに問い詰めようとしたソーマ達3人を連れ、ひとまず誘拐現場へと向かった。
メールで伝えられた場所へ来てみると、そこにいたのは耳と尻尾を下ろして暗い表情を浮かべている無傷のジャスパーただ一人。
アイネスの姿は、何処にもない。
イグニレウスはジャスパーの首根っこを掴んですぐにでも問い詰めようとしたが、マリアがそれを制止した。
「ひとまず場所を移して話を聞こう」とテオドールが提案し、彼らは使われていない談話室へと移動した。
テオドール、イグニレウス達魔物達、アイネスの異世界転移者仲間であるソーマ達が談話室へ入り、改めてジャスパーに詳しい事情説明を要求した。
ジャスパーは静かに彼らに説明した。
パーティー会場へ戻る途中、一体何があったかを。
イグニレウス達はジャスパーの話を、黙って聞いていた。
冷静を保っている訳でも、問題ないと思っている訳でもない。
むしろ、怒っていた。
アイネスを拐かした人間の愚行を。
アイネスが攫われるのを許してしまったジャスパーの無力さを。
アイネスが危機に遭ったというのに、呑気にパーティーを楽しんでいた自分達の不甲斐なさを。
……危険だと悟りつつも、ジャスパーを見捨てて一人で逃げる事を選択しなかったアイネスの甘さを。
イグニレウス達は、怒っていた。
ジャスパーの事情説明が終わると、部屋の中が沈黙に包まれた。
暫く静寂が続いた後、イグニレウスが深いため息をついて、口を開いた。
「ジャスパーよ、一つ聞きたい事がある」
「なんだ」
「その経緯だと、貴様はアイネスを攫った者に刺されたそうだが、貴様からは血の匂いも、怪我の痕跡もあるようには見えない。その理由を言え」
“答えなければ容赦しない”
そんな言葉を暗喩し、イグニレウスは殺気立った目をジャスパーに向けた。
ジャスパーはそっと目を閉じ、息を吸い、そして目を開けてイグニレウスに言った。
「……刺されたのが、俺の“分身”だったからだ」
「分身!?」
「ジャスパーくん、いつから分身と入れ替わってたの?」
「……パーティーが始まる前。アンタ達と会場へ向かう前にはもう分身と入れ替わっていた。俺は、別の場所で外の空気を吸っていた。パーティー会場の様子は分身を通して見てはいたが、な」
パーティーへ向かう直前、ジャスパーは自身の持つスキル、<分身>を使った。
理由は単純。自分の代わりに分身をパーティーに参加させるためだ。
人間嫌いなジャスパーは、人間たちの集まるパーティーに参加する気持ちは微塵もなかった。
だが、イグニレウスやマリアにパーティーには全員参加するのだと言われている以上、自分だけ欠席という訳にはいかない。
アイネスに言えば許してくれるかもしれないが、昔馴染み二人が無理矢理パーティーへ引きずって行くだろうと分かっていた。
だから、ジャスパーは分身と入れ替わった。
分身一体程度だったらその場にいなくても自分と感覚を共有出来るし、本物のように会話や行動をさせることが出来る。
流石に分身を通して気配を感知することは難しいが、本物の代わりにパーティーへ参加するだけであれば問題なかった。
そうして入れ替わった結果、アイネスが攫われた。
近くの部屋に偽の執事の仲間がいた事に気づけず、アイネスは防御する間もなく魔法で意識を奪われた。
そしてそれに気を取られたジャスパーの分身は偽の執事に背中を刺されたことで、スキルが解除された。
慌ててジャスパーが分身とアイネスが襲われた場所に行ってみたが、到着した頃には既に遅かった。
執事を装った不審者の男も、男の仲間も、アイネスも何処にもいなかったのだった。
ジャスパーの答えを聞き、真っ先に動いたのはイグニレウスでもマリアでも、サバトラでもマサムネでもなく、ライアンだった。
パシィンッ
ライアンは何も言わずにジャスパーに近づくと、ジャスパーの頬を平手打ちした。
ジャスパーはそれを、甘んじて受け、回避しなかった。
談話室に軽い音が響き、そしてまた静かになる。
ライアンはキッとジャスパーを睨みつけると、静かに言った。
「キミの人嫌いも知っているし、キミ達コボルトがどれだけ酷い目に遭ったかも知っている。理解は出来なくても、その事実が本当だということは知っている」
「……」
「だけどそれを理由に、公私混同させるのは駄目だ。アイネスちゃんにぶつけてばかりいるな。突き放してばかりいるな。アイネスちゃんは、キミの不満を発散するための物じゃない。キミはもっと、外に目を向けるべきだ」
「……」
真剣な声で、ジャスパーを厳しい言葉をぶつけるライアン。
ジャスパーはその言葉に何も言えず、顔を俯かせた。
そんなジャスパーにはぁ、と息を付きながら、サバトラが口を開いた。
「今回の事は、みゃーら全員の失敗だにゃあ。誰か一匹が悪い訳でも、誰か一匹が悪くない訳でもにゃいにゃあ」
「そうだな。ジャスパーは分身ではなく本体だったらその不審者たちにいち早く気づけていたかもしれねぇし、サバトラもジャスパーと一緒についていけば嬢ちゃんが攫われるのを防げたかもしれねぇ。オレも嬢ちゃんに目を掛けとくか、嬢ちゃんが攫われる可能性があったことをイグニの旦那やマリアの姉ちゃんに伝えておけば良かった」
「でも、そんにゃのもう過ぎてしまった事にゃあ。アイネスも言ってたにゃあ。『そういう事態に発展すれば、後から悔いて『後悔』じゃ済まされにゃい』ってにゃ。今更責任云々を押し付けあっても意味がにゃいにゃ。今は、その事態をどうにかすんにょが大事にゃあよ」
優しく諭すようにイグニレウス達に告げるサバトラと、サバトラの言葉に付け足しをするマサムネ。
2体の言葉にイグニレウス達は反論をしなかった。
自分の選んだ行動の結果が今の事態を引き起こした事を、他でもない彼らが分かっていたからだ。
再び静寂に包まれる中、イグニレウスは談話室を出ようとした。
扉に手を掛けるイグニレウスに、マサムネが声を掛ける。
「おいおい、イグニの旦那。何処に行くつもりだ?」
「決まっているだろう。アイネスを助けに向かう」
「あたしもついていくよ」
イグニレウスの言葉に賛同し、マリアも共についていこうとする。
二人の瞳には、怒りの感情が見えていた。
そんな二人をおっかないなと思いながらも、マサムネはため息をついて言った。
「おいおい、嬢ちゃんが何処にいるかも分からないのにどうやって助けに行くんだよ」
「そんなもの、国中をくまなく探せば良い話だ」
「横から口出ししてしまって申し訳ない。だが言わせてくれ。イグニレウス殿とマリア嬢はパーティーに留まるべきだ」
「はぁ、なんで!?」
イグニレウス達のやり取りを静かに傍観していたテオドールからの言葉にマリアは食って掛かる。
リリスとエンシェントドラゴン、その2体から物凄い圧を受けるが、テオドールは冷静にイグニレウスとマリアに言った。
「貴方達二人は目立ちすぎる。こうして一時的に離れるだけなら大丈夫だが、国中を探してアイネス嬢を探しに行くとなるとかなりの時間を要するはずだ。あまり長くパーティー会場を離れていれば、他の招待客が疑問に思うだろう。そうなればアイネス嬢が攫われた事も露見するだろうし、酷い時はケネーシア王国と魔物が結託して何か目論んでいるのではないかと考える者も出るかもしれない。」
「俺様達にこの国の事情を気にしろ、と言うつもりか?」
イグニレウスは更に威圧を強め、テオドールを睨む。
今にもテオドールの首を刈り取ってしまいそうなぐらいだ。
その威圧に身体が押しつぶされそうになりながらも、テオドールは毅然とした態度でイグニレウスに言った
「理由はもう一つある。それはアイネス嬢の身の安全を守るためだ」
「!!」
「アイネス嬢を見つけたとして、貴方達はそのまま暴れないと約束出来るのかい?」
「出来るよ! そんな事!」
「アイネス嬢に誘拐犯が手を掛けようとしているのを間近でみても、かい?」
「うっ……!」
「仮に堪えられなかったとして、貴方達はどうするつもりかい? まさかアイネス嬢の目の前で本来の姿である魔物としての正体を晒し、アイネス嬢の前で人を惨殺する姿を見せつけるつもりかい? そんなことをすれば普通の人間はトラウマを植え付けられる事になるだろうね。それに、その怒り心頭の状態でアイネス嬢一人だけを避けてその犯人のいる場所を壊滅に追い詰めることが、貴方達には出来るのか?」
テオドールの言葉を聞いて、二人は想像した。
アイネスを助けに駆けつけた時、アイネスが酷い目に遭っていたらその怒りを抑え込む事が出来るだろうか?
アイネスに酷い目を遭わせた人間たちを、その場で殺さないことが出来るのか?
そうして考えた結果2体の魔物の頭の中で思い浮かんだのは、アイネスと共に笑顔でいる光景などではなかった。
焼け野原と化したケネーシア王国で、崩れた建物の下敷きにされて倒れているアイネスと、そんなアイネスの姿を見て絶望しながら姿を消す自分たちの姿だった。
そんな想像をした事にマリアとイグニレウスは身震いし、口を閉ざした。
自身の強大な力が、アイネスを救助に向かう枷となってしまうなんて想像しなかった。
テオドールが制止せず、このままアイネスを探して救助に迎えば、テオドールの言葉通りの未来になりかねなかった。
自身に突きつけられた枷にグッと苦しげな表情を浮かべるマリアとイグニレウスを横目に、マサムネは言った。
「王太子さんよ、だったらオレらが動くのはどうだ?」
「え……?」
「確かにイグニの旦那達じゃあ色々目立ちすぎるし、嬢ちゃんを無傷で助けに行くのは難しい。だが、ウィッチやコボルト、ドワーフやケット・アドマー程度の魔物だったら大丈夫だろ」
「みゃーらは亜人・人間を装ってたから二人ほど目立ってはなかったし、二人ほど力が強くにゃいから加減も上手いにゃあ。みゃ、そこの3人にもちょっと手伝ってもらうことににゃるだろうけどにゃあ」
「ウチら?」
突然話を振られ、目をきょとんとさせるソーマとアヤカ。
サバトラはクスクスと笑いながら、3人に言った。
「表向きは国家問題ににゃらんかったとはいえ、真偽を確かめずに王女の開催するお茶会を台無しにしかけたのはケネーシア王国側の印象はかにゃり悪いにゃ。みゃーらを手伝って誘拐犯とっ捕まえて国王に突き出すことが出来たら挽回出来る良いチャンスだにゃ。」
「オレらも、人間の誰かが付いててくれればオレらの行動が正当だっていう証人が出来るから都合が良いしな」
「王家からも直接依頼をだそう。報酬は勿論出させてもらう。協力してくれるかな?」
サバトラ、マサムネ、テオドールの言葉を聞いたソーマ達はきょとんとした表情で顔を見合わせた。
そしてイグニレウス達に向き直ると、真剣な表情で彼らに言った。
「依頼も何も、ウチらもこもり子ちゃんの事は助けに行くつもりだったし! つーか頼まれなくても勝手にそうさせてもらうつもりだし!」
「勿論、協力させてもらいます。報酬は要りません。精々、身を粉にして頑張らせてもらいますよ」
大きく頷いてアイネス救助の協力を承諾するソーマとアヤカ。
小森瞳子非公式ファンクラブ、略してKHFの会長副会長の二人に、アイネス救助を断る選択はなかった。
むしろ、合法的にケネーシア王国で探し回れるのは都合が良かった。
アイネスと同じ異世界転移者で、冒険者であるソーマ達の協力を得たイグニレウス達は、改めて議論を始める。
「さて、一番の問題は嬢ちゃんの居場所をどう探すか、だな。闇雲に探してちゃその分時間が掛かっちまう」
「王宮に偽の執事を連れ込めるだけの力を持つ黒幕だったら、相応の力を持つ権力者だということだろうね。ただ捕まえただけでは駄目だ。どうにか誘拐犯とつながっている証拠も欲しいところだ」
「あと、誘拐犯達の組織もぶっ潰しちゃおうよ! そんな組織があったら今後ケネーシア王国に来ても安心して出歩けないし!」
「問題は山積みみたいだね……。一体どうしようか……」
頭を抱え、悩み始めるイグニレウス達。
アイネスがこの場にいればどういった行動を取るのが先決かをテオドールと話し合えただろうが、そのアイネスがいないのだからどうしようもない。
テオドールも色々指示を出せるだろうが、イグニレウス達の能力を把握しきれてないから最適な割り振りをするのが難しい。
どうしようか、と考えている間にも時間は過ぎていく。
その時、今まで黙ってアイネスから貰ったスマホを黙々と弄っていたカナタが軽快な声を上げた。
「あ、こもりん無事だって~♪」
「はぁ!? なんでそんな事が分かるのよ!」
「カナタ、君の性格は昔から知っているけど、今は冗談を言っている場合じゃないんだ」
「一体どうやってアイネスちゃんとコンタクト取ったっていうのさ!」
ヘラヘラと笑みを浮かべてアイネスの無事を伝えるカナタに、苛立たしげに責める。
当然だ、今もなお安否が分からないというのにそんな事を軽くそんな風に言われれば腹も立つ。
すると、カナタは手に持っていたスマホの画面を見せて、親指を立てた。
「こもりんにメッセアプリで聞いたら返信来た☆」
「「「「はぁぁぁ!?」」」」
カナタの見せるスマホには、確かにアイネスとのやり取りが表示されている。
さらにアイネスの方からは、今後やってほしいことを事細かにメッセージが送られている。
あっけなくアイネスの安否を知ることが出来てしまったイグニレウス達は、思わず素っ頓狂な声を上げてその場で盛大にずっこけたのだった。
##### #####
「『じゃ、後はよろしくおねがいしますね』……送信、と。いやぁ、困りました。実に困りました」
『告。とても困っているようには見えません』
「何を言っているんですか。縄で手を縛られて麻袋に入れられて、果てには馬車で何処かに運ばれているこの状態が『困った』と言わずして何なのでしょう?」
『回答。最大のピンチでしょう』
「上手いですね、座布団一枚」
まるでマイホームの中で談笑しているようなノリで<オペレーター>と会話をしながら、アイネスはスマホの画面にメッセージを打ち込む。
その表情はいつもの無表情で、傍から見ても全く困っている様子ではない。
魔法で意識を奪われ、そのまま誘拐犯達に運ばれたアイネスだったが、馬車で移動している途中、腰ポケットの中で震えるスマホの振動で目を覚ました。
気がつけば手を縛られ、麻袋の中にいたのだからアイネスは当然驚いた。
それでもなお震えるスマホに気づき、<隠蔽>で自分の身体を認識させないようにしてから身体を捩らせてスマホを開いてみれば、そこにはカナタからの鬼のようなメッセージ通知があった。
『こっもり~ん♪』
『ダイジョブー?』
『今コッチシリアスってる感じ~!』
『目ぇ覚めたら返事よろ~☆彡』
そんな感じのメッセージが、大量に送信されていた。
ジャスパーから事情説明を受けている途中で、カナタはスマホを手に取りアイネスにメッセージを送ったのだ。
『取り敢えずメッセで連絡取れれば安否も確認できるだろう』
そんなシンプルで、羽のように軽い発想で動いたのだった。
だが今回は、その考えが功を制した。
アイネスは目を覚ましてアプリを開くと、すぐにカナタのメッセージに返信し、今の状況を説明した。
その場にイグニレウス達もいると聞いたアイネスは、そのメッセージに今回の誘拐の黒幕と思われる人間と自分が得た情報を基にして考えた推測、それに今後どうするかのイグニ達への指示も送った。
麻袋から光が漏れないか心配していたが、<隠蔽>の効果もあって袋の外で下品に笑う誘拐犯達にアイネスがスマホを弄っていることは悟られていなかった。
「手首を縛るロープは外せませんし、<隠蔽>を使っても本当に居なくなっている訳ではないから麻袋の中を出れば膨らみでバレてしまいますし、猛スピードで走る馬車を飛び降りたら大怪我しますし……本当どうしましょうかね?」
『回答。麻袋ごと<隠蔽>を掛け、誘拐犯達が馬車を停止した隙を狙い逃亡を図るのはどうでしょうか?』
「仮にそれが成功したとしても麻袋の中から出られる訳じゃないですし、到着まで気づかれなかったら戻るのが難しいですよ」
『再回答。渡りの魔鏡を取り出し、自身の魔物を召喚するのは?』
「私のMPじゃあベリアルさんやフォレスさん達を召喚したら倒れますし、それ以外の皆さんを召喚したら数で負けてしまう可能性があるでしょうね。あとは麻袋の中で召喚したら、その魔物と密着状態になってしまいそうです。恋愛アレルギーの拒絶っぷりをなめないでください」
<オペレーター>とこの場を切り抜ける方法を話し合いながら、アイネスは外の様子に意識を向ける。
「*********!」
「*************」
「***************?」
「************!」
<オペレーター>の通訳は時間制限があるので、使用可能時間を温存するために一度通訳作業を切っているため彼らが何を言っているのかは分からない。
麻袋の中にいるので外の光景も分からない。
しかし、馬車の動きや彼らの会話の一部一部は分かった。
この世界の馬車は振動が激しいので、外が見えなくてもどこをどう曲がったのかは察知出来るし、タンザの教えによって分かるようになった単語を彼らの会話に当てはめ、いくつか情報を手に入れることが出来た。
それらの情報を、スマホのメッセージアプリを使ってイグニレウス達に伝える。
アイネスはそっとため息をついた。
「いやもう、なんなんでしょうね? 今回の騒ぎって色々な策略が入り混じり過ぎじゃないですか? ミステリー小説なら編集長から怒られますよ。これだから外は好きじゃないんです」
『回答。幼少時からこういった騒動に巻き込まれることが多いようですね』
「そうですよ。小学校で学級裁判が始まるわ、電車の中で痴漢冤罪に遭遇するわ、クラスメイトの親の浮気の瞬間を見てしまうわ、中学の文化祭が大失敗しそうになるわ、散々なんですよ。いつか、幼馴染と遊園地に行った時に黒尽くめの男達の取引現場に遭遇するんじゃないかって思った事もあるくらいです」
アイネスは遠い目をしながらしみじみと言った。
<オペレーター>はアイネスの言葉に返答しない。
馬車が真っ直ぐと進んでいるのを感じながら、アイネスはスマホをポケットに戻した。
「さて。そろそろ、本格的に逃亡しなきゃですね。ひとまずは<オペレーター>さんが最初に出した案である、逃亡偽装を試してみようかな……」
アイネスはそう言って<隠蔽>を麻袋全体に掛け直し、足を振り上げて馬車を蹴ろうとした。
その時、馬車が大きく揺れた。
「えっ……ぐえっ!」
何事かと驚く間もなく、アイネスは一瞬の浮遊感を感じ、そして下に叩きつけられた。
アイネスは軽く背中を打ち、潰れた蛙のような声を上げた。
乱暴な馬車さばきに対し、アイネスは誘拐犯に文句を言おうと口を開こうとした。
ブンッ、ブォンッ
「**************!!!」
「*”***********!!!」
次の瞬間、何かを振り回すような鈍い音と共に、何かを破壊するような音と誘拐犯達の悲鳴が響き渡った。
麻袋の中にいるアイネスには、一体何が起きているかを確認できない。
男たちの悲鳴は斬撃音が聞こえてくる度、段々と小さくなっていく。
次第にその声は消えゆくようにか細くなっていき、ついには何も聞こえなくなった。
しかし、斬撃音はまだ鳴り響く。
「い、一体なにが起きてるんですか……」
『告。麻袋を縛る縄が緩んでいます。今なら脱出可能です』
「え? あ、本当ですね。うんしょ……っと」
<オペレーター>の言葉を聞いて、アイネスは麻袋の口部分を触れてみると、縛られた手でも麻袋の口が開いた。
アイネスは身体を捩って、なんとか麻袋を出る。
そして嫌な予感を抱きながらも顔を上げてみると、そこに広がっていた惨状に目を見張った。
粉々に砕けた馬車。
道のあちこちに飛び散る大量の血痕。
その奥では誰かが大きな斧を振り上げ、何かを痛めつけている。
グチャッ、グチャッ、と何か濡れた物を弄ぶような不気味な音で何をしているかを察したアイネスは目を逸らした。
しかし、アイネスは見てしまった。
見えてしまった。
不幸なことに、真っ暗な麻袋の中で暗闇に慣れてしまったその目で捉えた物に、アイネスは言葉を失った。
赤黒い血に塗れた、男達。
大量の血を浴びながら、笑顔で斧を振り下ろす者。
先程執事のフリをしていた男の顔がアイネスの方を向いていた。
その顔は絶望と驚愕の表情で固まっていて、動き出す様子はない。
彼らはもう、死んでいる。
アイネスは確信した。
何故なら、アイネスには見えてしまったのだ。
男の首の下が何処にもないことを。
彼らは斧を持ったフードの者に殺された。
アイネスは悟った。
何故なら、アイネスには気づいてしまったのだ。
男の直ぐ側に斧を持ったフードの者がいることを。
男の首から下の部分は、もう誰にも認識出来ないだろう。
アイネスは確証を得た。
何故なら、何故なら、何故なら……
アイネスは、見えてしまった。
フードの男が斧を振り下ろしている場所には、ミンチのようになった肉塊が転がっていたのを。
あの中に、偽執事の身体も混ざっているのだろう。
ああなってしまえば、もうどれが誰の身体のものかなんて、判別がつかない。
「うっ、おぇえ……!!」
その惨状に、アイネスはその場で嘔吐した。
パーティーで食べた料理達が胃の中から溢れ出す。
(ドレスに吐瀉物が付いてしまう。ご飯が勿体ない)
なんて事をこんな状況でも冷静な自分がアイネスに訴えていたが、とても堪えられなかった。
こんな惨劇は、アイネスは映画の中でしか見たことなかったから。
精神的にキツイ光景をその目で捉えてしまったアイネスは、思わず自分に掛けていた<隠蔽>を解いてしまった。
アイネスの姿が、存在が、認識出来るようになる。
すると、アイネスの気配に気がついたフードの者がピタリと手を止めた。
そして、ゆっくりとアイネスの方を向いて、頭に被っていたフードを外した。
アイネスは呼吸を乱しながらも、そちらを見やった。
フードの中身の正体は、男性だった。
白い髪と犬耳が特徴的な彼は、アイネスの姿をその瞳に確かに捉え、そして笑みを浮かべたのだった。




