シンクロしてみる5
その魔獣は、これまで見たどの魔獣よりも醜悪な魔獣だった――。
通常の魔獣といえば軍で使用している騎獣のおよそ一.五倍から二倍の大きさがあるものだが、その魔獣はその更に倍はあろうかという体躯をしていた。
黒い毛は腐臭を放ちつつ長く地に向かう。ところどころ毛が抜け落ちて地肌が見える箇所はすべからく腐り爛れ、悪臭を放っていた。
四肢は血と泥でどす黒く汚れ、一歩進むごとに地面に生えた草がジュッっと音を立てる。兵が放った矢はその魔獣の肉に突き刺さるも即座に腐って根元から折れて散らばった。
「毒の魔獣か……」
「おそらくあいつが親玉だ」
「弓矢であれだ。剣だってもって数発が良いところだろうな。どうしろってんだ。こっちには炎を扱える魔導師なんていないんだぞ」
民兵たちは怖気づいて踏み出す足を後退させた。
毒を巻き散らす魔獣相手に接近戦は危険すぎる。
定番の戦略は兵が遠方から槍や投擲で動きを封じ、魔導師が炎の術を使って骨まで燃やし尽くすというものとなる。
だがこの部隊に魔道師はひとりも付けられていない。もっぱら肉弾戦を主として形成されているのだ。あれを相手にしては部隊の半壊どころでは済まないだろう。
かといって見つけたものを放置するわけにもいかない。あれを逃がせば甚大な被害が生じることは民兵ですら分かる事実だった。
「乙女が現れたっていうのに、これかよ……」
「今のやつは加護付きじゃないって王都では噂になってるらしいぜ」
「なんてことだ。でもあれを倒しておかないと村への被害がとんでもないことになるぞ」
「あぁ、そういやお前の村はこの近くだったな――」
たとえ最強の力を誇るドラゴンだってあれには苦戦するだろう。誰もがそう思い、魔導師の増援を得るべく上官に指示を仰ごうとしたときだった。
白銀の翼を広げてカーマインが魔獣へと飛び掛った。
尻尾を振り回して魔獣の巨体を地に伏せ、鋭い爪で肉を絶つ。魔獣は唸り声を上げながら黒い血をそこら中に撒き散らした。
飛び散った血がカーマインの治りきっていない肌に付いて肉を焼く。ジュッと焼け爛れる肉の匂いに、前方にいた兵たちが口元を覆った。それにも構わず、カーマインは魔獣の身を削り続けた。
カーマインは一刻も早くアーヤの元へと帰りたかった。
最近、どうもおかしいのだ。
日を追うごとに焦燥が胸を焦がして仕方がない。
アーヤは笑っているのに、肉体も健康そのもので暮らしにも困った様子は見られないのに。早く戻ってやらなければと気持ちが逸って落ち着かなくなるのだ。
これを倒せば北端の山脈での魔獣の活動は終息するはずだ。中心となる強い魔獣を倒してしまえば、あとは雑魚ばかり。兵たちを残しても文句は言ってこないだろう。
もういい。もう飽きた。これで終わりにする。早くアーヤの元へ――。アーヤ。アーヤ。……アーヤ――。
毒の血が肌を焼いて燃えるような痛みが走る。魔獣から落ちた血が草を焼いて立ち上る煙にさえも毒が混じって肺を焼く。
苦しい。腕を振り上げることをこんなにも苦痛に思う。己の尾なのにとてつもなく重たく感じる。体中の骨という骨が軋みをあげる。
――だが、アーヤはもっと苦しいはずだ。
ふと、浮かび上がった感情にカーマインは動きを止めた。
何故そのようなことを思うのか。アーヤは平穏な地で守られているというのに。微笑みを浮かべるその頬に、己のように不浄の血は付着してなどいないのに。
まばたきをするほどのつかの間の空虚。だがその隙間を見逃すことなく、地に伏していた魔獣は反撃に出た。
ねっとりとした涎を垂らす牙が喉元に喰らいつきにかかる様子が、断続的な映像としてカーマインの瞳に映る。
そのとき、風が二匹の間に舞い降りてきた。
ザンッという重い音が通り過ぎ、カーマインの喉元に狙いを定めていた牙をその頭ごと地面に落とす。
自身の毒でただれて崩れていく頭部。その前にある影がにわかに立ち上がった。
それは風ではなかった。
一瞬で舞い降りてきたのは、ひとりの青年だった。
辺りに満ちていた毒の霧を振り払うように彼はマントをなびかせてカーマインの方を振り向いた。
頭部を布で巻きつけ、旅装束に身を包んでいる。口元は毒を吸い込まないようにするためか頭部に巻いたものと同じ布で覆われていた。彼の身に着けるどれもが旅の汚れが染み付いて、ところどころ擦り切れているのが見えた。
貧相な身なりと言ってしまえばそれまでだが、頭部に巻いた布から零れ落ちる髪は金の光を放ち、紫の瞳は澄んだ理性を感じさせた。
全体的に品のある容姿。それだけでも目を惹くような青年だったが、それよりも目を惹くのは、その背後に見える九つの尻尾だった。一本一本の尾の先まで一部の隙もなくふっくらとした毛で覆われている。黄金色の毛はまるで内側から光を放っているかのようだった。
「あーあ、せっかく気に入っていた太刀だったのに一発でおじゃんだ」
青年は案外ぞんざいな言葉遣いで魔獣の頭部を切断した太刀を持ち上げて肩をすくめる。
気に入っていたと呟いたばかりだというのにその太刀を放り投げて地面に転がす。投げ捨てられた太刀のことなどもう微塵も惜しいとは感じていない様子だった。
青年は顔を上げ、その澄んだ瞳にカーマインを映して笑った。
「やあ、狂気のドラゴンさん。俺はジンライ。こう見えて超絶美男子の旅の傭兵だ」
「お前、何者だ」
ぜーはーと息をする。吸い込んだ毒が内部から身を焼いているのだろう。痛みを押し込め、カーマインは警戒を解くことなく青年に尋ねた。
――背後に気をつけろよ。
脳裏にいつかのラージュの言葉が思い出された。
「おや、意外と正気は残っているのか。戦っている間中、アーヤ、アーヤと叫んでいたから気が振れてしまったのだとばかり思っていたが」
いやぁ、愛だねぇと青年は腕を組んで頷いた。
身分のある人物のように見えたが、彼はそれを明かすことはなかった。カーマインも見ず知らずの相手の立場など特に興味はなかったので、あえて聞き出そうとすることもしなかった。
青年はふわふわとした尻尾を自在に揺らして佇む。誰よりも立派な尻尾のひとつを掴んで「毒のせいでちょっと荒れたかなぁ」と零す姿は、およそ戦場に似つかわしくないものだった。
「親父殿にはあんたを始末するように言付かっていたんだがな――」
なんてことはない世間話をするように青年は目元を和らげて言った。掴んでいた尻尾のひとつは手を離され、再び残りの八本の中に混ざりこんで分からなくなった。
数秒送れて言葉の意味を受け取り、カーマインは翼を広げて威嚇の姿勢を取った。爽やかな笑みに紛れたごくわずかな殺気に、これまでの魔獣との戦闘で身に付いた警戒が頭をもたげたのだ。
「まあ、そう威嚇してくれるな。もうそんなつもりはないから」
ほら、魔獣から助けてやっただろ。と青年は肩をすくめて戦う意志のないことを現した。
「殺すつもりがあったら助けに入ったりなんてしない。あのまま弱っていくのを見ていれば良かったのだから」
気になるなら武器の類は全部捨ててやる。そう言って青年は旅装束の中から小刀やナイフを落とした。
投げ捨てられる武器はひとつや二つどころではなかった。後から後から落ちてくる武器に、後ろで彼らの様子を見ていた兵たちは驚くやら呆れるやらといった視線を投げかける。
ブーツの隙間に仕込んだナイフ。護身用としてそういうものもあるのは分かる。だが、踵の裏から針まで出てきては「あいつは暗殺者か何かか」という感想が聞こえてきても仕方のないことだった。
「あんたのアレを見て他者は何と呼ぶだろうね」
脱いだブーツをひっくり返して小石を落とすようにポロポロと針を落としながら青年が言う。
「毒に侵され身を削られ、命の瀬戸際で戦いながらも想う女の名前を呼び続ける――。それを見て何と名付けるべきか。『純愛』? それとも『狂愛』? まぁ、どちらでも構わないが」
ようやく何も落ちてこなくなったのを確認して青年がブーツに足を突っ込む。トントンと二、三度つま先で地面を蹴ったら「うん、これで大丈夫かな」と誰も聞いていないのにひとりで頷いてみせた。
「とにかく俺はあんたの心が気に入った。だからあんたを始末することはしないでおくことにする。親父殿の世迷いごとに付き合うのももう飽きてきた頃だしな。すでに世界から風は失われてしまった。甚大な影響が出てくるのもそう遠いことでもないだろう」
つくづく青年は事情を説明するということをはぶくつもりのようだった。どうせ言っても分からないだろうという態度よりは、彼の中で完結させた内容が口を突いて出てきているという様子だった。
「なあ、愛を叫んで狂う者よりも愚者であることから抜け出せない者こそ始末されるべきだと思わないか。俺の知っている愚者に努力することが好きなのがいるんだがな、まあそれがもう目も当てられないくらい無駄な方向へ力を向けてくれるんだ、これが。本当に阿呆かと叫びたくなるくらいなのだけど……。ああ、努力することが愚かだとは思わない。成果を得るために努めることは褒められるべき美徳だ」
誰が否定しようとその無駄なあがきをしようとする愚かさを俺は否定しないよ、と青年は遠くを見つめる目で言った。
「だが、その場で足踏みをし続けるしかないような、一歩も進むことのできないような努力しかできない愚者は所詮愚者でしかないんだよ。哀しいことに、愚者には意味のある声は届かないし愚者であるからこそその思考も支離滅裂で愚かしい」
これだから困るという風にやれやれと首を振る。
青年がカーマインを何に付き合わせたいのか分からない。
「演説がしたいのならば、どこか別のところへ行ってやれ。こちらに付き合ってやる道理はない」
青年にカーマインを傷つける意志がないのならば、これ以上ここに残る意味はないだろう。思ってカーマインは翼をはためかそうとした。
「あぁ、行ってしまう前にちょっと待ってくれ」
引き止める声に翼を止める。
他者に滅多に興味を引かれることのないカーマインだったが、ジンライと名乗るこの青年には少しだけ興味をそそられた。
青年がただの好青年だったならこうも感じなかっただろう。内面から滲み出る何かがカーマインを惹きつけた。
このような時期、このような場所、そしてアーヤという存在がなければ求められるまま彼の話に彼が満足するまで耳を傾けたかもしれない。そう思うくらいには他者に関心の薄いカーマインを惹きつけるものを持っている青年だった。
青年は両の手をカーマインに当てて何事かを呟いた。
おそらく浄化の魔法なのだろう。じんわりとした心地よい温もりが体内を巡っていく。乱れていた呼吸が整っていくのが感じられた。
「毒の気を散らした。それと少し回復も。魔法は得意ではないが応急処置くらいの術は心得ているんだ」
向き合うカーマインの心臓の辺りに手が置かれる。当てられる手から魔力が漂ってくるのが分かった。 弱った心臓が活性化されたのだろう。力強い脈動が血の巡りを送り始める。
魔法は得意ではないと言ったが、これは応急処置の段階を超えているだろう。彼の言う得意というのが一般に当てはまらないことだけは理解できた。
「まぁ、これで王都までは持つだろう。後はじっくり休養する時間さえ取れればドラゴンなら数日で全快できるはずだ」
カーマインは翼を動かした。
いつの間にか翼に開いていた穴もほとんど塞がっている。どこが少しの回復か。ジンライの持つ魔力量は魔導師であるラージュと比べても遜色ないのではないだろうか。
この場にラージュがいれば面白かっただろうな、とカーマインはいつの間にか友を引き合いに出している自分をおかしく感じた。
「ここは俺に任せるといい。こう見えて、ただの超絶美男子の旅の傭兵っていうだけでなく、名を出せば軽く権限を明け渡したくなるくらいには知られた家の出なんだ。心置きなく戻ればいいさ」
返事の変わりに頷いて、カーマインは翼をはためかせて上昇した。
「いずれまた」
思わず出てしまった言葉に再びおかしさを感じて、カーマインは表情の薄いドラゴンの顔で苦笑いを浮かべた。
「いずれまた……か」
去っていく渡り鳥よりもはるかに大きな影を見送りつつ、ジンライは頭部に巻いていた布を取り去った。
布に押し込まれていた髪が光を受けて黄金に輝く。
誰もが恐れるドラゴンを相手に対等に向き合ってみせた青年は、太陽の下まるで地上の太陽であるかのように身の内から光を放っていたと、その場にいた兵たちは後に漏らしたという。
ドラゴンと九尾のキツネの会合は、確かに歴史の転換のひとつだった。
平穏な世ならば築かれたであろう友情は、結ばれることなく出会いを果たし終わりを迎えることとなる――。




