学園脱出
「皆さん、大丈夫ですか?」
荒い息を吐きながら、灰野が尋ねた。
「何とか、ね」
まず答えたのは東原だったが、直後にへたり込む。彼女の場合、精神的疲労の方が強そうだ。
「矢吹氏、早くどいて欲しいッス。重すぎッスよ」
床から、くぐもった声を出したのは鹿島である。彼女は、倒れた矢吹の下敷き状態になっているのだ。それでも、声を聞く限り元気そうである。
矢吹は、慌てて跳ね起きる。
「ご、ごめんよ! お、重くて悪かったな!」
頬を赤らめて叫んだ。重すぎと言われたのが、ちょっと嫌だったらしい。
「だ、大丈夫、ですぅ……」
力ない声で答えたのは高杉だ。彼女もまた、床にへたり込んでいる。その手には、未だ拳銃が握られていた。乱戦になり、撃つきっかけを見いだせなかったが、いつでも撃てるよう握りしめていたのだ。
灰野は、思わず天を仰いだ。
「みんな無事なんですね。良かった。本当に良かった……」
皮肉でも何でもない、心からの言葉だった。灰野は死体となった谷部を見下ろし、改めて今の死闘を振り返った。
反撃のきっかけは高杉だが、その反撃する僅かな隙を作り出したのは、野生児の鹿島である。しかも鹿島は、皆を助けるため窓から奇襲をかけ、谷部の手から拳銃を飛ばす……という離れ技をやってのけたのだ。彼女こそが、この戦いのМVPだろう。
さらに矢吹の空手がダメージを与え、谷部の動きを狂わせる。そこに東原がナイフで切りかかったことにより、灰野がトドメを刺す隙を生み出した。
全員が素人の少女にもかかわらず、やるべき役割を瞬時に判断し完璧に果たした。この四人のうち、誰かひとりでも欠けていたら、確実に敗れていた。
「奇跡だ……」
四人を見回しながら、灰野は思わず呟いた。まるでピタゴラスイッチだ。この四人と組んだら、とんでもないことが出来るのではないか……。
だが、灰野はその考えを振り払う。しょせん、彼女らは違う世界の人間だ。灰野は、痛みをこらえ立ち上がった。
「皆さん、お疲れなのはわかります。しかし、ここに長居は出来ません。まず、外に出ましょう。休むのは、それからです」
その言葉に、彼女らはどうにか立ち上がる。よろよろとした足取りで、部屋を出て行った。
幸いにも、学園内で他の感染者たちに会うことはなかった。灰野は痛みをこらえ、彼女らは疲労困憊しながらも、どうにか歩いていく。
道中こまめに休みながら、一行はようやく小屋へと到着した。その頃には、もう日が沈み空には星が出ていた。
皆、疲れきっていたはずだったが、小屋で休みレーションを食べると、顔色が良くなってきた。これも若さゆえだろう。とはいえ、その表情は固い。学園内で体験した衝撃は、未だ彼女らの心にのしかかっている。
灰野はというと、リュックに入っていた簡易救急セットで、自身の足の傷を手当てしていた。
そこに、矢吹が近づく。
「大丈夫か? あたしに出来ることあるか?」
心配そうに声をかけてきた矢吹に、灰野は笑みを浮かべ答える。
「大丈夫てすよ。掠っただけです」
「そ、そうか……あ、あのさ──」
矢吹が何か言いかけた時、声を発した者がいる。
「灰野、あれってどうなるの?」
聞いてきたのは東原だ。すると、灰野が聞き返す。
「あれ、とは何のことです? 学園ですか? 毒ガスですか?」
「両方」
「おそらくは、全て無かったことにされるでしょうね。学園長の息のかかった連中がやってきて、学園を閉鎖し終了ということになるでしょう。世の中、そんなものですよ」
灰野が、冷めた口調で答えた。と、矢吹が不満そうな顔になる。
「相変わらずスカしてんね。あんたは、何とも思わないの? あの学園で、何人もの人が殺されてんだぞ。なのに、一番悪い奴は罰を受けないのか?」
「この状態では、無理でしょうね。仮に公安が乗り込んできても、学園にいる連中には証言能力がありません。おかしなウイルスが発生し、感染者が続出したため学園は閉鎖……という結末でしょう。地下に麻薬工場があるとも言ってましたが、そちらは見つからない可能性が高いですね。もし、学園内に感染者が侵入しなければ、他のやり方で彼らの犯行を明るみに出せたかも知れないのですが……」
そこで、灰野は笑った。嫌な笑顔だった。こうなったら、笑うしかないんだよ……という心境から出たものだろう。
「極悪人ってのはね、運も強いんですよ。学園の経営者たちは、悪事を糾弾されることなく生きていくんです。まあ、それでも学園閉鎖により多少の痛手は与えられました。それでよし、と思うべきなんでしょうね」
「思えねえよ! 死んでいった奴らのためにも、思っちゃいけねえんだ!」
不意に怒鳴りつけた矢吹。その目には、涙が滲んでいた。悲しいよりも、悔しさから出た涙だろう。
涙を拭うと、彼女は灰野に向け訴える──
「だったら、あの学園で殺されてった人たちはどうなるんだ!? 奴隷にされ売られていった人たちは、誰にも知られず死んでいったんだろ!? なのに、それをやらせたクズどもは、のうのうと生きてるんだろ!? そんなの、おかしすぎるじゃねえか! ひどすぎるじゃねえか! あたしは、あの学園を作った奴らを皆殺しにしてやりたいよ!」
その時、灰野が右手のひらを前に突き出す。まあまあ、というジェスチャーのつもりか。
「ちょっと聞いてください。昔、こんなことを言った人がいました。もし、お前が善人と呼ばれる弱者を救いたいと本気で願うなら、お前が悪人になれ。それも、頂点に立つ極悪人にな。そうやって得た力で、善人を救ってやれ……と」
語る灰野の目は、真っ直ぐ矢吹を見つめていた。口調にも、いつもの嫌味な部分がない。矢吹は、灰野の奥底にあるものを初めて見た気がした。
「あなたが自分の信じる正義を貫き、法律で裁かれない悪人を罰したいと本気で願うなら、あなた自身も極悪人になり、悪人どもを葬っていくしかありません。でも、それはあなたの信じる正義とは違いますよね。それなら、あなたは自分に出来る範囲のことをするしかないんです。あなたはあなたのやり方で、身の周りにいる困っている誰かを救ってあげてください。泣いている誰かを助けてあげてください。それもまた、正義だと思います。これは皮肉でもなんでもありません。今の僕に出来るアドバイスです」
いつもと違う優しい口調で灰野が語り終えた時、鹿島が口を開く。
「あの、悪人の頂点て、どんな奴なんスかね?」
こちらは、いつもと同じくトボけた口調だった。皆の顔に笑みが浮かぶ。灰野も、笑みを浮かべつつ答える。
「さあ、僕にはわかりません。ただ、松山や浜口みたいな連中なんかは、悪人の中でもメダカくらいのレベルでしょうね。谷部ですら、雑魚レベルといったところです。ちなみに、僕は谷部よりさらに下の雑魚レベルです。谷部がAランクの雑魚なら、僕はCかDランクの雑魚です。メダカより少し上の小魚、という程度のものですよ」
「へえ、灰野氏ですらCランク雑魚ッスか。裏社会の海には、怖いのがいっぱい泳いでるんスね。じゃあ、ウルメイワシAランクとか、ヤマクジラBランクなんてのもいるんスか?」
「あのう、ヤマクジラって猪のことですけど……」
高杉がおずおずと口を挟んだ。
「えっ? マジっスか? 僕、ずっと鯨の一種かと思ってたッスよ!」
真顔でそんなことを言う鹿島を見て、東原と高杉は笑った。灰野ですら、笑みを浮かべている。
ただ、矢吹はニコリともしていない。鋭い表情で、床の一点をじっと見つめていた。
だが、突然バッと立ち上がる。
「遅れたけど……みんな! すまなかった!」
そう言うと、頭を下げたのだ。皆は、キョトンとしている。
「矢吹氏、何を言ってるんスか?」
困惑した表情で尋ねた鹿島だったが、矢吹は構わず喋り続ける。
「あたしは、あの谷部の話を信用した。そのせいで、みんなを殺しかけた。あたしが一緒に行くって言わなきゃ、誰も行かなかっただろ。そうすりゃ、灰野もケガしなかったんだ」
そこで、矢吹は灰野の方を向く。
「灰野、あんたは最初から奴のことを見抜いてたんだろ。なのに、バカなあたしが谷部に騙された。結果、みんなが行くことになっちまった。あんたは谷部を嘘つきと見抜いていながら、あたしらのために付いて来てくれた」
言った直後、深く頭を下げた。
「学園でも、あんたにはずっと助けられっぱなしだった。なのに、あたしは恩を返せてねえ……なあ、あたしに出来ることがあるなら言ってくれ! 何でもやるから!」
言った矢吹に、東原が横から口を挟む。
「ヤブっちゃん、そんなこと言ったらヤバいよ。灰野に、体で恩を返せって言われちゃうよ」
冗談めいた口調で言うと、灰野はかぶりを振った。
「言いませんよ」
苦笑しつつ答える。先ほど矢吹が言いかけたのは、この謝罪の言葉だったのだろう。頭を下げたままの彼女に近づき、そっと語りかけた。
「矢吹さん、頭を上げてください。実のところ、谷部を怪しいと思っていたのは確かです。ただ、あいつの言っていることは、あまりにも荒唐無稽なものでした。逆に、こんな話で騙そうとするか? という疑問も出てきました。なので、自分の目で確かめてみたいと思ったのです。つまりは自己責任ですね」
淡々とした口調で語っていた灰野だったが、ここから雰囲気が変わる。
「それに、学園では素晴らしいものを見させていただきました。本当に凄かった……まさに、奇跡としか言いようのないものですね。あれを見たことに比べれば、こんな傷くらい何ともないですよ」
しみじみと語っていた。灰野の偽らざる本音だ。
裏の世界で、いろんな人間と殺し合ってきた。その中でも、谷部は確実に上位の人間だ。しかも、拳銃まで持っていた。灰野ひとりだったら、簡単に殺されていただろう。
あの圧倒的に不利な状況から、素人の女の子四人が逆転の手筋を作り出した。誰かひとりでも足がすくみ動けなくなっていたら、その時点で終わっていただろう。いや、動けないのが普通なのだ。
かつて、刃物を持ったひとりの少年が、数十人を人質にしてバスに立て籠もった事件があった。傍から見れば、全員が一度に飛びかかれば簡単に制圧できると思うだろう。
だが、実際には恐怖のあまり誰ひとり動けなかった。これは、彼らが特別に臆病だったわけではない。一般人の当然の反応なのだ。
ましてや、何の訓練も受けていない十五歳の少女四人が、谷部のような屈強な肉体と本物の拳銃を持ったプロの戦士に立ち向かっていく……こんなことは、起こり得ない話なのだ。
もちろん、運が灰野たちに味方したのは間違いない。しかし、その運を引き寄せたのは、彼女たちの裡に秘められた力ではないだろうか。
その秘められた力を引き出したのは、矢吹の善なる部分なのかもしれない。こんな環境にあってなお、自分の信じる正義を貫き通したいという純粋な思い。
その純粋な思いが、他の少女たちを変えた──
すると、鹿島が首を傾げつつ聞いてくる。
「灰野氏、奇跡ってなんスか? 学園でツチノコでも見たんスか?」
真顔だった。他の者たちも同様に、奇跡って何だ? とでも言いたげな表情を浮かべている。
灰野は、また苦笑した。本当の奇跡というものは、起こした本人たちは気づいていないものなのかもしれない。
「いや、僕にしか見えていなかったのなら、それでいいです」
やがて、一行は眠りに落ちる。疲れていた彼女らは、あっという間に熟睡してしまった……が、それは長く続かなかった。
「おいシゲ! さっさと帰るぞ! どこに隠れてやがるんだ!?」
闇夜に響き渡る騒々しい声に、少女たちは跳ね起きてしまった。何が起きたのかと、キョロキョロする。
一方、灰野は苦笑しつつ説明する。
「迎えが来ましたよ。あれが、僕の知人の吉本剛さんです。こんなに早く来るとは思いませんでした」
数分後、少女らの前に現れたのは、灰野とは完全に真逆のタイプであった。
髪は長めで、身長は百七十センチほど。細身の体にスカジャンを着ており、人相は悪く動きは妙に軽い。繁華街を徘徊する軽薄な遊び人、という雰囲気である。
その吉本は、少女たちを一瞥すると灰野を睨みつけた。
「コラ、お前ひとり運ぶんじゃなかったのか? 五人となると、後で別料金とるぞ」
「もちろんわかってます」
「わかってるならいいよ。実はな、ここにヤバい連中が乗り込んでくるって情報が入った。そんなわけだから、今すぐズラかるぞ」




