保たれたもの 4
俺は仕事を理由にして、彼女が灰になるところを見ることができなかった。
彼女の死だけでも心臓を抉られるような衝撃があったのだ。
見届ける覚悟がなかった。
親族だけで執り行う葬儀がふつうで、誰も責めはしないのに、窓の外に目を向けては言いようのない悲しみに襲われそうになる。
祖父はあの日、最愛の娘をこんな気持ちで送ったのだろうか。亡骸もなく、ただ武骨な石を墓に見立てて、偲んだのだろうか。サジタリスはどうやって、兄に対する気持ちに蹴りをつけたのだろうか。彼女のことだからまだ慕っているかもしれないが、いついかなる時も彼女の泣き叫ぶ様を見ることはなかった。
この五日間は、領主邸で起きた事件と、領主ミドエの死亡による混乱を鎮めるのに手を尽くした。領主邸で起きた事件、例の男を殺したのは恐らく領主だろうが、彼から永遠に聞き出すことができなくなってしまった以上、領主殺害事件と合わせて未解決事件として処理するほかなかった。
領主には十八歳の息子がいて、領主という重荷を背負わせるにはまだ幼く頼りなかった。だが他種排斥論に染まりきってはいないことと、あの小うるさい母親を置いてひとりで警備隊の最本部を訪問してきたことを考えると、まだ希望はあるように感じられた。その日は挨拶とすこしの懇談をして帰ってもらったが、先手を打ってセルペンスを紹介してもいいかもしれない。半分以上型から外れているセルペンスは、領主代行になった領主の息子に、領主としてではなくひととして、良くも悪くもさまざまな影響を与えるだろう。人生の先を行く者として助言をし、ほかの領地を回らせ、公都に行かせてもいいかもしれない。そういった見聞を広めて、それでも父親と同じ道に行くというなら、その時は喜んで敵対しよう。キミシアには小言を言われそうだが。
ミドエに対する憎しみは、悲しみと忙しさに流され、どこか遠くに行ってしまった。俺の持っていた憎しみなど、彼女の死を目の当たりにしたいま、実にちっぽけなものだったということに気がついた。こんなものに十五年も囚われていたとは、馬鹿馬鹿しくて情けない。そういえば里帰りもしなければいけなかった。すっかり忘れていた。どうしよう。
朝、就業時間前に執務室の扉がノックされた。執務机から反射的に返事をする。
「失礼します」
いつも見かけるような、健康的な明るさはまだなかったが、執務室に入ってきたエマは穏やかだった。
「今日はお早いんですね」
嫌味ではなく、事実をそのまま言ったような調子で彼女は話しかけてきた。
「色々と、ありがとうございました。すべて、終わりました」
終わってしまったのか。何もかも。
「悪かったな。俺も、見届けたかったんだが……」
それ以上は言葉にならず、俺は話を変えた。机からすこし離れたところに椅子を置いて、そこに座るよう手で促した。
「それで、あの、わたしの処分はどうなるのでしょうか?」
彼女の今後に響く問題なだけにもうすこし動揺してもいいのだろうが、それ以上のことが起きてしまった彼女は思いの外冷静に訊いてきた。
「処分なら、もうしたじゃないか」
俺がそう言っても心当たりがないのか、エマは首を傾げた。
「減給もしたが、昨日までの五日間の休みがその処分だ。五日間の謹慎処分、受けただろ?」
「……え?」
目をぱちくりとさせて、彼女は目に見えて肩の力が抜けた。
エマの休暇は、書類上では謹慎として処分をしていた。加えて少々の減給をしたが、自宅謹慎とは書いていないので虚偽の記載はしていない。領主邸での彼女の動きは警備隊としての職務を逸脱しており、後日ムティラフも交えて話をした時に事実を言わなかったこともあったので、一応の処分はしなければならなかった。当然ながら恩人であるシャノンとの関係も鑑みてのことだ。
ククラのほうは目撃したことを話さなかっただけなので、処分も軽かった。本人も充分反省しており、何よりエマへの心配で落ち込んでいた。スミスよりも仕事が早いので、彼女に重たい処分を下すと総務課の業務に差し障りが出てしまう。いつも通り仕事をしてくれるのが一番だった。俺が大人しく執務室で仕事をしていることに違和感を覚えてか、スミスはこの五日間何も言ってこなかった。
「え、そ、そんな、あの、それはいくらなんでも……」
「なんだ。もっと酷い処分をされたかったのか?」
「あの、なんていうか、優遇されすぎている気がして……」
それはそうだろう。優遇したのだから。
「万が一、上に報告して何か言われたら、その時はまた別の処分をする。不満はあるだろうが、今日はこれで我慢してくれ」
冗談のように返すと、エマは困ったように眉をひそめた。
「辞めようかと思ってたのか?」
何も包まずに訊くと、彼女はさらに困り、視線を膝の上に置いていた手に向けた。
「悩んでは、います。いますぐ、というわけではないですけど」
無理もない。
「それに、あの、離れを貸してくださっているご主人が、その、あまりいい顔をしなくなってしまって。引っ越し先を見つけないと、ちょっと……」
家を間借りするにもシャノンが口添えをしたとエマは言っていた。彼女が住処を追われるのも時間の問題か。
「すみません、余計なことを言いました」
取り繕うように笑った彼女に、俺はある提案を持ちかけた。
「ミネルバ、行くか?」
「え?」
「エマさえよければ、ミネルバに異動しないか。俺としてはそうしてほしいと思ってるんだけど」
この五日間で考えたことは、主に三つに要約された。
ツカサのこと。
エマの今後のこと。
領主の息子のこと。
ツカサのことはふとした時の感傷で考えるとして、問題はあとのふたつだった。領主の息子のことは、セルペンスという強力な助っ人がいるのであとで考えるにしても、いま目の前にいる彼女のことが喫緊の問題であるように思えた。〈メイト〉であり、妹の死を目の当たりにし、後ろ盾がなくなった。しかしこれからもアレリアで過ごすことには、俺は不安があった。ツカサの姉ということもあり、何かしら手助けをしたい気持ちに駆られた。
「キミが五日間世話になった警備隊の本部があるだろ? そこの隊に異動してもらいたいんだ。あとは、向こうには猫の獣人の隊長がいるんだが、そこの隊でもいい」
それにミネルバのほうが引っ越し先を見つけるのも簡単だろう。
「……すこし、考える時間をもらっていいでしょうか」
「もちろんだ」
エマはゆっくりと立ち上がると会釈し、執務室の扉に向かった。だが扉を開けるとすぐさま短く小さい悲鳴を上げた。怖いものに対してというより、驚いて反射的に出てしまったようだ。どうしたのだろうかと思っていると声がした。
「おや、ロラン嬢。謹慎明け早々、ご機嫌取りですか」
嫌味ったらしい言い回しに、溜め息をついて立ち上がる。閉まりそうになっていた扉を開けて誰がいるのかを確認すると、思っていた通り三白眼のスミスが、焦った様子のエマの前に立ち塞がっていた。
「早いな、スミス。総務課のひとたちはみんな仕事熱心で感心するよ」
さり気なく彼らの間に割って入り笑顔を見せると、スミスはひとつ咳払いをした。
「司令官殿もそうです。この数日間は大人しくされていたようですが、ネイハム氏のようになられても困ります」
「どういうことだ?」
「女性にかまけて、仕事を疎かにされては困るということです」
「俺がいつ女性にかまけたと?」
売り言葉に買い言葉で、笑顔ではいたがつい言ってしまった。かまけたなどと、ツカサやエマのことをその一言で片づけられたと思い、腹が立った。
「私には、いま現在がそのように目に映りますね」
「違いますっ。違うんです、スミスさん。これはその」
「エマ、いい」
彼女の言葉を遮り、俺は真顔になって目の前の男を見る。
「おまえさ、いつもそんなこと考えてんのか?」
すこし砕けて物を言うと、スミスは不機嫌に口を曲げた。
「俺からしたら、そんなことを四六時中考えているおまえのほうが、よっぽど女性にかまけてると思うんだが」
スミスは、今度は怒りで目が開いた。いい反応だ。俺は何かを思い出したように、これ見よがしにエマに話しかけた
「ああ、そうだ。確か、いま住んでるところを追われそうだって言ってたよな? エマ」
「え、あ、え?」
急に話を振られたエマは混乱しているが、俺は彼女に振り向きながら話を続ける。
「いやー、それは大変だ。住むところがなくなるのは一番困るよな。しかしアレリアで引っ越し先を見つけるのも大変だしなぁ。ここから近いところを探さないといけないし……ああ、そうだ。なんだ、盲点だった。ここに引っ越せばいいんじゃないか?」
エマの目が点になり、スミスまで驚いているのが気配でわかった。
「ここは部屋数だけはあるし、むしろそれだけが取り柄だ。食事もひとり分増えたところでどうということはないし、困っているひとを助けるのは警備隊の本分だからな。そうだろ? スミス。俺は何か間違ったことを言っているか?」
スミスは顔を真っ赤にして歯噛みしている。
「そういうことだから、エマ、明日から来てもだいじょうぶだ。ああ、でも、寝室を間違えないようにしてくれよ。スミスがすごく気にしてるみたいだから。俺は歓迎するが」
耐えられなくなったスミスが鼻を鳴らした。俺はいつか見た間欠泉から噴き出る蒸気を連想しつつ、絨毯を踏み鳴らして廊下の向こうへと遠ざかっていく彼の背中を呆れながら見送った。このくらい言っておけば、しばらくは口出ししてこないだろう。
「引き合いに出して悪かったな」
振り返りながら謝ると、エマが頬をりんごのように赤くして固まっていた。
ああ、やり過ぎた。
「だいじょうぶか?」
「え、あ、はい。あの、いきなりのことだったので」
彼女は困りながら笑った。
「……本気、ではないですよね?」
「半分くらいは本気だけど」
「ええっ!?」
「部下が困ってるんだ。助けるのは当たり前だろう」
「そ、そ」
「そ?」
「そういうことはツカサのことだけにしてください!」
「え?」
「本当にツカサのこと好きだったんですか?!」
わけのわからない勢いでエマは訊いてきた。たぶん本人もわけがわからなくなっている。
「え、もちろん。あれ、言ったっけ」
「態度を見ていればわかります! そういうことをほかの女に軽々しく言ってはだめです!」
人差し指でずばりと差された。
ほかの女って。
俺は何度も瞬きをして、彼女を見下ろす。
「あ、いえ、もちろん、その、妹のことをずっと思ってほしいとか、そういうんじゃありませんから、えっと……はい」
一瞬にして興奮が治まり、エマは気まずそうに俯いた。
「すみません。聞かなかったことにしてください」
そうつぶやいたかと思うと、小走りであっという間に廊下の向こうに消えた。
なんというか、姉心は複雑なのだなと思った。




