炭鉱のカナリア 4
「待て! このような、エルフとも呼べない者に貴重な霊薬を飲ませるだと!? いくらなんでも我らを侮辱し、裏切る行為だ!」
男の声に、何人もの声が賛同する。
「この子供はもう死にかけている。家族も皆焼け死んだ。それならもう死なせてやるべきだ」
「黙れ!」
俺を抱える腕の力が強くなった。
「なんと言われようと孫をむざむざ死なせる者がどこにいる! わしがここの長である以上、異論は認めん! 散れ!」
それでも反対の声は収まらず、輪をかけて広がっていく。
息が苦しい。
さっきまでずっと体が熱かったのに、いまは冷たく感じる。
かあさんは、姉さんは、兄さんは、きっともう生きていない。
ああ、どうして、こんなことになってしまったのだろう。
俺の目が、ちゃんと見えていたら、こんなことにはならなかったかもしれない。
*
飛び起きると、窓の外が暗くなっていた。
そこは最本部の二階、自分の寝室のベッドの上だった。
やってしまった。
これは、あれだ。意図せず休んでしまった。しかも何時間も。
まあ席を外していることのほうが多いし、ミネルバにもしょっちゅう行っているので、例え執務室に部下が出入りしていたとしても、またかと思われるだけだろう。だがそれは俺の意思が伴っている行為であり、今回のことはまったく意図していないことだった。
俺は余程ショックだったようだ。セルペンスの乗った馬車を見送ったのかどうかすら覚えていない。
エマが魔族と人間の混血だと彼は言った。
大前提がまずおかしい。おかしいのに、セルペンスの言葉を否定する証拠がない。
俺の周りでいったい何が起きているのだろう。
例の男が死に、メイドが死に、部下を疑い、今度は部下の素性を知るはめになるとは。しかし知ったところでどうなるというのか。俺はそこで考えを止めることができず、ある可能性に気づいてしまった。
セルペンスがほかに言及しなかった以上、総務課の中ではエマ以外人間であることがほぼ確定した。ククラもネイハムもウォルターも、皆人間だった。そしてあの日、邸にいてランプを使うことができたのは、警備隊では俺を除いて、いまのところエマ以外にいない。
昨日、紅の応接間でムティラフと三人で話していた時のことを思い出す。
『ランプが男のものかはわかりませんが、えっと、絨毯の上にあったのは、誰かが、何か探し物をしていた……とか?』
俺が絨毯に置かれたランプに対して意見を求めた時、彼女はそう言った。あらかじめ言うことを決めていたようには見えなかったので、あの意見は少なくとも書斎での彼女の行動を示していたのではないだろうか。
つまり彼女は、書斎で何かを探していたことになる。
何を探していたのか。なんのために探していたのか。
しかしすべては可能性の話だ。あのランプを使ったのがエマであると確定していない以上、使用人にも、晩餐会の客人にも使えた人物がいた可能性がある。そもそもランプを書斎に置いた人物と、使った人物が別である可能性もある。それにネイハムが目撃した、三階に上がるククラはなんだったのか。
ああ、これは、だめだ。可能性がありすぎて、絞り込めない。
もういっそスミスが犯人ならいいのにとやけくそな結論を出して、のそのそとベッドから下りる。眼鏡を捜すとサイドテーブルに置いてあり、ローブやジャケットは無意識に使用人に渡していたようだ。ズボンはさすがにしわになってしまったが、諦めてそのまま部屋を出た。廊下に置かれた燭台のまぶしさに目を細めつつ、螺旋階段を下りた。
時刻は夜の七時を過ぎていた。総務課の連中はもう帰っている頃だろう。逆に誰にも会わなくてよかったかもしれない。いまククラやエマに会うと、すごい顔になりそうだった。
執務室に入り、暖炉に火が入っていてほっとした。机の上には相変わらずの書類が山積みで、その一番上の書類を何気なく見るとワインボトルの毒についての報告書だった。肘掛け椅子にどっかと座り込んでから書類をひったくる。
ワインボトルとワイングラスには速効性の毒が入っていたことがわかった。入手するのが困難な種類のもので、無味無臭。一定量を飲んで十分から三十分ほどで体に毒が回り、死に至る。胸に紫の死斑が出るのが特徴で、そのために毒が使われたと周りに知られてしまうのが唯一の欠点か。毒は最初ワインボトルに入れられ、そこからワイングラスに移ったようだ。
とりあえず毒の有無は確定した。いままで確定したことが少なかっただけに、このことは俺の精神安定の一助になった。例の男とメイドは胸に紫の死斑が出ていた。この毒で死んだことに違いない。
次に書類の山の横に置いてあった手紙に目が行った。この封筒からして、恐らく紅い髪の男、ノアからのものだろう。
送り主の名前を確認し、中の便箋を取り出す。二枚つづりの紙には、一週間ほど前に警備隊の本部であるノアの家に空き巣が入ったことが書かれていた。特にノアの寝室が荒らされ、例の木箱が盗まれたという。それは俺が二ヶ月以上前にノアに預けた木箱だった。
とうとう領主が動き出したと思った。
昨日のエルフの森への侵入者のことも重なり、恐らく領主か、領主の息のかかった者が森に行ったはずだ。だが森に迷い、里に辿り着くこともできず、しっぽを巻いて帰ったに違いなかった。あの森はひとつの例外を除いて、エルフ以外は必ず迷う場所だった。
昨日の領主の動きはどうだっただろうか。俺が邸に行った時、一度も会わなかった。メイドが死んだことで警備隊の常駐期限が数日伸びたことをミドエ夫人に伝えたが、あの時ミドエは邸にいなかった。しかしミドエ本人がエルフの森に行くとは考えにくい。
手紙にはほかにも伝えたいことがあるので、早めにこちらに顔を出してほしいと書いてあった。どうやら直接伝えたいらしく、ほかには何も書いていない。気になるが、どうにも嫌な予感が拭い切れない。ノアがこんなふうに書いて寄越すことはほぼないので、書くことすらできないほどのことなのだろう。例えば、直接見たほうが説明するより早い、というような。
予想などしても徒労に終わるだけだ。早く来いと書いてあるのだから、早速明日にでも行こうか。随分と用事が立て込んできた。暇な時にどうして平均的に事象や事件が起こらないのかとぼやきそうになる。事件が事件を呼ぶのか。
執務室の扉がノックされ、気のない返事をした。しかし姿を現したククラを思わず二度見してしまう。てっきり総務課の連中は帰っているとばかり思っていたので、その気持ちがそのまま出てしまった。いま自分の顔はだいじょうぶだろうか。引きつっていないだろうか。
「失礼します」
まさか自分が疑われているとは思っていないだろう。ククラは俺の執務机の前に立つと一礼した。てっきり『お遣い』で来たのかと思っていたが、彼女は何も持っていなかった。思わず指にはまっている指輪に目が行く。
「大変に急なことで申し訳ないのですが、お願いがあってきました」
ククラはいつになく失礼のない態度で、真面目そのものだった。俺は驚いてつい訊いてしまう。
「どうした。まさか辞めたいとか?」
「違います」
彼女はむっとしたがすぐに顔を引き締め、眼鏡の位置を調整するようにすこし動かした。
「明日、休暇をいただきたいのです。課長に伺いましたら、司令官が許可すれば構わないと」
領主の邸で俺にものを頼むなど身の毛がよだつと言い放った人物のセリフとは思えないが、あえてそのことには目をつぶった。
「ほかの奴らには相談したのか?」
「はい。明日ならいいと言われました」
「どこに行くんだ?」
「ミネルバです」
「知り合いにでも会いに行くのか?」
「そのようなものです」
ククラにミネルバの友人がいるとはとても信じられない。エマですらようやく交流を持てるようになったというのに。しかし彼女の行動に疑いを持ったところで、彼女には関係がない。彼女は休みが取れればそれでいいのだ。
「別に、みんなが休んでいいと言っているなら俺も構わない」
「ありがとうございます」
ククラはほっとしたように表情を緩めた。余程大事な用なのだろうか。
「時に司令官は、ミネルバには詳しいそうですね」
「ああ、そうだな。よく知ってる」
「では、警備隊の、第七地区の本部は知っていますか?」
頭を思いっ切り殴られたような衝撃を受け、俺はあまりのことに目を見張った。ククラは何故俺がそういう反応をするのか理解できず瞬きを繰り返したが、話は続けた。
「実はわたし、方向音痴なのです。恥ずかしながら地図も読めません。ですので、ミネルバに詳しい方がいたら紹介していただきたいのです」
そう言うやククラはポケットから紙切れを出した。第七地区の本部の場所が書かれた手書きの地図だった。地図も読めないのによく見回りができていたものだと、俺の思考は一瞬脱線した。
「どうしたんだ、これ。誰が書いたんだ」
つい前のめりになって言った。
「申し訳ありませんが、こたえる義務はありません」
ククラは怪訝に俺を見ると、さっさと紙切れをポケットに戻してしまった。
「休みのほうはありがとうございます。ミネルバに詳しい方は別に探します。それでは」
ククラはさっさと部屋を出て行こうと踵を返した。俺は咄嗟に彼女の腕を掴んだ。
「俺が行く」
ククラは眼鏡越しの目を見開いてこちらを凝視してくる。
「俺ならそこをよく知っているし、よく行ってもいる。迷わず案内できる」
「ですが、司令官には仕事が」
「頼む」
ククラの言葉を遮ってまで、俺は何故だか必死になっていた。彼女は悩むように視線を逸らしていたが、しばらくすると大きく息を吐いた。
「わかりました。ですが司令官、頼むのはあなたではなくわたしのほうです。あと、離してもらえますか。痛いです」
淡々と彼女は言い、俺は慌てて手を離した。
「それでは、何時にしますか」
「え?」
「明日の時間です」
「あ、ああ、ククラはどうしたいんだ?」
「早めにお伺いしたいのですが……いえ、午後からで構いません。二時か三時くらいに着くようにしていただきたいです」
彼女の頭の中で予定が組み立てられていく。
「昼飯は?」
「済ませてから行きます。目的はあくまでそこに行くことですので」
「わかった。じゃあ、明日の昼十二時にここに来てくれ。馬は乗れるか?」
「いえ、すこし苦手です」
「そうか、わかった。じゃあ別のを考える」
「よろしくお願いします。そういえば、先程までどちらに行かれていたのですか?」
「もしかして、何度かここに来たのか? 悪いな。上で寝てたんだ」
素直にこたえてから、これは何か言われるだろうなと舌打ちをしそうになった。
「体調でも悪いのですか?」
「え、いや、まあ、そんな感じというか」
「あの書斎に入った者は皆、体の調子を崩していると聞きます。司令官も気をつけてください」
「あ、ああ、気をつける」
口調こそ変わらなかったがククラは寝ていたことを責めず、肩透かしを食らった気分だった。
「それでは、失礼します」
彼女がいなくなるとどっと緊張が押し寄せ、心臓が嫌な鳴り方をし、冷や汗が出た。
これは大変なことになった。あのククラとミネルバに行くことになった。俺はどうして案内人に名乗り出てしまったのだろう。しかしあの手書きの地図を見た時、言い知れない興奮が湧いた。
そもそもククラは俺のことを嫌っていたはずだ。それに目をつぶってでも、彼女はあのミネルバの、第七地区警備隊本部に行きたいということにほかならない。
彼女の目的とはいったいなんなのだろう。
すでに持っていた疑惑を晴らせていないというのに別の疑惑が湧き、ククラという人物がわからなくなってくる。だがこれでいい。彼女の近くにいれば、不審な動きをすればすぐに気づくことができる。監視ができる。
橋を管理している地区の警備隊に使用申請書を出そうと思い、引き出しから書類を引っ張り出す。明日の朝一番で届けるよう使用人に頼んでおこう。
ここらでひとつ、息抜きをしてもいいのかもしれない。
俺にとってミネルバに行くことは息抜きだった。見慣れた仕事場から離れ、のどかな石畳の上を歩くことが、俺にとってどれほどの安らぎを与えていることか。それに加えてミネルバにはサジタリスがいる。彼女の知恵を拝借する時なのかもしれない。ノアのこともあれ以来顔を見ていないので、どういう様子になっているのか確認しておきたかった。彼が預かっている少女のこともある。それから、そうだ。白の回廊の、俺が作った穴のことも伝えていない。ノアのことだ。俺がその穴を作ったと、とっくに気づいているだろう。そのことについて手紙には何も書かれていなかったので、相当怒っているかもしれない。あるいはそれを上回ることが起こり、忘れているか。なんにしても明日、顔を合わせれば文句のひとつは飛んでくるだろう。
ミネルバに行く用事などいくらでもある。何も遠慮などすることはない。
なんだか急に嬉しくなり、できるところまでやってしまおうと、俺は書類の山を処理しはじめた。仕事が溜まっているのならやはり来るべきではなかったのでは、とあとでククラから文句を言われないようにしておきたかった。いくら休みを取ったとはいえ、彼女はもしかしたら午前中は仕事をするかもしれない。そう思うと皮肉気に口の端が上がったが、無性にやる気が出た。
負けず嫌いだなあと、客観的に思う。
そういえば兄にも、よく八つ当たりをしていた。
そんな俺を兄は怒りもせず、軽く謝って、おかしそうに笑うのだ。
よくできた兄だった。サジタリスが惚れるのも無理はない。
きっと兄は、いまの俺を見たら、がっかりするだろう。
復讐なんてものに囚われた弟を、きっと軽蔑して、見放すはずだ。
それなのに俺の中の兄は、明るい笑い声だけをこだまさせて、ほかには何も聞こえなかった。




