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ミネルバ-望郷の町-  作者: 近藤 回
第二章

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歌、鱗、泡と消えて 4

 が、そこへ行く前に、廊下で珍しい人物に呼び止められた。

 ククラだった。

 ククラは相変わらずのむすくれた顔で、何か文句でも言われるのではないかと構えていると、彼女は五歩先まで来て会釈した。

「休みをくださり、ありがとうございました。おかげさまで、体調も戻りました」

「……いや、それはよかった」

 そこで会話が切れてしまう。なんと続けたらいいのだろうか。何を言っても切り捨てられそうで悩んでしまう。しかしこうしてお礼を言われる日が来るとは、明日は空から槍が降ってくるかもしれない。

「エマにでも言われたのか?」

 ククラが俺に礼を言いに来る理由がそれしか思いつかなかった。

「……よくわかりましたね」

 ククラはわずかに驚いてみせた。

「確かに彼女に言われなければ、わたしはこうして面と向かって司令官にお礼など言わなかったでしょう。しかし仕事を放って休んでしまったわけですから、ご迷惑をかけたのは明白です。ですからこうして、お礼と謝罪に来たのです」

 態度は少々お礼と謝罪に似つかわしくないが、それを差し引いても驚くべきことだった。

「先程、彼女とは何を話されたのですか?」

 ククラが質問をしてきた。珍しい。

「聞きたいのか?」

「いえ、別に。ただ、エマの様子がすこし変だったので」

 ククラは純粋に気になったようだ。心配、と言えなくもないかもしれない。

「スミスの侮辱についてだよ。聞いてないのか?」

 ククラが素直に頷いたので、昨日の夕方にあったことを簡単に、かつエマの自尊心を傷つけないよう遠回しに話した。するとククラは目に見えて怒り出した。

「なんということを!」

 音が鳴りそうなほどククラは歯噛みをして、鼻の上にしわを作っていた。女の怒った顔は本当に怖い。

「これは由々しき事態です。我々女性に対する、最低最悪の侮辱です」

 ククラはぶつぶつとつぶやき、何事かを考えているようだった。仕返しの方法でも考えているのだろうか。

「ククラは、スミスと仲良いんじゃないのか?」

「はぁ? そんなわけありません」

「いや、俺のことを目の敵にしてる同士だから、てっきり仲が良いのかと」

「確かに司令官のことはお慕いできませんけど、それはスミスさんも同じことです。わたしは、嫌いなひとはとことん嫌いです」

「じゃあ、なんで俺のこと嫌いなんだ?」

「真っ向から訊いてくるのですね。それは、なんとなく、としか言いようがありません」

「……は?」

「申し訳ありませんが、これ以上はお話しできません。早くエマのもとに行かないと。失礼します」

 そう言うと、ククラは廊下を引き返してさっさと行ってしまった。

 なんとなく、とは。これはまた、すごい理由だ。言い換えるなら、生理的嫌悪、というやつなのだろう。

 俺は地味に傷つきながら、重たい体を引きずってどうにかバスルームのある二階へと上がった。



 さっぱりした。あくびは出てしまうが、一応目も覚めた。やはり熱い湯はいい。

 制服に着替えて階下に行くと、今度はネイハムが廊下に立っていた。今日はよく総務課の隊員に会う日だ。もしかして課長にも会うのだろうか。日がな一日執務室にこもっている、すこし変わり者の課長に。

「おはよう、ネイハム。この邸の中で、何か目新しいものでも見つけたのか?」

「そうだったらよかったんだがね」

 壁に寄りかかっていたネイハムは、口元を歪ませて、面白そうに肩を揺らした。

「わざわざ俺が通るのを待って、何か伝えることでもあるんだろ?」

「ああ。察しがよくていい」

「こんな、見るからに待ち伏せされて通り過ぎるほど、俺の目は悪くない」

「それもそうだな。前の司令官じゃこうもいかなかった。何せ俺は嫌われていた」

 ネイハムはあえてこんな、ぼさぼさの髪にしているのだと思うが、前の地方司令官は清潔さを重視していたので、態度も含めてネイハムのことを毛嫌いしていた。俺にしてみれば、面と向かって侮辱を吐くよかずっといいと思っている。

「女。女には気をつけたほうがいいぞ」

 ネイハムの低い、すこし枯れた声が、抑え気味であったのに迫力を持っていた。

「女? 女好きのおまえが言う言葉じゃないだろう。それに世の中の半分は女じゃないか。範囲が広すぎる」

「俺が言っているのは、ここにいる女のことだ」

 ここ、つまりは最本部内にいる女ということか。

「使用人は抜いてだいじょうぶか?」

「ああ。こう言っちゃなんだが、俺も驚いてるんだ。だが疑いを持ち出すと、ますます怪しく思えてきた」

「誰のことだ?」

「ククラだよ。あの嬢さん、何か隠してるぞ」

 ネイハムは柄にもなく真剣そうに目を細めた。

「あの、例の身元不明の男が死んだ日、あんたは夜から来たな?」

 俺は一昨日のことを思い出しながら頷いた。確かにあの日は書類整理を中心に業務が立て込んでいたので、領主邸には夜に行った。そこで客人が俺を晩餐会に誘うという余計な行動をし、客人の面子を保つために領主はなし崩し的に俺を晩餐会に招待する羽目になったのだ。

「総務課の俺たち三人は、昼過ぎから領主邸に行っていた。夕方くらいだったか、ククラがメイドのひとりと口論をしていた」

「本当か?」

「ああ。エマも見ているはずだ。詳しいことは知らねぇ。口論をしていたメイドが昨日死んだメイドと同じかもわからん。俺は死んだ奴の顔を見てないんでな。が、死んだメイドが持ってたっていう指輪、あれ、嬢さんのもんなんじゃないか? 嬢さん、指輪をいくつかつけてたろ。それに夜も怪しい動きをしていた。あんたが死体を見つける何十分か前、あいつは領主邸の三階に上がっている」

 俺は信じられない気持ちでネイハムの言葉を聞いていた。それが本当なら、ライラの前にククラが書斎に入ったことになる。

「書斎に長くいた奴は、軒並み体の不調を訴えてるそうじゃないか。だったらあの嬢さんも、書斎に長くいたんじゃないか? 長くいるような、長くいなくてはできないようなことをしたんじゃないのか? 例えば、あの男を殺した、とか」

「おまえはその時、どこにいたんだ?」

「俺は二階の応接間の警備をしていた。ククラが邸の右側の階段を使って三階に上がっていくのを、応接間の扉から見たんだ。領主から三階には上がるなと止められていたから、おかしいとは思ったんだが……」

「彼女が三階から下りてきたのは見たか?」

「いや。その時は特に気にも留めてなかったんでな。いつ下りてきたかはわからない。まあ、階段は反対にもある。別に俺を疑っても構わないぜ。まあ、俺はこの通り、走れないがな」

 最後は冗談のように付け足し、彼は肩をすくめる。

 確かにネイハムの言うことは一理ある。ただあの時間は、邸の左側にある階段は二階までだが使用人が多用していた。客人が邸の左側の二階にあるダイニングルームに集められており、使用人は晩餐会用の食事をそこへ運んでいたからだ。邸の左の階段を使えば目撃される確率は高くなるが、警備隊だと思われていれば、階段を使ったとしても不思議には思われないかもしれない。

 いや、待て。使用人は領主から三階にひとを上げるなと言われていた。それなら警備隊であっても引き留めたはずだ。俺にしたように。それなら使用人がおらず、手薄になっている右側の大きい階段を使うのも頷ける。誰かが来たとしても、調度品やら何やらの物陰に隠れられなくもない。

 ここに来て容疑者が浮上してくるとは、思いもしなかった。しかもそれは、同じ建物の中にいる、先程言葉を交わした部下の名前とは。

「だいたいのことはわかった。有力な情報、感謝する」

「寝首、かかれんように気をつけな」

「ほかに何か気になることを思い出したら、教えてくれ」

「もちろんそうする。俺としても、同僚が殺人犯かと疑いながら働きたくないんでな。早めに解決するよう、力は惜しまんさ」

 ネイハムはそう言うと長く息を吐き、次にはいつも通りの調子で嘆きはじめた。

「やっぱりいい女は、なかなか見つからんな」

「自分の中のいい女の定義にもよるんじゃないか?」

「俺のいい女は、胸がでかくて色気のある女だ。ここには色気のある女も、胸のでかい女もいない。エマがそこそこあるくらいだ。ククラはないに等しい。どうしてサジタリスを異動させた」

「仕方ないだろ。万年人員不足な隊があるんだから」

「それにしても、ほかに方法があったはずだ。ああいう女は滅多にいない。惜しいことをした。晩餐会にもいい女がいたが、さすがにご婦人に手は出せん。胸もでかいし、艶のある女だったが」

 ネイハムはこれ見よがしに盛大な溜め息をついた。そういえばサジタリスから一度だけ、ネイハムの視線が気持ち悪いと文句を言われたことがあった。ネイハムにとっては理想に近い女だったのだろう。色気はあるが胸の大きさが足りない者なら心当たりがあった。ライラはスレンダーな性格ががっかりの美人だから、ネイハムのお眼鏡には微妙に適わないだろう。良くも悪くも、ネイハムは七割方女のことを考えている男だから、腰を落ち着けることなど一生ないように思えた。こちらもこちらで、幼馴染みを紹介するつもりなどさらさらないが。

 足を引きずりながら総務課のほうへ戻っていくネイハムを見送りつつ、これからどう動くかを考える。

 ククラを疑う材料がある以上、彼女のことを探る必要がある。本人から訊くのは最後にして、ほかの総務課の連中から事情を訊くべきだろう。が、領主邸で使用人たちに、男が殺された日の警備隊の動きを先に訊くべきかもしれない。特に、俺がいなかった日中の動きについてだ。

 内部犯を考えなかったわけではない。しかし急転直下、まさか身近な部下を疑うことになり、多少の衝撃がまだ体の中で反響していた。

 考えたくはないが、いまよりも驚くことが起こりそうな予感が、胸をざわつかせた。

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