歌、鱗、泡と消えて 1
「なんで、死んでいたんだろう」
ミネルバの酒場で待ち合わせたライラが、頼んだ酒も飲まずにぽつりと言った。狭い店内の奥、テーブル席しかないその酒場の、暖炉に一番近い席に俺たちは陣取っていた。店内が狭いのは、調理場を挟んで反対側にも同じ酒場の店内があり、扉が別々にあるためだ。そちらのほうは二階に宿もある。こちらの店内は詰めてもせいぜい十二人くらいしか座れない。窓の外は暗く重く、店内に入る前から雨が降り出しそうな匂いがしていた。
「いや、まずそれよりもだな。おまえ、どうして領主邸にいたんだ?」
俺は皿に盛られた、ゆで卵をハンバーグで包んだつまみをひょいと口に放る。今日は酔うつもりはなかったが、飲みたかったのでアルコールを低くして酒を作ってもらった。グラスの中、朱色の液体にレモンが浸かっている。
「あ、そうだった。それから話さないと」
ライラは視線を宙に彷徨わせ、無意識に髪を耳にかけながら言葉を探した。
「あなたから頼まれてイムレア領に行ったのが、かれこれ二週間くらい前で、四、五日くらいでイムレア領のチェンドンに着いたよ。そこで色々と尋ねて回って、確かに例の男が丘の上の古城に住んでいることがわかった。だけどあたしが行った時、例の男は数日前に出かけたあとだったんだ。しかもしばらく帰らないと」
俺たちは死んだあの男の名前を知らなかった。イムレア領で使われていた名前は偽名であることがわかっていたし、いまさら仮の名前をつけるのも馬鹿馬鹿しい。だから遠回しな言い方で呼んでいた。そのほうが周りに聞かれても問題なく、誰のことを言っているのか端からはわからない。
「その出かけ先が、アレリアだったってわけか?」
ライラは思い詰めた顔で頷いた。
「そう。チェンドンに着いて、天候のこともあってすでに三日は経っていたし、追うのなら早いほうがいいと思った。それからこれは、例の男の城で働いてる使用人から聞いたことなのだけど、例の男が出かける数日前に女が訪ねてきたそうなんだ。フードを被っていて容姿はわからなかったみたいだけど」
「単純に考えれば、その女が例の男をそそのかしてアレリアに来させたってことになるな」
「フードの女と例の男が城を出て行ったのが、あたしがチェンドンに着いた日と同じだったことに驚いたよ。もしかしたら姿を見ていたかもしれないのに」
「それは難しいだろ。年中吹雪いてる地域だ。好き好んでずっと外にいるならまだしも、通りを歩いてる奴なんか多くないだろ」
「そういえばその通りだ。それにみんな厚着で、目くらいしか見えなかった。マフラーや帽子をしっかりと被っていた」
ライラは残念そうにして、溜め息をついた。俺はふと、右手側にある配膳カウンターに目を向けた。上の棚にビールグラスがこれでもかと並び、奥に見える調理場には色とりどりの酒ビンが置かれていた。店員は迷いなく酒ビンを掴み、注文された酒を作っている。俺だったらあの動作だけでビンをふたつ割っているだろう。
「で、そのあとアレリアに戻って来たんだ。例の男がアレリアに行く理由は、領主のこと以外には考えられなかった」
「だからって領主邸に忍び込むなんて、先走りすぎにもほどがあるんじゃないか?」
咎めると、ライラは肩身を狭くした。
「面目ない。あの時は、例の男を追わなければと焦っていたから」
案外責任感はあるようだ。
「なるほどね。いきさつはわかった。次はその時の様子だな」
「書斎の様子?」
「色々と謎なことが起こってこんがらがってるんだ。まずはランプだな」
俺は絨毯に置いてあったランプのことを話した。ライラは頷いた。
「それなら覚えている。確か、油壷が青かった」
「それ、おまえが倒してないか? あるいは立てたとか」
眉間にしわを寄せ、ライラは記憶を引っ張り出しているようだ。
「いや、たぶんだけど、倒してもいないし立ててもいないよ。それにランプが倒れていたら、すぐに持ち上げてテーブルに置く。あたしが入ってからあなたが来るまでそれほど経っていない。驚いて書斎を歩き回る余裕もなかった」
となると、ランプはその前に倒され、かつ立てられたことになる。絨毯に染みがあることから、倒れたのは確実だ。構造が甘かったせいで油壷の蓋を締めても隙間があったのだろう。
「じゃあ次は、男に刺さってたナイフだ」
「それも見たよ。背中に刺さっていた。もちろんそれも違う」
「だよな。でも状況的に、刺されて死んだってわけじゃないみたいなんだ」
「どういうこと?」
ライラは片眉を寄せた。ナイフが刺された割には出血が少なく、死後に刺された可能性があること、本当の死因は毒ではないかということを聞くと、口元に手を添えた。
「そのワインに毒が入っているのは、確認済み?」
彼女の問いに、俺は首を振った。
「いや、昨日の今日だから、毒の鑑定は今日頼んだばかりなんだ」
報告書で毒の存在を示唆される前から、一応はワインボトルとグラスを鑑定に出していた。警備隊に毒を鑑定する専門機関はないのでアレリアの医者に頼んだが、どうにかして毒の有無と種類を割り出してほしいところだった。有無さえわかれば合格点だ。
書斎の隅、絨毯の上に置かれていたランプ。
男の背中に刺さっていたナイフ。
メイドのブラダを殺害した方法とその動機。
ブラダが持っていた指輪。
体調不良になるひとびと。
わからないことがたくさんだ。この目でそれらを見られていたらよかったのに、生憎俺の目がひとりでに歩いて行くことはない。それからキミシアの言っていたまじないの道具も見つけられていない。後生大事に金庫の中にでも隠しているのだろうか。領主のミドエが死んだ男のことでシラを切っている理由は見当がついていた。
「そういえばそうだった。あれは昨日のことだった……。本当に運命は残酷だ。あの時の実行犯をようやく捕まえられると思ったのに」
「レイ、運命って言葉で簡単に片づけるな」
つい不機嫌になって彼女に当たってしまった。ライラはすこし怯え、小さな声で謝った。何もしていない時は颯爽としているのだが、彼女は予想以上に気が小さい。
「十五年も待って、結果がこれで、納得できるわけないだろ」
グラスに口をつけ、昨夜のことを思い返す。
あの書斎で死んでいた男は、十五年前、俺の住んでいた森を、家を、家族を焼いたのだ。首謀者が別であっても、俺があの男を許すことは生涯ない。しかしライラの言う通り、運命は残酷だ。この手であの男に手を下すことができなかったのだから。いや、まだ手を下すべき相手はいる。今度こそ、この手で息の根を止めなければならない。運命よりも先に機会を手繰り寄せなければならない。ミドエが男のことでシラを切るのは、男の正体を知っている側からの考えとして、男とのつながりを知られたくないからだ。つまりミドエは、十五年前の事件に絡んでいる。それも首謀者として。
「ガーランド」
ライラの声に、ハッと我に返った。
「なんだ? どうした?」
「これ、食べてもいい?」
皿の上に盛られたつまみを見る彼女の顔は真剣だった。俺は長く息を吐いたあと、仕方なく目をつぶった。
「どうぞ」
ライラは遠慮せず、残っていたつまみをすべて食べてしまった。
「これ、美味しい」
ライラは立ち上がると、すぐ近くのカウンターから店員に注文した。店員はライラに見惚れていたのか、注文を二度訊き返してきた。立襟に白のスカーフを巻き、襟の大きな黒のコート、ぴったりとしたズボンと皮のブーツ。服装は紳士のそれだったが、彼女は確かに綺麗だった。柔らかい髪を首の後ろで丸くまとめ、頬に垂れる髪を耳にかける仕草は、男として惹かれないわけでもない。若干の色気があることも認めよう。が、俺にしてみれば彼女は女である前にただの幼馴染みだった。
「おまえ、そういえば食いしん坊だったな」
「え、いや、そんなことは……」
ライラはこれほど近い距離であっても、注文した品ができあがるまでカウンターで待つ気でいるようだ。余程美味しかったらしい。
「思い出した。うちに来た時、かあさんの作った料理をよくおかわりしてたな」
「あなたのおかあさんは料理が上手だったから。特にあのふっくらしたパンケーキが美味しかった。木苺のジャムも素晴らしかったし、はちみつも採れたてのものだし、あたしはあのパンケーキほど美味しいケーキを知らない。美味しい料理が作れるひとを本当に尊敬する」
先程注文したつまみができあがり、ライラはそれを嬉しそうに皿を持って席に戻った。早速フォークで次々と口に運んでいく。本当に美味しそうに食べる。俺はさりげなくつぶやいた。
「なるほど。あいつに目をつけたのもそれが理由か。あいつ、料理上手いもんなー」
ライラはむせたのか激しく咳き込み、顔を背けて口元を手で押さえた。
「え、あの、彼が料理上手なのは初耳だけど……」
苦しさに涙目になったライラにとっては新情報のようだ。
「ひとの世話を焼くくらいだ、上手いに決まってるだろ。前にあいつの作った野菜スープ食べたっけ。あれ美味しかったなー」
羨ましいと書いてある顔がすぐ目の前に現れる。恐らく二重の意味で羨ましいと思っているだろう。自分で話しておいてなんだが、すこし小腹が空いてしまった。今度は別のものを頼もうかと、壁にかけられたメニュー表に目を凝らす。ソーセージを挟んだホットサンドがあった。
「ガーランドは、結婚は?」
「してるように見えるか? してたらこんなとこに来ない」
投げやりに左の掌を振って見せる。今度は俺がカウンターで注文し、できあがるまで立って待つことにした。
「いいひとは?」
「いないな。そもそもするつもりがない。何せ俺は、過去の事件のために生きてきたんだ」
復讐、と言葉ではたった一言で事足りるのに、実際は胸を掻きむしるほどの苦痛を伴うことのために、いままで生きてきた。
「あたしたちの事件があるにしても、結婚とは話が別」
「そういうおまえはしたいのか?」
「当たり前だ」
ライラは口を尖らせる。
「だけどおまえ、そもそも気づかれてないんじゃないか?」
「う……」
手を止め、彼女はがっくりと項垂れた。俺は口元の笑みを手で隠した。
ひとが食べているところを見ると自分も食べたくなるというのは、条件反射みたいなものなのだろうか。それほど食べるつもりはなかったのだが、一緒に食べる相手がいるのは思いの外、心地がいいものだ。
「そういや俺に会う時、誰かに何か言ってから来てるのか?」
ふと訊いてみた。ライラは一応盗賊団のお頭で、部下もそこそこいる。
「いや、何も言っていない。これはあたし個人の用件だから、周りには何も伝えていないよ」
「本当のお頭だっていう養母にも?」
「彼女には絶対に言わない。向こうはもしかしたら、あたしの動きに気づいているかもしれないけれど」
それだけは固く決めたことのようで、ライラは断言した。養母との間に何があったのか知らないが、盗賊団に身を置いている時点で事情はとっくに複雑だろう。
「ああ、そういえば久しぶりに知り合いを見たんだ。元気でいるみたいで、すこし安心した」
ライラは食べ終わると、ふと何かを思い出し、懐かしんでいた。俺はホットサンドにかぶりつきながら、生返事をしただけだった。
酒場モデル:Ye Olde Mitre




