名もなき男の死 2
すぐにひとが集まり、書斎は立ち入りが制限された。もちろんこの部屋の主である領主であっても、ひとりで立ち入ることはできない。領主邸のある地区を担当する警備隊も呼び、物々しい雰囲気の中、現場検証に入る。
殺されたのは、四十代と思われる男。身元を示すものはなく、服装はいたってふつうで綺麗なものだ。みすぼらしくもなければ派手でもない。執務机の前にうつ伏せで倒れており、背中を刺された以外に外傷は見当たらない。口元には白っぽい泡が溜まっていた。
明るくなってからでないと確かではないが、返り血はそれほどなかったようだ。ナイフは背中に真っ直ぐ刺さったままだが、血の滲み具合や衣服の破れを見るに、傷口は複数あるようだった。ほかの家具や壁にそれらしい痕は見受けられない。この大きさのナイフなら、令嬢の太ももで男を大いに誘うガーターリングにも忍ばせておけるだろう。
俺は隊員にあとを任せ、二階のダイニングへと向かった。領主であるオスバル・ミドエをそこに待機させていたが、十中八九、自身の書斎に入れないことに腹を立てているに違いなかった。
中に入ると、ダイニングの上席に座っているミドエが大きく鼻を鳴らした。ミドエは、量が異様に多く感じる茶髪を無駄にカールさせた頭に、立派な口ひげを生やした五十代も間近の、恰幅だけはいい男だった。こいつの脂ぎった顔を見て好印象を持つ人物がいるのなら、それは間違いなくミドエを豚と勘違いした腹ペコの乞食だろう。
ほかの客は、ダイニングとはホールを挟んだところにある応接間に移動させていた。使用人たちは、ここにいる数人を除けば一階のホールに待機している。
「お待たせしました。ミドエ卿」
ミドエの脇に立ち、頭の怪しい部分を見下ろしながら話しかける。
「率直にお訊きします。あれは、誰ですか」
ミドエは鼻の上にしわを寄せたまま何も言わない。
「その様子だと、知っているが言えない、そんなところですか?」
「知らん!」
張り上げた声が部屋全体に響き、心臓の弱い者ならまず痙攣を起こしていただろう。ミドエの張り上げた声は、まるで何かが破裂でもしたように肌がぴりぴりとする。
「わしは何も知らん! 貴様に話すようなことなど何もない。貴様ら警備隊は目障りだ。とっとと出て行け!」
「そうしたいのは山々ですが、これは殺しです。犯人がまだ屋内にいたら、あなたの命も保障できません」
「ええい、うるさい! そのようなこと、警護班でなんとかなる!」
ミドエは腕を組み、それきり取り合わなくなった。警護班とはミドエの私兵で、彼らに身辺警護をさせている。四人ほどいるのを確認しており、この部屋にもひとり、執事の格好をして壁際に立っていた。
これは無理だと判断し、隊員にあとを任せ、今度は応接間に向かおうと邸の中心へ向かう扉を開けた。そこは一階にある吹き抜けの玄関ホールを見渡せる廊下のようなところだった。玄関の真上に当たる。そこからホールに集まっている使用人たちが見え、落ち着きはらおうとしていたり、手を揉みしだいたり、隣の人物と忙しなく話し合っていたりした。彼らはほかの警備隊員がひとりずつ順番に事情聴取をしている。使用人はざっと見ても二十人はいた。この大きな邸を回していくには必要な人数だろう。
突き当たりの扉を開ける。あらかじめ暖炉の火が入れられていたのか、応接間は快適な温度を保っていた。思い思いの場所にいた領主の客人たちは、俺の顔を見るなり不安と体調不良を訴え、家に帰すよう要求した。俺は失礼のない程度に笑いかける。
「それでは、おひとりずつ話を伺いますので」
有無など言わせてやるはずもないのに、彼らはいったいなんの権利があって横柄な態度でいられるのか、俺には不思議で仕方なかった。
彼らにとっては、きつく絞られた雑巾のような心地になった話し合いで、俺が得られたものはほぼなかった。十人もいたというのに、目ぼしい情報は誰の口からももたらされず、それは一概に皆が同じ行動をしていたことが原因だった。さながら鴨の親子が進む如く、彼らは領主について行き、耳を傾け、世辞を言い合っていたのだ。
今晩は誰ひとり三階には上がらなかった。ひとりだけ、画廊を見たい旨を話したところ、いまは改装中で見苦しいからまた次の機会に、と領主が言っていたことを話した。これが、得られたものが『なかった』から『ほぼなかった』に変更された貴重な情報だった。俺が先程メイドから聞いた言葉とも一致する情報だ。
メイドは客を三階に上げるなと言われていた。
画廊に、ではなく、三階自体に、だ。
画廊は見た限り、改装中でもなんでもなかった。ということは三階には誰にも来てほしくない理由があった、ということになる。
使用人たちの事情聴取は、数が数だけに時間がかかった。
空が白ばんできた頃、客人たちを帰すことにした。客人たちは待たせていた馬車でさっさと帰っていった。寒い中待っていた御者が眠たそうにあくびをし、俺と同じ気持ちでいるようだった。一応怪しい行動をしないかどうか、吹き抜けのホールの二階部分にある先程の廊下の窓から見送っていたところ、応接間からエマが出てきた。
「お疲れさまでした、司令官。大変なことになりましたね……」
真剣な表情で、緊張のためか白い顔のエマも窓の外へと視線を投げる。彼女はアレリアの警備隊員で、最本部に拠点を置いている総務課に所属していた。それからもうひとり応接間から出てきて、あからさまな愚痴をこぼした。
「まったく間の悪い。こんなとこに来てまで厄介事に巻き込まれるなんざ、あんたも俺も運がねえな」
男は片足を引きずるようにして歩き、窓とは反対側の手すりにもたれかかる。俺は肩をすくめた。
「血生臭いことには慣れてる。いまさらだろう。それとも心配してくれてるのか?」
湿っぽい顔をしていた男は大きく口を開けて、急に笑い出した。くしゃくしゃの黒い前髪から覗く灰色の目が面白そうに俺を見た。
「俺は女しか心配しない主義なんでな。あんたが女ならしないでもない」
男は口を大きく歪ませて、ほとんど下品に近い笑い方をして見せた。この男の名はネイハム・ダーシー。もうすこしで三十になる、総務課に勤務する警備隊員だ。ちなみにエマは二十一歳だったはずだ。彼がアレリアの警備隊から総務課に移ってきた理由は、彼の足を見れば容易に想像がつく。地方司令官である俺とは、エマの次に話を取り合ってくれる人物でもある。それほど友好的とは言えず、少々問題行動も見受けられるが、この通り、軽口には付き合ってくれる。必要な時には必ず話をしてくれるので有り難かった。どこぞの人物とは大違いだ。
「あ、そうでした。司令官、実はククラさんなんですけど……」
エマからどこぞの人物の名前を言われ、そういえばと思い返す。ククラ・ドリーは六人いる総務課の中でふたりいる女の警備隊員の片割れで、俺を嫌悪している人物のひとりだった。総務課に異動して二ヶ月も経っていない新入りが、何故俺を嫌悪しているのか謎である。彼女は俺が先程応接間に入った時、エマやネイハムと共に客人を見張っていた。客人を別の部屋でひとりずつ事情聴取した時はエマが同席していた。
「エマ、やめて」
応接間の扉から当人が姿を現した。長い黒髪は緩く三つ編みにされ、リボンを使って結ばれている。大きく武骨な眼鏡で目元を覆い、相変わらずのやぼったさを醸し出している。しかしよく見ると様子がなんとなく変だった。
「でも、ククラさん。無理をしても悪くなるだけよ」
「もう平気だから」
「実はですね、司令官。ククラさん、体調が悪いみたいなんです」
「エマ!」
咎めるように叫んだククラだったが、確かに頬に赤味がなく、動きにメリハリがなかった。
「もう夜が明けてしまいますし、ククラさんを家に帰してもいいでしょうか? できれば彼女を一日休ませてあげたいんですけど」
エマの気遣いは本物だ。俺はすこし考えたが、ククラを休ませることにこれといった異存はなかった。
「エマ、本当にやめて。司令官に頼み事をするなんて。身の毛がよだってくる」
ククラがエマの肩を掴み、必死に止めようとする。本人がいる前で堂々と悪口が言える度胸は買うが、上司としてというよりは一個人としての尊厳をばっさりと斬られ、嘆きそうになる。ネイハムは顔を背け、声を殺して笑っていた。上司への悪口をたしなめないままエマはククラに向き直り、はっきりと首を横に振った。
「だめよ。無理をしすぎたら体を壊してしまうわ。そうなってからでは遅いのよ」
「なんなら、俺が送ってやろうか。おまえも一応女だしな」
ネイハムが面白そうに口を挟む。その様子に侮辱されたと思ったのか、ククラはなんと舌打ちをして、ダイニングのほうへと行ってしまった。舌打ちの響きに、行儀の悪さよりも恐ろしさが俺の中で勝った。気性の荒さが垣間見える。
「彼女って、総務課で浮いてるのか? それともただ苛ついているだけか?」
なんとなく訊いてみると、エマは苦笑いをし、ネイハムはにやにやと口を歪ませた。
「ククラさん、あんまり自分のこと話してくれないので、よくわからないんです。仕事はできるんですけど、わたしたちとはあまり関わり合いたくないみたいで。ため口で話せるようにはなりましたけど」
総務課に限らず、ククラと仲良くできる人物はそう多くない。お節介なエマはククラを放っておけないのだろう。
「俺は彼女を休ませるのに異存ないから、会ったら伝えといてくれ。ご苦労さん」
俺は応接間を通って階下へと向かった。こちらの階段は幅が広く、もっぱら邸に住む家族と客人のためのものだった。
今日の総務課の業務進捗は眠気に妨害されてあまり進まないことを想定し、エマとネイハムには仮眠時間を与えるのが無難だろうと思った。最本部には寝室がたくさんあるのでそういったことには困らない。途中で会った地区の警備隊員にこれからの指示を出し、ついでに馬車を呼んでもらう。
一階に下りホールへと出たが使用人たちはおらず、隊員だけが目についた。二階部分まで吹き抜けになっているホールはほかの部屋よりも寒く、馬車を待つにはややつらい場所だ。階段のほうに戻り、階段を上がらずになんとなく通路を進む。もうすこし進んだところで突き当たりがあり、右に折れている。この邸は本当に複雑な造りだ。
「うおっ」
思わず声が出てしまった。その折れた廊下のすぐ足元に、誰かが屈み込んでいたのだ。相手もこちらに気づいて顔を上げた。ククラだった。まさか死体を見たことに恐怖を覚えたのではないかと思い確かめてみるも、眼鏡越しの目に涙は認められなかった。
「エマの言う通り、休んだほうがいいんじゃないか?」
ククラは立ち上がると、青白い顔のまま、いつものように横柄に言った。
「ご心配には及びません。失礼します」
そうは言っても、彼女自身も気づいているだろうが、声が震えてしまっている。
「今日は休んでも構わないからな」
ホールへと向かう彼女の背中に投げつけてみたが、反応はやはりなかった。彼女が横を通り過ぎた時、かすかに変な臭いがした。




