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ミネルバ-望郷の町-  作者: 近藤 回
第一章

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名もなき男の死 1

 あらかじめ決めておいたので、ダイニングの壁際にいた隊員が背後に立ち、俺に声をかけた。

「あの、これは、何か意味があるのですか?」

 耳打ちをしてきた男の隊員は戸惑っていた。俺はさも重要なことを聞いて頷いているようにして見せ、膝に置いていたリネンを軽く畳むとテーブルの上に置いた。立ち上がると、長いダイニングテーブルの席に着いていた者たちの目が一斉にこちらに向けられた。訓練をした警備隊員でもここまで行動が揃うことはないだろう。上席に座る領主が殊更憎々し気に顔を歪めているように見えたが、眼鏡もかけていないので気のせいにしておいた。他領の領主も何人か来るというので今夜の晩餐会のために警備隊を貸し出してやったのに、その態度たるや呆れを覚える。

「申し訳ない。用事ができたのでここで失礼します」

 隣にいる婦人の土地の広さや家柄に対する自慢、向かいに座る紳士の叱責にもだいぶ付き合い、食事も失礼にならない程度に頂いた。これ以上ここにいると性根がさらに捻じ曲がり、俺の口から漏れた毒が彼らの耳をかぶれさせてしまうだろう。

 その場で軽く会釈をし、まだ後ろにいた隊員の横を通り過ぎた。比較的暖炉のそばにある扉に近づくと脇に立っていた男の使用人が扉を開けた。この領主邸では自分で扉を開けることもわずらわしいか、はしたないことのようだ。

 ダイニングを出て、扉が閉まってから息をつく。あんな広い空間で大勢のひとに見られながら食事をするなど、落ち着けるはずがない。しかし招待された客人にとってはそれが当たり前であり、晩餐会は領主が現在誰を重要と考えているのかがわかる指標でもある。招待されただけで名誉と考える者も少なくないだろう。

 さて、ひとを使ってようやく解放されたわけだが、さっさと最本部に帰ってしまおうか。俺はそんなことを考えていたが、ふと、上階にある画廊を見てやろうと思った。画廊は邸の端から端まである長い長い回廊で、三階のほぼ半分がそれになっている。

「上の画廊に行ってもだいじょうぶか?」

 近くにいたメイドに話しかける。メイドはまさかそんなことを訊かれるとは思わなかったのか、一瞬驚いた顔をした。

「あ、いえ、あの、ご主人様からは、上の階にはお客様を案内するなと」

「ああ、それなら心配には及ばない。俺はお客様じゃないからね」

 にっこりと笑って、ついてくる間も与えずに近くの階段を上がった。領主は、客人は上の階に行かせるな、と言ったのだろう。今日は成り行きで晩餐会に参加することになったが、領主にとって俺は客人でもなんでもないわけで、それなら言い訳が立つとほくそ笑んだ。客人ではないのでかしこまる必要もない。警備隊であることを主張する白銅色の制服の胸ポケットに差していた眼鏡をかけた。

 建物の端に位置する狭い石階段の窓からは、外がすっかり暗くなってしまったので何も見えない。壁の明かりをガラスの表面に反射し、ちらちらと光っているばかりだ。本当なら建物の反対側にあるやや広めの階段を使ったほうがいいのだろうが、そこまで戻るのにダイニングを通らないルートを使うとしたら一階まで戻らなければならなかった。面倒、の一言に尽きる。

 三階へと上がり、ひとつ扉を経由して画廊へと足を踏み入れる。画廊のある三階の天井はほかの階よりも高く、白く、模様が彫られているのだが、明かりがまばらなのでなんとなく確認できる程度だ。窓とは反対側の壁、右手側の黒い壁にかけられた肖像画の白い顔が、光量不足のために不気味に浮かび上がっていた。男も女も、なんとも生気のない目をしている。この肖像画に描かれている人物たちが領主の先祖で、誰ひとり同じ人物を描いていないのだろうが、俺にはひとりを複数枚描いているようにしか見えなかった。

 昼間ならカーテンも開いて、さぞ伸び伸びとした空間なのだろう。できればその時に来たかったが、あの領主が領主でいる限り招待はされまい。白い絨毯がきっちりと敷かれた床は足音がそれほど響かないのに、鬱々とした雰囲気に呑まれて向こうまで響いているような錯覚を起こさせる。使用人たちは皆、領主の世話にかかりきりで、三階には誰もいないようだった。

 しばし何も考えずに眺めていると、画廊の真ん中あたりにある、肖像画がかかっている側の壁に作られた木の扉が開いていることに気がついた。明かりがかすかに漏れている。確かあの扉の向こうは領主の書斎だったはずだ。俺が何気なく中を覗いた時、何か、変な臭いがした。

 視線の先に、幼馴染みが立っていた。

 その足元で倒れているものがなんなのか、一瞬で把握してしまった自分を恨めしく思う。

 彼女は気配に気づいて振り返り、俺だとわかるとすこしだけ安堵したようだが、見るからに困惑していた。彼女はフードつきのローブを羽織っていた。

 前に会ったのは二、三週間前。とある金持ちの邸に潜入してもらうために、わざわざ俺のところに来てもらったのだ。それから彼女は、南にあるイムレア領に向かっていたはずで、いまここにいるのは驚き以上に違和感があった。

 しかし状況が状況だ。そんなことを考えている場合ではない。

「話はあとだ。早く行け。こんなとこ見られたら、真っ先に疑われるのはおまえだ」

 落ち着いてからはっきりと言うと、足元のそれを見ていたライラはぎこちなく頷いた。

「おまえじゃないんだろ?」

 彼女がいま何を考えているのか、瞳を見ればすぐにわかった。どんな状況であっても、本当に彼女が犯人であったのならもっと堂々としているはずだ。

「何もしていない」

 ライラは声を絞り出し、どうにかして平静になろうとしていた。この言葉だけで充分だった。彼女が脇を通る時、背中を叩く。彼女は俺が入って来た部屋の扉とは別の扉から出て行った。

 こんなものを見る羽目になるとは思いもしなかった。こうも吐き気をもよおす現状を見てしまっては、腹に入っているものが出てきそうになるのも当然か。口と鼻をハンカチで押さえながら状況の整理をする。

 時刻は夜の八時前。領主はまだ下のダイニングで俺の悪口でも言っているはずだ。

 場所は領主邸の三階、領主の書斎。壁や机に置かれたオイルランプには遠慮なく火が灯されており、室内は思っていたよりも明るい。部屋の主がいないというのに、この明かりの数の無駄なこと。節約志向の者が来たらこの部屋のランプを軒並み消していくに違いない。

 しかしひとつ、絨毯の上に火の点いていないオイルランプが隅のほうに立っていて、ぞっとした。先程の変な臭いとはオイルの臭いだったのだ。ハンカチで包んでからランプを持ち上げ、サイドテーブルの上に置いた。俺が来る前は倒れていたのか、ハンカチがオイルで汚れてしまったが、火が消えていたおかげで火事にならずに済んだのだろう。

 ひとつ息をついてから、足元のそれを見た。

 男の死体は、執務机の前、絨毯の上でうつ伏せになっていた。背中にはナイフが刺さったままで、後ろ身頃の血の染みが均等な模様のようだった。屈んで体に触れてみるが、まだほのかに温かかい。死んでからそう経っていないだろう。暖炉が点いているせいもあるかもしれない。

「司令官! だめですよ、ギダ司令官。勝手に抜けるなんて、領主様、カンカンでしたよ」

 書斎の三つある扉のうちのひとつ、俺が入ってきた扉のところに若い女が立っていた。アレリアの警備隊の制服を身にまとった女は、状況を察してか訝しげに俺を見る。俺は肩越しに彼女を見た。

「エマ、警備隊を呼んできてくれ。ネイハムとククラもだ」

「え、あの」

「事件だ。たぶん殺人」

「あっ、は、はいっ」

 頭の上のほうで結った栗色の髪を揺らして、エマ・ロランはすぐにいなくなった。彼女の知らせを聞けば、この領主邸で起きた事件に誰もが気づくことになるだろう。

 これは殺人事件だ。

 男の顔は、目を見開き、まさか、というような恐怖の色を顔面に貼りつけている。向こうからこの領地に来ていたとは、捜す手間が省けたのは喜ばしいが、自分の手で糾弾する手間が省けてしまったことには限りなく落胆した。

 俺が、ライラにイムレア領で捜すよう言ったのが、何を隠そうこの男だったからだ。

領主邸モデル:Hardwick Hall

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