鷹は静観しない 1
クッキングストーブの上に野菜のスープが入った鍋が置いてあるが、とりあえず皿に盛られたサンドウィッチと水の入ったコップをキッチンのテーブルまで運んだ。キッチンの扉の近くには昨日から注意書きの紙が貼られていた。当の床は別の木の板が上に置かれていて、どのような状態になっているのか見ることができない。
朝の寒々しい庭を窓の向こうに据えて、誰もいない家でサンドウィッチをゆっくりと食べる。あまりにも静かな空間に、レタスを噛む音が口の外の外まで響いている気がした。
昨日の朝は、すこしの間だけ物々しかった。前日の寝つきが悪かったわたしは起きるのがいつもより遅かったのだが、一階に降りた時リートの妹が誘拐されたのだとノアに聞かされた。
ノアはここに脅迫状が来たことや他種排斥論のことを持ち出し、町に出る時はより一層周りに気をつけるようわたしに注意した。そんなことはいつも気をつけていると思ったが、彼の真剣な表情を前にわたしは押し黙るしかなかった。もやもやする気持ちを未だ抱えつつ、今度は一昨日にしてしまったことへの後悔の念がぶり返した。
何故わたしはゼギオンに、ここに居候していることを言ってしまったのだろうか。まるで、わたしも追い出せばいい、と相手に言っているようなものではないか。どうしてあの時、勢いに任せてしまったのか。ゼギオンがわたしをこの町から追い出すのも時間の問題だ。そう思うと、町に出るのが怖くてたまらなかった。
いつのまにか食べ終わったサンドウィッチの皿を流しに運ぶと、玄関の敲き金が鳴ったのがかすかに聞こえた。こんな遠いのによく聞こえたなと思いながら、わたしは小走りで応接間の出窓へ行き、そこから右手にある玄関を見た。玄関先に立っている人物が金髪であることはわかった。わたしは一瞬ゼギオンが来たのかと思い心臓が跳ねたが、玄関に立つ人物はよく見れば背が高く、ゼギオンはあそこまで高くない。相手がこちらに気づいて手を振ってきた。慌てて窓から離れる。
相手はわたしとわかって手を振っているようだった。そう考えた時なんとなく誰だかわかったような気がして、気持ちを落ち着かせながら玄関へと向かった。扉を開けると冷たい風と共に明るい声が廊下を通った。
「おはよう、コーラル。もしかしてひとり?」
ギダはわたしを見たあとに、うしろの廊下のほうを見た。わたしは頷く。
「あらま、それは残念というか、タイミングが悪かったかな。いつもならこの時間いるよな?」
わたしがもう一度頷くと、ギダは明後日を見ながら腕を組んだ。
「どうしたもんかなー。邪魔してもいい?」
「今日は訊くんだね」
言ってしまってから皮肉っぽく聞こえたのではと後悔して、彼を見上げたまま血の気が引いた。ギダは愛想よくしながらわたしの頭を優しく叩いた。
「そりゃあ、今日はこうして玄関で応対してくれるお嬢さんがいるからね」
彼の楽しそうな様子に、わたしはほっと息をついた。
「んー、なんとなくいい匂いがする気がするなー。なんだろ」
家の中に入ったギダは迷いなくキッチンへと行った。鼻がいいなと思いながらわたしがついていくと、鍋の蓋を開けて中身を覗いている。
「おー、うまそー」
そう言うと手慣れたように戸棚からマグカップを出し、野菜スープをそこに入れた。引き出しからスプーンを出してさっさとテーブルの席につき、スプーンで二、三口飲む。そのあとはマグカップをあおり、テーブルに置かれた時には中身が空になっていた。そしてそこにスプーンを入れる。
それほど腹が空いていたのだろうかと呆然と立っていると、ギダはわたしを見ながら自身の左隣の席を軽く叩いた。わたしがさっき座っていた席だ。どうしようかと迷っている間も、彼は肘枕をしながらにこにこと笑ってこちらを見ており、その視線に根負けして隣に座った。
「意外と素直だね。もっと意地の張ったコかと思ってた」
率直な感想を漏らすギダに、わたしは首を横に振った。
「素直じゃないよ。意地も張るし、自分じゃ決められないだけ」
「俺からしたら充分素直だよ。あ、あの貼り紙、あれ、どうしたの?」
「床板が緩くなってるんだって。だから踏まないように板が置いてあるみたい」
「ふーん」
ギダは宙に目を向けていたかと思うと、立ち上がってまたキッチンの出入口へと向かった。あとをついていくと、ギダが回廊に出てその仮置きされた板を持ち上げていた。
「なるほどね」
ギダがつぶやく。見れば、一昨日見た時とはすこし様子が違い、床板にはひびというか折れ目が入っていた。誰かが強く踏んでしまったのだろう。ギダは板を壁に立てかけると、折れ目の入った床板の前に屈み込んだ。しばらく手で触ったり押したりしたあとゆっくりと立ち上がり、壁に手をついて思いっ切り足を下ろした。完全に床板の折れる音がした。
「おおっとっと」
ギダのブーツが床板の下の空間に一瞬入ったが、すぐに引っ張り出された。そのあと何十回か床板を踏みつけ、見事な穴ができあがった。それからまた屈み込み、彼は折れ切れていない端の板を剥がして穴を大きくした。
「明かり持ってきてくれない?」
そう言われ、わたしは慌ててキッチンを見渡す。キッチンの棚の中段にオイルランプがあったので、引き出しに入っているマッチと一緒に持っていった。
それらを受け取ったギダはランプに火を点けると、ひとの体が入るくらいの大きさになった穴にランプを持った手を入れた。回廊の下に空間があるとは驚きだ。わたしも一緒になって見るがランプの火がちらついてよく見えない。室内用のランプは上が開いているので、上から覗くとまぶしいのだ。それでも暗かったはずの空間に光が入ると、遥か下に床と言っていいのか、地面のようなものが見えた。ほこりがゆったりと空間を動いている。机のような影も見え、そこがひとの手によって作られた空間であることはなんとなくわかった。
「へぇ、ここにあったのか」
ギダはランプを持った手を引き上げ、それを回廊の床に置いた。ほこりっぽさに鼻をこすり、無理な体勢をしていた体をほぐすように肩を回した。
「これ、なんなの?」
くしゃみをしながら訊いてみる。ギダは顎に手を当てた。
「たぶん、秘密基地、かな」
何故その結論になったのだろうか。謎すぎる返答に首を傾げていると、ふと背後にひとの気配を感じた。
「這いつくばって、何をされているのですか?」
サジタリスのいつもは抑揚の少ない声に、呆れの色が滲んでいた。いつの間に帰ってきたのだろう。
「いや、面白いもん見つけてな」
小さい男の子が虫を捕まえて得意げにするようにギダは嬉しそうだった。
「そのように穴を広げてしまっては、何も知らないあの方が見たら卒倒しそうですね」
「だろーな。反応を見たいところだが、俺もそこまでワルじゃない。ちゃんと伝えるよ。いやー、調べることが増えたな、こりゃ」
ギダはランプの火を消し、立ち上がって服のほこりをはたくと白の回廊を書斎のほうに進み、白い扉の向こうに消えた。サジタリスは使用されたランプをキッチンの棚に戻していた。キッチンのテーブルにあったマグカップも流しに置き、立てかけていた板も床穴の上に戻した。世話好きというよりは、きちんとしておきたいというような印象を受けた。
二階の自室に戻るかどうか考えたが、応接間に行って窓際に寄った。なんとなく外を見てみるが、今日の空模様は晴れだった。雲が動いていないかと見つめていると、足音が近づき、書斎に行ったはずのギダが応接間に入ってきた。本棚の前に立って背表紙を見ては取り出し、頁を繰る。
「そういやコーラルさ」
まさか話しかけられるとは思わず、わたしは驚いてまじまじとギダを見た。彼は本から目を離さず、閉じた本を戻し、また別の本を出していた。
「自分がそういう力を持ってるのって、どう思う? 面白い? 面倒?」
「持ちたくなかった」
わたしの中ではずっと思っていたことだったので、こたえはすぐに出た。
「どうして?」
「魔物なんか呼べても、いいことなんてひとつもない。周りに迷惑がかかるだけ。呼びたくて呼んでるわけじゃないのに」
学舎にいた頃にも、魔物を呼んでしまったことが何回かあった。その度に先生や生徒のみんなが、協力して魔物を追い払ってくれた。わたしを理解してくれていた。だからわたしは安心して日々を過ごせた。この町とは雲泥の差だ。わたしはあの学舎にずっといるべきだった。しかし二年前に修業の年を迎えてしまい、この町に戻ってくるしかなかった。
「確かに魔物を呼ぶことがコントロールできないのは面倒だな。でももし訓練でそれができるようになったら? それでも要らない?」
「要らない」
この力自体が忌々しい。わたしはただふつうに暮らしたいだけだ。頭に生えている白い角を見てしまうたびに、自分がただの人間ではないと嫌でも思い出す。
「俺だったら喉から手が出るほど欲しいね。キミがその力をくれるっていうなら、喜んでもらうのに。ほんと、世の中は不公平だ」
一瞬静かになった空間に、頁を繰る音が響く。
「いまキミ、どこの部屋使ってるんだっけ」
ギダが顔を上げてわたしを見た。
「キッチンから上がったところの、小さいほうの部屋」
「ああ、そうか。じゃあいいや」
「なに? どうしたの?」
「いや、すこし前までいた〈メイト〉の持ち物が、ほかの部屋で見つかってないかと思って」
「あのお姉さんの?」
「そう」
彼女が使っていた部屋は、彼女がいなくなってからほとんどそのままの状態だった。入ったことはあるが、持ち物をいじるようなことはしていない。
「あの部屋にあるもの以外は、知らない」
「そっか。残念」
ギダは寂しそうにそう言った。わたしはどこか不思議に思いながら彼を見返した。
「あのお姉さんのこと、知ってるの?」
「もちろん。好きだったから」
突然の告白に、変な声が出た。
「いいねー、その反応」
ケタケタと笑い、ギダが本気なのか判断がつかない。
「えっ、ほ、本当に?」
言いながら、自分が告白をされたわけでもないのに顔が熱くなった。
「俺、必要のない嘘はつかない主義だから」
ギダはさらりと返して、持っていた本を戻した。
「彼女は俺をそういうふうには見てなかったみたいだけどね。いなくなってもう一ヶ月くらいか。時間が過ぎるのはあっという間だ」
それから本棚を見たが、まるでその向こう側を見ているような眼差しだった。
「なんで〈メイト〉っているんだろうな……」
疑問ではなく、わたしには嘆きのように聞こえた。




