嵐、来たる 5
もう一時間もしたら日が暮れるのだろうが、日の当たらない町は重く白ばんで見えた。小雨のせいで一気に冷えてきた気がする。
小雨というのは、実に中途半端な存在だ。何故なら気にするにしてはとても些細なことで、かといって顔に当たってくるのだから気にしないわけにはいかない。特に、傘を差すほどでもない、というのが曲者だった。
濡れた石畳の上を歩く足は、昨日よりも重い気がした。つい昨日来たばかりの家の前に着く。あの時はここに来た時点で空も町も闇に覆われていた。私は第六地区の本部の扉の前に立ち、敲き金を打った。
「はい。あ、ノア隊長!」
間もなく扉が開き、嬉しそうな声が上がった。うちの本部に何度か来ている青年のトマスで、昨日も来ていた。
「どうしたんですか? うちの本部に来るなんて」
彼は柔らかい笑みを浮かべ、淡い金髪を揺らしながら首を傾げる。
「ニジェットはいる? 話がしたいんだ」
「あ、はい。隊長ならいますよ」
どうぞと中に案内されそうになるが、私は手を上げて遠慮した。トマスは残念そうに眉をひそめたが、部屋の向こうにいたニジェットに声をかけた。
「隊長。ノア隊長が話をしたいそうです」
ニジェットはソファーから顔だけをこちらに向けると手を上げた。それから立ち上がる。
「そういえばコーラルさん、今日、市場の近くでお見かけしましたよ」
トマスの言葉に、キッチンに食材が置かれていたのを思い出す。彼女は律儀な性格らしく、買い物といい庭掃除といい、自分から色々とやってくれる。有り難いのだが息が詰まらないかと心配してもいる。
「いつも彼女が買い物をしてくれているんですか?」
トマスは他意のない様子で訊いてきた。私は一瞬、どうこたえようかと悩んだ。
「まあ、うん、そうだね。すごく助かるよ」
「いい子ですね、彼女」
トマスが柔らかく笑っていると、かつかつとブーツを鳴らして歩いてきたニジェットが玄関脇にある剣を取り、ぐいぐいと私を押しながら外に出たあとトマスに振り向いた。
「できたらついでに見回りに行ってくる。あと頼むわ」
「はい」
トマスは穏やかに返事をし、扉を閉めた。ニジェットはマフラーを巻いてからジャケットを羽織り、しばらく歩いてから口を開いた。
「トマスには言っといたから、おまえんとこにはあんま行かなくなるはずだ。世話かけたな」
「すみません、助かります。対応にすこし困っていたので」
私は苦笑しつつ、これで見回りの時間がずれることもなくなるだろうと思った。
「で? 何かあったんだろ?」
「私のところに来た手紙と同じものが、私の部下にも届いていました。筆跡もほぼ同じでしたし、同一人物だと思います」
「なるほどね。相手さんに家庭の事情は筒抜けってことだな。てかおまえ、自分とこの見回りは?」
「部下に任せました。見回る範囲が狭いとこういう時は助かりますね。マシュウには皮肉を言われそうですけど。昨日話していたふたりの女性の家にはもう行ったんですか?」
「いや、まだだ。行ってみるか?」
「はい。確かめたいことがありますし、チェルニーの本部にも行く用事があるので」
「あー、マシュウに押しつけられたやつか。じゃあ、さっさと行くか」
私たちがそう言って歩き出そうとした時、背後に気配を感じて私はすぐさま振り向いた。咄嗟に左手を上げていなければ、いま頃顔のどこかから血が出ていただろう。掌よりは小さい石が、手袋をつけた左手に衝撃を伴って収まっていた。
ニジェットは目を見開き、路地に逃げた影を目にも止まらぬ速さで追った。私は左手の痺れが治まらないうちから彼女を追った。路地に入った時、一瞬だけ彼女の後ろ姿が見えたがすぐに見失った。薄暗く湿った路地の途中で立ち止まる。前髪から垂れる雫を払い、冷静に考えた。こうなってしまえば合流するのは難しく、先程の通りに戻って待つしかないだろう。聴覚はもとより嗅覚も鋭い彼女なら私を見つけるのは容易いはずだが、匂いが流されてしまう雨の日は別だろうか。どうにも悩んでしまう。
その時誰かの声が聞こえた。思ったよりも近く、私は慎重にあたりを見渡して耳を澄ませる。十歩先にある右手側の路地に向かうと、姿は見えないが物音が聞こえた。左に湾曲している路地の先だ。
「放せよっ! クソネコババア!」
大人なら礼儀や建前で絶対に口にしない罵倒だ。
「すこしは黙れ! クソガキ!」
同程度の言葉で返しているニジェットは大人であることをやめたようだ。気持ちもわからなくはない。
「よぉ。捕まえてやったぞ」
こちらがニジェットの姿を確認すると、彼女は口の端を上げた。目は笑っていない。逃げようと抵抗している誰かの腕を右手で掴み、引っ張っている。
「こいつ、あれだろ。おまえが預かってる角っ子の」
ニジェットが捕まえている金髪の少年は、コーラルの友人だった。いまも交流があるのかどうかはわからないが、少年は私を見るとものすごい形相で睨んできた。
「放せよっ! この野郎!」
ゼギオン少年は諦める様子がなく、ニジェットの足を執拗に蹴った。耐えかねたニジェットが歯を食いしばり、げんこつで思いっ切り彼の頭を叩いた。足への攻撃がようやく止んだ。
「おまえ、警備隊に石投げといて、ただで帰れると思うなよ」
ニジェットが低く唸った。本気で怒っている。
「確かおまえ、前に〈メイト〉攫った上にボヤ騒ぎも起こしたよな。そろそろ牢屋にぶち込むぞ」
「ぶち込めるならぶち込めばいいだろ! バケモノ野郎!」
さらにげんこつ。
「言ったな? じゃあお望み通り入れてやる。暴れずについてこい。おまえの親にも連絡しといてやるよ、ゼギオン・イプセン」
ニジェットが掴んでいた手を離すと、ゼギオンは二、三歩後ろによろめいた。
「なんだよ。来る気ないのか? とんだホラ吹き野郎だな」
その場から動かないゼギオンを、ニジェットは挑発しつつ冷徹に見下ろした。
「……ニジェット。もうそのくらいにしておいたほうが」
彼を庇う気はさらさらなかったが、この悪い流れはできれば止めておきたかった。もちろんそれが徒労に終わることは、彼の目つきでわかってはいた。
「おまえに言われたくねぇ。人間じゃないくせに、なんでこの町にいんだよ!」
こう言われるのもなんとなくわかっていた。だから思っていたよりも驚かないで済んだ。しかしそれだけだ。
「おれの親父は人魚に殺されたんだ! どいつもこいつも、力を持つ奴はろくな奴がいねぇ。どんだけ周りが怖い思いしてるか、全然わかってねぇ! おまえらみたいなのがいるから、おれたち人間は安心できないんだ! この町から出てけ!」
彼も他種排斥論に賛成なのか。いや、人魚がことさら憎いというだけで、その余波が他種族に及んでいるだけか。彼にとって私たちは全面的に悪なのだ。
「君は、剣を扱ったことはあるか?」
あまり感情が出ないように訊ねる。私はゆっくりと剣を抜いて、剣先を何もこたえない彼に向けた。
「剣を扱うことができれば、敵を攻め、自分や誰かを守れる。能力や才能は、この剣みたいなものだ。君の言う通り、能力や才能は使い手によっては誰かを傷つけることになる。でもそれは君が剣を手にした時となんら変わらない。私が人間じゃなかったとして、人間にはない力で君を殺すのも、君が剣で私を刺し殺すのも、外側が違うだけで中身は同じことだ。私はそう考えているが、君はどう考えるだろうか」
ゼギオンは私を睨み上げたまま、何も言わない。恐らく私の言葉を屁理屈だと思っているだろう。私はゆっくりと剣を鞘に仕舞った。
「私は警備隊として、この町での責務を日々果たしている。君を含めた町のひとたちを守るのが私たちの仕事だ。誇りも持っている。それを人間じゃないからという理由で貶されるのは、いくらなんでも理不尽だ。いきなりこんなものを投げられて腹が立たないひとはいない」
ゼギオンの足元に先程の石を放り投げる。
「それでも私が憎いなら、決闘でもなんでも受けてあげるよ」
そう言ってから、大人げないな、と胸中でつぶやいた。




